伊能忠敬邸 離れの間 幕末までを説明 <C132>
サブタイトルにあるように、幕末までの流れをさらっと説明するつもりでしたが、最後の数年にぎっちりと詰まっていて、どうもうまく説明できません。なんで、幕府がお終いになっちゃったのか、訳もわからないうちに、新政府に切り替わった感じです。日本人って、こんなにあっさり乗り換えることができるのかという驚きを覚えます。
ここ江戸では田舎の農家と異なり、朝・昼・夕の三食が普通となっている。
ただ、昼食は極めて軽く、一汁一菜である。
一服ということだが、茶室にだけ篭って居ては長丁場をこなせない、ということなのか、離れの間に6名が活動できる場所の準備を整えていた。
その離れで、皆揃って昼食を頂く。
一番上座に妙見菩薩を載せた三方を置き、なぜかその右下側に八兵衛さんが座らされる。
八兵衛さんの横に伊賀七さん、その隣に日下さん。
向かい側に、高橋さん、間宮さん、伊能さんの順に座る。
年寄りほど下座に近い場所で統一されているが、八兵衛さんは居心地が悪いようだ。
客用の箱膳が並び、女中さんが御櫃を抱えてお代わりを待っている。
白米ご飯の山盛りと、具のない味噌汁、プラス沢庵。
谷田部の朝食と同じだが、ご飯が真っ白な白米になっているところが違う。
正直、白米が美味い。
女中さんが居るので、俺の事自体は一切でない。
しかし、谷田部での天灯・天篭の話しが伝わっていたのか、間宮さんから質問が出た。
「谷田部藩の里で、白い光が20基空に昇っていったという話を聞いたが、何があったのかな」
「そういった噂は随分早く伝わるのですね。
私の里でした『熱気球』実験です。
実験用に大小2基作ったのですが、これが空に浮かび上がる様相を見て、里の鎮魂を思い浮かべました。
実はこの『熱気球』には『天灯・天篭』という名前がもう付いています。
それで、里の皆を集めて、供養と称して夕闇に空へ飛ばしたのです。
これは、妙見菩薩様からのご指導ですが、人も空へ浮かせることができるそうで、そのための実験を里で進めようとしています。
ただ、こういったものを実験して実用化するには、結構費用がかかるので、その工面に苦労しそうです。
あと『熱気球』については、この場ではなく別な場でお話できると思います」
それでこの話は終わり、そして昼食も終わった。
客用の箱膳が下げられ、今度は離れの間から徹底して人払いされる。
「では、まず200年の大きな流れからお話くだされ。
間宮さん、記録をとっておいてくだされ」
俺は思い出しながら、ポツリ・ポツリと行きつ、戻りつしながら話し始めた。
受験用にはキーワードと年号しかないので、この行間を埋める作業が要るのだ。
「あまり正確ではありませんが、西暦と何が起きるのかの名前を挙げていきます。
主に海外と幕府の対応のことで、今が西暦で1817年ということから、あと何年後かということを理解してください」
「まず、国内では、今から30年前に天明の飢饉が起きていますが、1833年から1839年にかけ、足掛け6年間も飢饉が襲います。
天明飢饉の対策がきちんとできている所では、死者が少なかったようです。
ただ、この飢饉で幕府や藩、農村はかなり疲弊しました。
幕府も倹約令など色々と対策を打ち出しましたが、あまり効果はありませんでした」
「ついで海外関係です。
イギリスのフェートン号が長崎に侵入して狼藉を働いた事件が1808年に起きていますが、この影響から1825年幕府は『異国船打払令』を全国の大名に出します。
1837年に日本の漂流民を載せたアメリカのモリソン号が浦賀に来航しますが、これを『異国船打払令』に従い砲撃して追い払いました。
海外のことですが、1840年に阿片という麻薬が原因でイギリスと清が戦争を行い、清が大敗します。
この戦争の結果、清は香港をイギリスに割譲しました。
大国清が大敗したことから、幕府は1842年に『打払令』を『薪水給与令』に改めました」
超大国と思われている清が、イギリスに大敗したことを皆驚いている。
しかし、俺は幕府が相応の実力も見極められず『異国船打払令』を出したことが問題に思っていた。
「1853年、アメリカのペリーが蒸気で動く軍艦4隻を引きつれ浦賀に現れます。
翌、1854年にも軍艦7隻で浦賀に来て、軍事的な圧力をかけ、幕府は『日米和親条約』を結びます。
ロシアについても、アメリカと同じく1854年に『日露和親条約』を締結し、国境を択捉島までを日本領、得撫島以北をロシア領と定まりましたが、樺太については領有を決めるに至りませんでした。
ここも非常に残念なところで、今からでも実効支配に力を入れておけば、有利に交渉ができたところです。
この千島列島も樺太も、気候は厳しいですが、様々な資源が豊富なところでもあり、特に樺太は地下資源を考えると、是非にでも押さえておくべきでした。
200年後は、その後の戦争の影響もあって、樺太はロシア領で確定しており、国後島・択捉島はロシアに実効支配されています」
ここまでの経緯の説明の中で、俺はあえてシーボルトの鳴滝塾・シーボルト事件・蛮社の獄という3個の入試必須のキーワードを隠した。
大雑把には以下の4点だ。
オランダ商館の医師でドイツ人のシーボルトが長崎に私塾を開き、蘭学を志す人が大勢集まったこと。
シーボルトが商館長に随行して江戸に来た時に、西洋の学術書や知識と伊能忠敬さんが作成した日本地図の写しを交換したこと。
1828年にシーボルトが帰国する際、台風で船が座礁し、日本地図を持ち出そうとしていたことから、天文方の方々が投獄されたこと。
モリソン号事件を契機に、著名な蘭学者が幕府の鎖国政策に異を唱え始め、これを幕府が弾圧したこと。
隠したかったのは、11年後のシーボルト事件で高橋景保さんが獄死していることなのだ。
「1856年、アメリカと『日米修好通商条約』を結びます。
実はこの内容に大きく問題があり、以降、この内容改正を巡って日本は苦労を重ねることになります。
そこについては、別途説明させてください。
また、同様の条約を、ロシア・イギリス・フランス・オランダと結ばざるを得ない状況でした」
俺は、この不平等条約が、この後の困難な状態を招いた根源と思っている。
条約改正は、鹿鳴館なんて馬鹿げた展開や政府を空けての渡米・渡欧での苛めなどすき放題されて、なんと日露戦争の後までかかったのだ。
俺がやたらこの辺りの歴史に詳しいのは、この不平等条約が非常に悔しいと感じたからなのだ。
「この問題だらけの条約は、大老となった井伊直弼が天皇の勅許を得ないまま締結したことから、国内では大きな問題になります。
また、この時期に将軍の後継を巡っての暗闘もあり、安政の大獄と呼ばれる弾圧も行われます。
『天皇の勅許』有無から、幕府より天皇の権威を上位とする思想が浸透します。
その後、京の治安を抑えきれない幕府の権威は低下していきます。
禁裏での変事もおき、1864年の長州征伐が行われます。
この辺りから、国内では多くの動きが一斉に起きており、整理しての説明はできないのですが、1866年に第十五代将軍として水戸家出身で一ツ橋家の養子となった慶喜が成り、大政奉還・王政復古号令という流れから、鳥羽伏見の戦いという西国四藩連合との戦となり、1868年に新政府樹立・江戸城無血開城となって江戸幕府は終焉を向えます」
凄い荒い内容で、記憶に頼っているため、間違いもあると思うが、まあ誤差の範囲内か。
この話を、皆強張った顔をして聞いている。
とりあえず、幕末までの50年分は終わった。
記憶主体でキーワードを拾っているため、いろいろ間違いがあると思いますが、そういった間違いも含めてお話が進んでいると思ってください。どうせ歴史が変わってくのです、と開き直りします。
次話のアップはちょっと日が開きますのでご容赦ください。