名主様の懐具合 <C125>
江戸時代でも、名主かそれに代わる人がきちんと農村運営していたのだと考えさせられる内容になってしまいました。
■ 文化十四年、水無月17日(1817年7月30日)。
昨夕、天灯・天篭を夜空に放った件について、紐を地上に固定していなかったために火種を空に撒いたようなものとも言えるため、藩庁からの詮議があることを心配していた。
だが、伊賀七さんは「天明のときの里人の供養を行いたい」という名目での届出を済ませ、里に住むお武家様のご家族は丁重にご招待までしてあり、茶菓のおもてなしをしていた。
このため「何のお咎めもなし」で終わると思っていたのだが、明るく白く光るもの相当数がこの里の上空に見られた、との届けがあったようで、藩庁より事の仔細を名主から報告させよ、とのこととなった。
多分、今頃は本宅の丁卯司さんが報告のための文を作っているのだろう。
この日は藩庁との対応で、丸一日ドタバタとしていたようだ。
俺は、八兵衛さんに話しかけた。
「天灯を飛ばすのは、お盆の送り火の風習に併せても似つかわしい気がする。
もしも、それがここいら一帯の新しい風習として取り入れて貰えたなら、天灯・天篭を作れる集団として活動できるようになるかも知れない。
実際は、技術的に大した工夫がある訳ではないので、どこでも作れるようになるに違いない。
そうなると、この時代では意識されていない、ブランドの立ち上げなんて考える必要がありそうだな。
妙見菩薩印で小原木神社から月読尊様をこの里の工房へ分祀させて頂き、飛行神社とか」
昨夜の伊賀七さんの「里の人を二度と飢えさせない」という決意表明の酩酊感がまだ残っていて「どうやって里を富ませようか」なんてことを柄にもなく思ってしまった。
八兵衛さんも、まだ感動し続けており、俺の話しかけに「いいですね」を繰り返すだけだ。
そういった中、朝食が終わり、別宅の書斎で伊賀七さんとの談話になった。
伊賀七さんは心境を話す。
「天明の飢饉は、私にとってとても酷い体験でした。
誰もが餓え自分が生き残ろうと必死でした。
最初に女郎として売られた娘のほうが、まだ幸せだったと思いました。
子供を間引きする親、老婆を捨てに行く息子、ガリガリに痩せた体で木の根・草の根を齧りながら餓えに耐えているのですよ。
私は、そんな里の人を救うことができなかった、できる力もなかった。
ならば、何があっても救うことができるよう力を蓄えよう。
少しでも目がありそうなことは何でもやり、里を富ませよう、と決意したのです。
私がいる限り、里人が餓えて死ぬようなことは絶対にさせません。
そのための、米以外の富を生み出す仕組みとしての工房なのです」
伊賀七さんは、妙見菩薩へ向って深く額づいた。
「今回、天灯・天篭の技術をご披露頂きました。
この技術で、人を空に浮かせることができるとおっしゃいましたよね。
あんなに簡単な道具で、私の昔からの夢を叶えることができるなんて。
そして実験でその技術が確かなものであることを実感いたしました。
人が浮かせられるなら、単に見世物ではなく、いろいろなところに使えると思われます。
藩庁ならずとも、将軍家や他の大名も、きっとこの可能性の大きさに目を剥くに違いありません。
これは『鉄砲伝来』にも比肩する出来事と言い切る自信があります。
是非とも、引き続きお導き頂きたく、お願い申し上げます」
「天灯は、結局のところ熱気球に行き着きます。
天灯の紙袋が確保した容積に軽い空気が入り、その軽さ分に匹敵する重さを支えることができて空中へ浮かびました。
この空気の軽さは、暖められた熱い空気の温度と、確保できる容積で決まります。
これを実験で細かく求め、20貫程度の重さを支えられる目処がつけば、実用可能です」
「実際に人を持ち上げるほどの浮力を得るには、かなり多量の熱い空気が必要ですが、この空気は直ぐに冷めていきます。
このため、空気を暖め続けなければ浮力を維持できません。
まずは、天灯の大きさでどの程度の浮力を持っていたのかを計測していきませんか」
「計測は、天灯を地面に繋ぎ留めている紐に錘を載せ、沈み込みの有無で見極めます。
蝋燭に点燈し、浮き始めてからの時間経過を測ることも重要です。
このため、砂時計で一定時間毎を決め、浮力の大きさを測ってください」
「しつこく計測する作業を行ってから、天灯の特性を把握します。
意図を判って実験を指導できる人を、まず決めましょう。
例えば、思い切って吉之助に実験の責任を負わせて進めるとか。
いづれにしても、人手が足りません。
奉公してもらえる人を探しませんか」
今回の熱気球は、はっきりとした基本的な物理法則に従うところがあり、科学的なものの考え方を習得するにも丁度良い題材と考えていた。
昨日の実験の中で、八兵衛さんの同僚である吉之助と話しをする機会があった。
八兵衛さんにも聞いたが、腕は良いのだが、結構器用貧乏なところがあり、工房のまとめ役の庄蔵さんにいいように使われている感じになっているようだ。
折角の柔軟な頭があるのに、このままでは勿体無いと思った俺は推薦したのだ。
視野を広く持って仕事をしないと、成長しないのだ。
そのためにも、責任ある立場は不可欠なのだ。
「私も、工房を拡張する必要性を感じていました。
ただ、工房に奉公人を抱えるということは、米を作る人手が減り、その上に奉公人の米がいるということなのです。
売れないものを作って、これを抱えているだけでは腹は膨れません。
このあたりをきちんと考えておかないといけません」
流石に、飢饉の地獄を見た人が、その地獄にならないように考えていることなのだ。
工房の本格的拡大は見通しができるまで先送りというという意味なのだ。
当然の判断なのだろうが、俺は釈然としないものを感じていた。
夜、別宅の納戸で寝支度に入った八兵衛さんに尋ねてみた。
「八兵衛さん、ちょっと教えてください。
ここの名主・飯塚さんのところでは小作や奉公人まで入れて何人くらいいるのですか。
それから、お米はだいたいどれ位収穫されますか」
「この里にいない人もいるので正確な人数はわかりませんが、産まれたばかりの赤子も入れて、100人位だと思います。
2~3人抜けているかも知れませんが、105人以上はいないです。
収穫は、昨年大豊作とかで凄い量・450俵もあったと聞いています」
米に関する情報から整理してみよう。
一石は米150キログラム=一人が一年に食べる米の量=金一両。
米1俵は重量60キロなので、名主さんとこの取れ高は450俵は27トン。
ここから年貢として200俵=12トンが納められる。
昔は収穫の半分を収めたが、定免法に代わってから毎年200俵で済むようになった。
なので、250俵=15トン=100人分の米が豊作のときの収穫。
すると、米以外の副業:カラクリ人形での収入が5両/年程度あって、やっと皆を食べさせることができる水準になる。
豊作だった年ですら、食べるのにカツカツという名主の懐状況を知り、俺の甘さ悟った。
定免法で200俵ということは、平年・平均は200俵が手元に残るということだ。
これだと80人分の食料にしかならない。
つまり、20人分が足りない=今は農収に照らして人が多過ぎるのだ。
伊賀七さんの昨夕の挨拶は、まさしく心の中からの叫びだったのだ。




