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伊能忠敬邸 離れの間 歴史の整理 <C136>

もっぱら健一視点での記述です。

■ 文化十四年、6月22日(1817年8月4日)午後、深川黒江町


 高橋さんの獄死の歴史暴露から、この会の今後の体制を見直すという方針を合意したところまで行ったところで、丁度お昼となった。

 この日の昼食は、握り飯の表面に味噌を塗って炙ったものと、お茶である。

 昨日は、早朝から出てくる方の腹ごしらえを考え、普通の朝食並みに近い準備をしたが、本来は間食に近いもので済ますということの様だ。


 この昼食の間に、伊能さんが提案し皆が合意した体制について考えた。

 結局、幕府の中に主に海外との関係を専ら取り扱う部局相当を設けてもらい、そこへ未来情報を流し込む方向に舵を切るのだ。

 まあ、幕府という組織が相手なら、急激に事が進むことはない。

 それなりの見識がある大名の御殿様自身に渡りをつけておく必要がある。

 せめて、10年後~20年後には老中になる人に粉をかけておくべきなのに、誰が老中なのか・なるのか、若年寄は誰なのかという知識が俺の中に全くない。


 将来のことではなく、今緊急に対処する必要がありそうなのは、松前奉行所で蝦夷・樺太・千島の実効支配を固めること位だろうか。

 こちらは、間宮さんが奉行所に居ることから、先を見据えた動きは取れるに違いない。

 なら、腰を据えて幕府の中に味方を作っていけばよい。

 問題があるとすれば、この体制を一体いつまで続けるのかということだ。

 この屋敷にいる伊能さんはともかく、高橋さん、間宮さん、日下さんはいつまでもここにいる訳にもいかないだろう。

 伊賀七さんも里から離れている訳にもいかない。


 食事が終わった時点で、俺は伊能さんに話しかけた。

「伊能さん、幕府の中に仲間を作る方針はいいとして、どれ位の時間尺度で考えられていますか。

 高橋さん、間宮さん、日下さんも、いつまでもここで逗留するという訳にはいかないでしょう。

 また、伊能さん自身もご高齢ですし、お体の具合があまりよくないとお見受けします」

 実は73歳で亡くなったということを知っており、もう来年には危ないのだ。

 こちらは天命ということもあり、避ける手段もないことから告知はしていない。

 ただ、その死は3年間も伏せられ、地図が完成・披露されてから喪が発せられたという話も伝わっている。


「伊能さんは、お孫さんの忠誨ただのりさんをこちらの活動に据えることを言われました。

 まだ12歳ですが、妙見菩薩様のお見立てでは1858年の「日米修好通商条約」の中身が鍵ということから、事が成就するときには53歳で丁度良いとお考えです。

 私も麻布に広げた日下塾を畳んで、深川に移ることを考えています。

 そして、頭の柔らかい若い人をこの活動に加えていきます」

 俺が意識を落している間に、大人達の間ではこの難事を乗り切るための長期的な視野での人選まで頭の中では出来上がっていることに大変驚いた。


「高橋さんはさすがに立場上休み続ける訳には行きませんが、私は結構融通が利きます。

 伊能邸で病気になりお世話になっていて、暫く出仕できない旨を松前奉行にすでに届け出しています」

 間宮さんもこの辺り抜け目なく手配している。

「天文方は寺社奉行配下なので、幕府内での意見は弱いです。

 なので、日本地図のお披露目をする時が唯一の機会と考えています。

 まずは、この時点で地図の扱いが国家機密とならないように工作していきたいと考えます」

 どうやら、伊能さんを中心に色々と動きが始まっている。


 俺は非常に失礼なのを承知で、心配していることを聞くことにした。

「伊能さんが中心になって活動するように見受けられますが、伊能さんに万一のことがあった場合、どなたが中心となって活動されるのでしょうか」

「その場合は、私、日下が引き継ぎます。

 そのことも含めて、近々この近辺に引越しをしてきます」

「大変失礼しました。

 短期と長期の両方を睨んだ動きをされることで安心しました。

 それでは、これから海外関係の状況を順次思い出していきます」


 大変失礼な発言をしてしまったことを誤魔化すように、日本史で覚えているこの時代の対外関係の整理を急いで始めた。

「俺がこの時代でロシアとの関係ということで覚えているのは、そう多くではありません。

 ゴロウニン事件、日本人では大黒屋光太夫と高田屋嘉兵衛、ロシア側はラクスマン・レザノフという人の名前ぐらいしか出てきません。

 あとは、1850年代のプーチャンと川路聖謨かわじとしあきらですか。

 こういったことを、できるだけ漏らさずに書き出してみましょう」


1792年、ロシア、ラクスマン、根室来航、大黒屋光太夫帰国

1804年、ロシア使節、レザノフ、長崎来航、通商の要求

1808年、イギリス軍艦、フェートン号、長崎侵入、薪水食料要求・オランダ船拿捕目的

1811年、ロシア、ゴロウニン・ディアナ号艦長、国後島、日本が逮捕し松前に幽閉

1812年、ロシア、高田屋嘉兵衛、国後島、ロシアが連行

1813年、ロシア、ゴロウニン、国後島、釈放

1817年、今


 ここまでは、間宮さんの協力もあり、スムーズに書き出すことができたが、ここからは俺の記憶だけが頼りなのだ。


1825年、幕府、異国船打払令

1828年、幕府、シーボルト事件

1837年、アメリカ、モリソン号、浦賀来航、砲撃

1840年、清、イギリスに大敗、香港割譲

1842年、幕府、異国船打払令を薪水給与令に改める

1853年、アメリカ軍艦4隻、ペリー、浦賀来航

   同年、ロシア、プチャーチン、長崎来航

1854年、アメリカ軍艦7隻、ペリー、浦賀来航、日米和親条約締結

   同年、ロシア、日露和親条約締結、千島列島国境確定

   同年、イギリス・オランダ、和親条約締結

1856年、アメリカ、ハリス、下田、米総領事として来日

1858年、アメリカ、日米修好通商条約締結


 一応、これだけのことを書き出してまとめあげた。

 残念なのは、海外からの干渉が1837年まで20年間無いことなのだ。

 何か、もっと直近にイベントは無かったのか。

 アメリカとロシアだけなのか、頭の中をもっと棚卸ししよう。

 イギリスは何かしてこなかったっけ。


1818年?、イギリス、ゴードン、浦賀来航、通商を求めるが拒絶


 どうにかこれを思い出した。

 来年中もしくは数年内に、浦賀にイギリス船が通商を求めてやって来ることが未来の歴史と合致していることを客観的に示す証となるだろう。


「皆様、幕府はなぜこんなにも海外とのかかわりを拒絶するのでしょうか。

 俺には、鎖国という方針を堅持する理由が判りません。

 幕府を開いた徳川家康には、西洋人の顧問もいました。

 オランダ人のヤン・ヨーステン、イギリス人のウィリアム・アダムズが居たと聞いています。

 この両名を顧問にして、当時の情勢を大所からつかみ方向を決めていたはずです。

 祖法で禁止されているとして、海外とのかかわりを検討すらしないのはどうかと考えます」

 多分、今俺の言ったことは、鎖国という国是を前提とした考え方に風穴を開ける作用をもたらすはずだ。

 ここまでの作業で、夕闇が迫る時刻となってきた。


記憶だけでは書けないところがあり、教科書や便覧を見てしまってます。

覚えてないことは書けないのです。

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