大江戸 <C130>
やはり江戸の景観が浮かんでこなくて苦慮した挙句の執筆です。
■ 文化十四年、6月20日(1817年8月2日)
松戸宿を出て、矢切りの渡しで江戸川を越え、柴又帝釈天・新宿、掘切、千住宿を経て三ノ輪、御徒町、日本橋に至る。
千住宿が江戸から東北・常磐方面へ向う最初の宿場であり、ある意味江戸の境である。
ここまでどこかの村の田舎道という感覚しかなかったが、千住宿を過ぎると風景が街らしくなってくる。
日本橋近辺ともなると、さすがに板葺の店屋が軒を連ねており、賑やかになってきている。
さあ、日本橋だ。
ここが日本の交通の中心と意識したが、何のこともない普通の長太鼓の木造橋でしかない。
ここに至る道幅も想像していたよりもずっと狭く、200年後には拡張につぐ拡張をしたのだということがよく判る。
日本橋にはもっと感慨が沸くと思ったが、あまりにもデフォルメされたイメージが浸みこんでいて、そことのギャップに驚くばかりだった。
日本橋から、和田倉門前の辰口屋敷横、肥後熊本藩敷地横の木戸を潜り江戸藩邸に至る。
将軍様の居城のすぐ近くに武家屋敷は固まっている。
以外に小さな一角に固まっていることに驚いた。
上屋敷は御殿様が住むところ、下屋敷は江戸で活動するための拠点という区分けがあり、下屋敷は郊外に設けたという感覚のようだ。
当時の交通主力が徒歩であることを考えると、妥当なのかも知れない。
藩邸の長屋で旅装を解き衣服を改め、藩士の指図に従い藩邸留守居役にお目通りをする。
カラクリ人形二体を持参し、この動作を披露すると同時に、藩への引渡しを行った。
これは、きちんと動作するものを納めたということであり、以降は藩出入りの商人から求めた商家へ届けられる。
先方への同行を求められる場合もままある、とのことだが、今回はそのようなことはなく、留守居役の前から商人にそのまま下げ渡された。
儀礼らしいものはこれにて終わり、後ほど書付が交換されるとのことだ。
伊賀七さんは、引渡しが終わったということで、相応の酒肴料を留守居役に渡した。
藩邸詰めの藩士の方々はこれを使い今夜は宴会になるそうである。
藩邸で予定されていた一連の儀礼を終え藩邸内の長屋へ戻ると、長屋の世話役藩士にも二人分の謝礼として元文豆板銀2枚(計二朱相当)を差し出した。
そして、4畳の部屋に転がり込むと、伊賀七さんも八兵衛さんももうクタクタだった。
ここで、貨幣について補足する。
金一両は銀四分になり、小判1枚が1分銀4枚である。
銀1分は4朱だが、朱は定額貨幣はなく、丁銀・豆板銀といった重量を測って都度換算使用する扱いである。
しかし、これではあまりにも不便なので、純度を揃え刻印を打ったものを流通させていた。
なお、金・銀の部分を見ると1両=4分=16朱と16進になっており、旧来のソロバンで上段の珠が2個あるのはこの16進数を桁内で処理するためのものであった。
谷田部を出る時、伊能忠敬様に21日には伺う旨の文が伊賀七さんから出されている。
飛脚は1日先行しているため、今日には先方にもう文は届いているであろう。
明日は歴史上の大家と会うのかと思うと興奮してくるのだった。
■ 文化十四年、6月21日(1817年8月3日)
朝から日差しが強く、蒸し暑い日だ。
藩邸の辰口から、伊能忠敬さんの邸宅がある深川黒江町(現門前仲町)まで約1里。
藩邸を辞して日本橋へ向い、そのまま橋を渡らずに日本橋川(神田川と隅田川を結ぶ流路)に沿って下り、永代橋で隅田川を越える。
日本橋より永代橋のほうが立派に感じてしまった。
さて、富岡八幡宮の少し手前に伊能忠敬さんの住居兼作業場がある。
伊賀七さんと八兵衛さん(=俺)が門を叩くと直ぐに、庭にポツンと建つ茶室に通された。
茶室に入ると、そこには伊能忠敬翁を筆頭に、高橋景保、間宮林蔵、日下誠の4名がすでに待ち受けていた。
入り口で平伏する伊賀七さんに伊能翁は話しかける。
「重大事なので、遠慮は抜きじゃ。
そこに居らずに、早うこちらへ来い。
案内のもの、ご苦労じゃった。
人払いするゆえ、この茶室に誰も近づけてはならぬ。
用があれば、こちらから呼びに行く」
夏の暑い最中で、風通しをよくするために格子戸を空けており蝉の声が煩い。
茶室の真ん中に、あの時書き散らした半紙が、伊賀七さんが朱で脚注した紙が何枚か広げられている。
どうやら、この半紙の中身を巡って何か話し合われていた模様だ。
「よう来なさったが、常ならぬことが起きていると認識している。
誠に無礼とは思うたが、此度は、茶菓の供応も無しとさせてもらう。
喉が渇いたら、そこの茶釜の清水を勝手に汲んで飲んで頂いて結構。
腹が減ったなら、食事を用意させる故、遠慮なく申し出てくだされ。
長逗留できるよう、離れを用意しておるので心配ご無用じゃ」
茶室の中に入ってみると、皆ギラギラした目でこちらを見ている。
俺は、どうやら虎の穴に連れ込まれてしまったようだ。
「伊賀七さん、そちらが憑依された方じゃの」
「はい、私の工房の奉公人で八兵衛と申します。
今から丁度200年の未来におられた林健一様が、魂と知識を持ったまま、同じ歳の八兵衛に憑依しております。
ただ世間への方便として、八兵衛の守護仏である妙見菩薩像へ憑依し、八兵衛がその口利きができるという様に振舞っております。
八兵衛が見聞きすることは、同時に健一様が見聞きするところとなりますが、それで健一様がどう考えたのかは、八兵衛を経由して伝わるだけでございます。
八兵衛には、健一様の仰ったことは漏らさず伝えるよう言い聞かせてはおります」
八兵衛は、これで少しでも恐い視線を避けることができるのでは、と、震える手で懐から妙見菩薩を取り出し、これを横へ置いた。
「これを依代として、ですな。
なるほど、このお顔を拝見すると成る程と思われますな。
ああ、ご紹介が遅れました。
こちらから、幕府天文方の高橋景保様。
天文学では本邦の第一人者です。
続いて、松前奉行支配調役下役の間宮林蔵様。
伊賀七さんの郷里近くの出身で、今は蝦夷からたまたま江戸に戻っておられます。
そして、関流宗統五伝の日下誠様。
今は麻布で私塾を開かれております。
最後に、拙、忠敬です」
全員の目が妙見菩薩へ注がれているので、八兵衛さんがあからさまにほっとしているのが判った。
多少の未来知識があろうと、中身はたかだか17年ちょっとの経験しかない高校生の前に、海千山千の超一級の人の前にズラッと並んでいるのだ。
日本全国の社会科の教科書に顔絵が掲載されている偉人が、目の前にいるのだ。
囲まれて怯えている八兵衛さんの陰に隠れて矢面に立っていないものの、心中穏やかで居られる訳がない。
いよいよ未来知識の披露が始まります。
筆者の知る知識を上限に、ちょっと足りないところを教科書や便覧から補足していきます。