伊能忠敬邸 茶室 <C131>
江戸での生活が始まりますが、まずは事情聴取からです。
ちょっと短いです。
■ 文化十四年、6月21日(1817年8月3日)深川黒江町
たかだか17歳の高校3年生である俺の前に、当代一流の知恵者が四名顔を揃えてるのだ。
この方々が普段からヒマでいる訳がない。
とても忙しい中、わざわざこの聞き取りのために集まっているのだ。
きっと歴史にも触れることがあるだろうが、この部分について、俺の考えをまず説明しておきたいと考えた。
その上で、隠すことなく知っている限りの歴史知識を出すしかない。
もっとも、日本史については、せいぜい高校入試レベルで、知らないものは知らないと言うしかない。
下手に隠したり、嘘をついても、この方々は矛盾を見つけて責め立てるだけだろう。
小細工は、時間の無駄でしかない。
「俺は、今から200年の未来にいた八兵衛さんと同じ歳の人間で、林健一といいます。
元いた時代で事故に遭い、意識と知識を持ってこの時代の八兵衛さんに憑依しました。
200年先の時代では、教育が重視されていますが、俺はごくごく平均的な生徒で、勉強はあまりできる方ではありません。
このため、未来知識といっても基本的なものや断片的なものに限られます」
「俺が持つ知識の中で、特に歴史に関するものについては、その取り扱いに細心の注意が必要です。
ほんの小さなことで、歴史自体が変わってしまうことがあり得ます。
例えば、ほんのちょっとした加減で、本来生きるべきでない方が生き残り、代わりに別の誰かが亡くなるということが起きると、その方々の子孫がガラッと入れ替わり、全く違う影響が現れる可能性があります。
些細な部分でも一度変わってしまうと、そこから先は俺の持っている知識は概ね無駄になります」
とりあえず、今まで考えてきた原則を皆の前で示した。
伊能さんは、ゴホゴホと咳をしながら発言をする。
「なるほど、拙が睨んだ通り大変なことですな。
拙は、このお方が本当のことを言っていると信じますぞ。
これから先にどんなことが起きるのかを、概略とは言え知り得る立場というのは、いつでも非常に危ういことですな。
であるからこその慎重さだと思いますぞ。
伊賀七さんが文に書けなかった事情も判りますぞ。
それで、この半紙だったのですか。
数学者の日下様にも見て頂いたが、本邦とは異なる流儀・体系で計算をされていることからも、この背景には何があるのかを皆で考えていたのですぞ」
日下さんが発言を引き取る。
「私が不思議に思ったのが『=』という記号です。
半紙に書かれた記号を読み解くと、この『=』を中心に計算を行う作法があると見ました。
歴史を直接扱う危険性は判りますが、こういった学術・技術の概念はいずれ取り込まれた結果として、健一様の中に教育で培われているので、今得てもそう大きな問題ではないかと考えます。
考える基礎をご教授下さればと、お願い申し上げます」
「それより、今の世界情勢をお教えください。
ロシアからの脅威が蝦夷地に迫っており、直ぐにでも対応が必要な状況なのです」
間宮さんが強引に発言を引取り、悲痛な叫びを上げた。
確かに、ゴロウニン事件というキーワードと、ロシアにからむ日本人として大黒屋光太夫と高田屋嘉兵衛の名があがっていた。
ロシア人は、ラクスマンとレザノフという2名の名前に記憶がある。
後は、ペリー来航・日米和親条約時のプチャーチンと川路。
ペリー来航の時期は1850年代なので、これは関係ないだろう。
年代と事件内容を覚えていないので、日本人2人とロシア人3人の名前を挙げて、事情を確認するしかなさそうだ。
この問題は確かにこの時代の外交問題で対応がややこしかったケースだ。
「皆様方、伊能翁の言われるように、健一様が未来の知識を持っておられるなら、聞くほうもきちんと整理した上で問わないと収集がつかなくなります。
ここは、取り扱いが難しいということですが、まずは、これからどういった歴史を歩むのかを聞いてはどうでしょう」
やはり幕府官吏の高橋さんはこの先がどうなるかが気になるようだ。
「皆様、この場で健一様から聞いた内容やこの場で出たご意見については、大変なことになりますので、他へ一切漏らさないようにお願いします。
私が谷田部の里で聞き取った話しですが、大樹様=徳川家を将軍とする幕府は、主に海外との関係から政治的失敗を繰り返し、その結果弱体化してあと50年後に政権を放棄します。
そして次の戊辰(1868年)に内戦が起き、新しい政権が発足します。
新しい政権は、薩摩・長州・土佐・肥前を中心とした連合政府のようなものになるそうです。
それ以降の150年の歴史については、まだ聞いておりません。
また、健一様はこの海外との関係のところで幕府が失政をしないように、日本国として大損しないように一度きりにはなるが介入をしたい、との希望を申しておりました」
伊賀七さんの『50年後に徳川家が将軍でなくなる』との発言を聞いた瞬間、皆固まったのを八兵衛さんの目は捉えた。
その瞬間『長い一日になりそうだなあ』と考えていた。
誰も何も言えなくなって、しばらくが経った。
やっと、という感じで再び伊能さんが、ゴホゴホと一段と大きな咳をしながら発言をする。
「皆様方、とんでもない未来が紹介されましたが、これは何よりも重大なことと思われます。
仔細な聞き取りと整理には、かなりのお時間が必要ですので、ここで暫し一服入れてはと考えます。
そして、この一服の間に数日こちらへ泊まられるよう、それぞれの宅へご連絡頂き、手配されては如何かと存じます。
拙宅も皆様が数日間離れに泊まれるように、これから準備いたします」
これは長い、どころではない。
全員を監禁するに等しい扱いだ。
今の伊賀七さんの発言を聞いて、ショックを受けた皆は何も考えることも出来ず、コクコクと頷くのが精一杯の様子だ。
伊賀七さんからの指示で、俺は茶室を出て、人払いのために周囲で監視している伊能さんの門下生を呼びに行った。
茶室の中の皆は、自宅など関係する所宛の文をさらさらと書き、呼び寄せられた門下生にそれぞれのところへ届けるよう言付けたのであった。
なかなか先に進んでいきません。