伊能忠敬邸 計算機の話題登場 <C138>
やっと計算機の話しが登場します。
ここに至るまでの寄り道が多過ぎました。
■ 文化十四年、6月23日(1817年8月5日)午前、深川黒江町
昨夜早目に休んだ結果、非常にスッキリとした目覚めだった。
朝目覚めたのは、丁度朝食の直前だった。
離れの座敷に箱膳が並べられるが、五膳と昨日より一個減っている。
正面にいた高橋さんのところに伊能忠敬さんが着席し、昨日の伊能忠敬さんの場所には子供が座った。
「高橋さんは本日お役目の日ゆえ、昨夜お帰りになられたのじゃ。
日下さんは明日からこちらに逗留しやすいように、今日中に引越しをするよう、やはり昨夜麻布へ戻られたのじゃ。
そして、末席におるのが孫の忠誨じゃ。
まだ12歳と元服前じゃが、息の長い活動には打って付けと考え、早速この席に加えた。
宜しくお願いしたい」
「伊能忠誨で御座います。
よろしくお願い申し上げまする」
妙見菩薩様へ向い、丁寧にお辞儀をしている。
「俺は今数えで19歳です。
30年、40年後には7歳くらいの年の差はどうということもないと思います。
こちらこそ宜しくお願いします」
朝食は一汁二菜だが、なんと驚くことに卵焼きが付いているのが目に入った。
挨拶もそこそこに、伊能翁の「頂きます」という声で一斉に食べ始める。
『八兵衛さん、卵焼きなんてどの程度食べることがあるのかな』
「健一様、お正月の祝い膳で見たことがある程度です。
こんなご馳走が頂けるなんて、ワシは本当に運が良いです」
量は無いが、出汁巻き卵の卵焼きの一片だ。
八兵衛さんがこの一片を口に入れるのに併せ、味覚・食感を俺の中に取り込んだ。
『卵焼きが美味い』
「そうですねぇ、本当に朝からこんなにご馳走なんて、一体なんなのでしょうか。
ひょっとして、お孫さんがいるから、なのでしょうかねぇ。
だとすると、これからご馳走三昧てな訳ですかい」
『下衆なことを考えるのではない。
試されているのだぞ』
八兵衛さんがご馳走にニヤけていた顔を引き締めるのが判った。
ひょっとして忠誨さんは病弱なのか。
ならば、食事後にちょっと見てみよう。
ひょっとすると、昨夕話した「脚気」かも知れない。
そんなことを考えている内に朝食は終わった。
「今日は、高橋さん、日下さんが不在なので、昨日の歴史の続きではない所の話をしましょう。
この離れではなく、本宅で行われている地図の編纂の仕事場を見学でもしませんか。
申し訳ないが、間宮様、飯塚さんと八兵衛さんを本宅の作業場にご案内して、編纂作業を両名に説明して頂きたい。
拙は、忠誨にここの事情を説明しておきたいのじゃ」
伊賀七さんも俺もこの提案に了解した。
間宮さんの先導で、伊賀七さんと俺=八兵衛さんが本宅の作業場へ向う。
作業場では、十人位の人が机に向って一生懸命ソロバンを弾いている。
「ジャー!パチパチ、パチパチ!ジャー!」という音が響き、計算結果を記した紙が次の担当者の未決箱へ送られる。
サーバ室の音ほど大きくはないが、結構な騒音の中、黙々と計算が続いている。
これは、観測地点の座標を確定するための計算で、これを間違えることがないように、複数人が同じような工程で検算している。
複数の観測データを重ね合わせることで、座標の精度を上げることをしており、計算の結果得られた座標の差異が誤差範囲内と判断されれば、その地点の座標が確定したとして扱う。
座標が1点確定すると、地図の紙にやっと点が一つ打つことができる。
この座標点を順次紙にプロットしていくという地道な活動を沢山積み上げていき、やっと海岸線を描き出していくのだ。
計算を多様する場面をここに見つけた。
いかに正確に計算するかが勝負だが、人の熟練度に頼る部分も大きく、なかなか進まないというのが実態のようだ。
「伊賀七さん。前にここに来る道中『ソロバンか電卓か』という話をしましたが、こういった場面にこそ、ソロバンでない計算機があると役に立つとは思いませんか。
ハンドルを回すだけで、加減乗除の四則演算ができる機械があると、ここでの苦労はかなり軽減されると思います。
それに、ここで行われている計算の順序は、それぞれ数値は違うものの手順は同じように見えます。
伊賀七さんが発明した九段重ねのソロバンに近い考え方が使えるのではないでしょうか。
機械式の計算機を複数ならべ、順番にハンドルを回していけば結果だけ出るという仕組みが提供できれば、ここにいる高度な能力を持った人を、単に計算結果を出すということではなく結果からもっと重要な判断を行う人として使うことができますよ」
伊賀七さんは「うむぅ~」と唸ったきり、一番近くで一心不乱にソロバンで計算をしている人の手元を見つめている。
「それはどういった話でしょうか」
間宮さんが目ざとく割り込んできた。
俺はこの作業場の状況を見て、思わず話しをしてしまったのを八兵衛さんがそのまま中継してしまったが、離れの間を離れている間は他の目もあるので口を出すべきではなかったことに気づいた。
「ワシがご隠居様と一緒に谷田部から江戸に向う道中、妙見菩薩様とご隠居様の間で計算機の有効性について話しをされておった。
その時は『計算を集団で行う場面がそうそうある訳ではない』ということで落ち着いていたのじゃが、今目前にその場面を目にしてしまったので、ワシは思わずその時の妙見菩薩様のおっしゃられた内容を口走ってしもうた。
この話については、離れでもう一度説明させてくだされ」
八兵衛さんは機転を利かせて、上手く話しを合わせてくれた。
作業場での計算の内容については、間宮さんが大体判るというということで、作業場の忙しい雰囲気だけ味わって、早々離れの間に引き上げることになった。
我々が離れに戻った時、伊能翁は言った。
「お早いお戻りじゃが、何かありましたかな」
「作業場での計算を見て『ソロバンでない、計算ができる機械』という話が出ました。
この話は、飯田伊賀七さんとはすでに里でもしており、江戸に来る道中でもその有効性について話しをしていたそうです。
作業場で話しを続けるのもどうかと思い、早々にこちらに戻った次第です。
さあ、計算できる機械とはどういったものかを、ご説明ください」
間宮さんは、座敷の定位置に座ると、伊賀七さんへ向い説明を促した。
「里で聞いた原理は、足し算だけなのですが、歯車を使ってこれを組み合わせ、歯車を回すことで計算を行わせる機械です。
歯車を動かすという動作が、ソロバンでいう指で珠を弾く操作にあたります。
ソロバンとの違いは、熟練が不要で、設定さえ間違えなければ結果は保証されるという点といえます」
「具体的にどんなものか、お教え頂けますか」
伊能翁は更に促した。
足し算の原理しか説明していない伊賀七さんでは、この説明は無理だ。
俺は機械式計算機の傑作とも言える「タイガー計算機」を念頭に置き、その外観と使用方法の概要を説明することにした。
「ワシが絵を描いて説明します」
1つの設置ダイアルと、2つのインジケータダイアルを絵に描いた。
あまり上手い絵ではないが、桁ごとに数字を与えるレバー、結果を得る表示部分、仮置きした数値を見る部分があり、計算を行うハンドルがわかるようにした。
不細工だが、イメージが伝わるように細かく書いたところで、これは長くなりそうと思った伊能翁が一息つけることを提案し、昼食にすることになった。