藩庁でのご詮議 <C127>
この回は、伊賀七さんの視点です。
■ 文化十四年、水無月17日~18日(1817年7月30日~31日)
一昨日・16日の夕刻に私が行った天灯・天篭の天昇せの事は、翌17日には谷田部藩の中で、かなりの話題となっていました。
近くに筑波山はありますが、山間部ではないという土地柄、それぞれの里は里山か雑木林で遮られている程度なので雑木林の4倍以上の高さまで天灯が昇っていくと、もう他の里から丸見えになってしまいます。
いくら十六夜の月の下とは言え、明るく光るものが20基もふわふわと空へ昇っていくのです。
何か不審なものが飯塚の里の上で宙を舞っている、ということに対し様々なところから奉行のところへご進駐という問合せが行っていたようでした。
私はこうなることも想定し、名主・丁卯司より藩庁へ『新しいカラクリによる領民・祖先供養の試み』を夕刻から行う届出を、直前にせよ事前に出していたのです。
藩庁からは「届けをもっと早う出さんかい」くらいの罵倒はあると思いますが、「無届で一揆の企み、これあり」となってお縄頂戴、だけは回避できていると思ってます。
また、里と里に近いところにお住まいのお武家様には『新しい領民供養の試みのための集まりにご参加頂ければ光栄に存じます』とご案内し、近隣の里の名主にも同様に声を掛けて「供養」であることの周知を行っていたのです。
もっとも『領民・祖先供養』という言葉と『白く光る不審なものが宙を舞う』が重なると、どうしても人魂が彷徨い出したという発想から、恐れ多い儀式をしたのではと勘ぐられる向きもあったのではないか、と考えてしまいます。
予想した通り、丁卯司さんは17日の昼前には藩庁に呼び出され、お奉行様からの詮議を受けることになりました。
おそらく詮議の場では、表面的なところだけですが、事実を順に説明するだけで済まされるはずです。
そのため、丁卯司さんには肝心な所を「八兵衛の名前は伏せ妙見菩薩様からの啓示があった」にして、一通りの表面上の経緯を説明してあります。
変な失言をしなければ、それ以上の突っ込みはないでしょうし、知らないことは知らないと突っぱねることもできます。
さてその詮議が藩庁で行われていたであろう頃、私はまだ工房で妙見菩薩様へ昨夜の心境を吐露していました。
そして、天灯・天篭の技術について、『鉄砲伝来』にも比肩する出来事という私の意識を伝えました。
この技術が、いつも確実に人を空へ浮かべることができるものであれば、単なる物見遊山ではなく兵事にも応用が利くと考えたからです。
妙見菩薩様(=健一様、八兵衛さんの口)からは、早速に人を浮かせるほどのカラクリに仕上げるには奉公人を増やしての実験が必要な旨の提案がありました。
私もその通りだとは思うのですが、今でも飯塚家のかかえる人口は多めであり、色々と備えをした今でも不作が2年連続して起きると、2年目を支えきれる自信はありません。
工房の拡大については、この技術を確実に金穀に化かす手段の目処がたたないと難しいように思われます。
なので、どうやらこの算段について取り組むしかなさそうです。
17日に丁卯司さんが藩庁から戻ってきた後、藩庁より私あてに「明日朝、詮議を行うので出仕せよ」との通達がありました。
丁卯司にその日の詮議内容について確認したが、ほぼ想定通りであり、追加で詮議されるべき論点はないはずなので、この通達は異例のことと考えます。
お殿様がことの次第に興味を覚え直に物を見たいと言われた、ということもあるかと思い、工房へ小基・天灯を1基至急作るよう指示をしました。
「明日、藩庁へ行くときに持参しよう」
普通なら、これで充分だったのかも知れません。
しかしこの時藩庁では、江戸から届いた文の中に幕府天文方の伊能忠敬様から直に飯塚伊賀七宛のものがあることに気づき、パニックに近い状態になっていたのでした。
翌18日朝、まず私は工房の吉之助に別宅へ行くよう指示しました。
そして、八兵衛には吉之助に天灯の特性を把握する実験をどうすればよいのか検討させるように指示しました。
もちろん、健一様=妙見菩薩様には、この両名のご指導をお願いしています。
私は物事を小さな要素に分けて解釈し、そこから全体目的に照らして組み上げていくという健一様の手法にひどく感銘を受けており、その考え方を見込みのある若い人に根付かせてもらいたいと思っているのでした。
今日、別宅に戻ってきた時、二人がどのような実験計画を見せてくれるのかを楽しみにしながら、足早に藩庁へ向ったのです。
藩庁は飯塚の里からは約一里の距離にあり、急ぎ駆けると一刻(30分)程度で着くことができます。
谷田川と土浦から西進してくる街道が交わる場所に設けられた陣屋形式の建物で、土蔵や船着場も備えた結構広い敷地を持っています。
奥側にお殿様が生活されている通称:御殿の敷地と隣接しており、渡り廊下で御殿と陣屋が連結されています。
もっとも御殿とは言うものの、田舎でもあり名主宅と大した差はありません。
私は藩庁へ向かいながら、持参している天灯を商売にすべく、藩への許認可の申請をどうすればいいかを考えます。
もし「天灯を自分の工房で作ったものだけに縛ることができれば」とも思いましたが、矢田部藩内という中でどんなに工作してもそうそう売れるものではありません。
そうすると、先祖供養ということで、筑波山神社・真言宗護持院元禄寺殿を頼るのが良いのかも知れません。
そう思いついた所で藩庁に到着しました。
藩庁に着くと、直ちに軒下の濡れ縁から詮議部屋の奥横に座する御奉行様に相対する所へ座り、奥を仰ぎ平伏します。
件の持参した天灯は、御奉行様の横に鎮座しているのが見えました。
「一昨日の天灯・天篭について里の事情はすでに聞いておるが、江戸・天文方の伊能忠敬様より昨夕至急の文が届いた。
15日にその方より出された文の返事とは思うが、こうも早く届くということ、16日の天灯・天篭の件と合わせると、常ならぬこともあると思い詮議するものである」
「私宛の文ではありますが、内容をこの場でご確認頂いても結構でございます」
やましいことは何一つないような堂々とした声で私は申し上げたが、八兵衛の憑依の件だけが書かれていないかが心配だった。
『先に頂いた文について、貴重なご意見としての丁重な御礼』
『ご意見を仲間内だけで大至急詮議したいので、奉公人同道の上江戸へ来て頂きたい』
『今回の来訪時に麻布の日下窪の関流皆伝・貞八郎を紹介したい』
『江戸に来られた際は是非拙宅に逗留頂きたい』
『頂いた文の内容に大変驚愕しており、一刻も早くお目にかかりたい』
私は、文で知らせた技術的な話しや憑依ということを匂わせることなく、必要と思われる最小限の内容を伝えている配慮に感謝しました。
こうなると、私が書いた文の内容に焦点があたってきます。
御奉行様は当然のように文の内容を問い、私が応えます。
不明確なところを糺され、このやり取りを何度か繰り返し、やがて腑に落ちたようです。
その後は、先に出されていた私と八兵衛の江戸逗留の件についての話しとなり、あっさりと許可が下りました。
江戸藩邸に経済的負担が掛からなければ良しということなのだろう。
ご詮議がやっと終わったのは、夕食時頃でした。
江戸商人より依頼を受けているカラクリ人形二体のこともあり「明日早々に出立せよ」との御沙汰が下されました。
夕食抜きで急ぎ別宅に戻って支度をせねばなりません。
天灯を商売・金穀にする相談は別にするしかないようです。
「急がなきゃ、何もかも急がなきゃ」と脚は自然と早くなります。
天灯・天篭の話しは、ここまでとなります。
次回は江戸出立準備編です。




