谷田部藩江戸屋敷 <C124>
■ 文化十四年、水無月17日(1817年7月30日) 藩江戸屋敷
一万六千石の小さな大名である谷田部藩の江戸屋敷は、本家筋である肥後熊本藩の江戸上屋敷である龍口御屋敷に隣接、いやその敷地の一角を借りて置いてある、そう正しく良く見ればそこにあったか、という程度の存在だ。
威容を衝く門などはなく、いかにもの木戸を潜ると長屋風の建て屋が二列あり、それに軒をくっつける形でごく普通の一軒屋がある。
この一軒屋を、お殿様が寝泊りするということだけで、おこがましいが御殿と呼び習わしている。
わずか一日の旅程でしかない江戸近隣大名にとって、領内にも戻らず暮らすのであればそれなりの生活の場が必要なのだが、そうでない場合、月にそう幾度もない登城日の前後に仮に居ればよい前進基地と割り切って経費節減するというのも充分選択し得るのだ。
当然、藩邸に控える人数も極限に近いほど少なく、毎日誰かしらが領地谷田部との16里の道のりを歩いている格好になる。
勢い谷田部藩の江戸勤めの官吏は健脚揃いとならざるを得ないのだ。
この日、まだ空が明るく成りかける直前、こりゃオールしちゃったかな・完全オールにしよか・それともちょっとだけ寝ようかなと悩み始める時刻位になって、藩邸の木戸を叩く者がいた。
贔屓目に見ても肥後熊本藩細川家の上屋敷の通用口に見えてしまう木戸だが、一応木戸番が常駐している。
「幕府天文方の伊能忠敬様からの大至急の文でございます。
お取次ぎをお願い申し上げます」
この口上に木戸番は跳ね起きた。
矢田部から一昨日届いた手紙の中に、伊能忠敬様あてのものがあり、この木戸番氏が翌日夕刻に深川まで届けたのである。
もう返信があるとは、よほど急ぎのご用向きに違いない。
「かしこまりました。
お受けいたしますので、こちらへお通りください」
手紙を受け取り受信簿に記載を済ませ、改めて顔を見ると、昨夕手渡した者ではないか。
「「あっ、昨日の」」
同時に声をあげ苦笑いである。
「昨夕手紙が届いてから、大先生が大暴れでした。
手紙書き終えるまで、そこで待っていろ!ですからね。
中身は知らされていませんが、こちら以外にも、あと三箇所渡す必要があるのです。
まあ、街中ではないので下町の木戸番を起こさなくて良いのは助かりますがね」
「いやあ、お互いご苦労様なことです」
まだ行く先があるので、木戸番氏が聞けた話しはここまでだったが、何か変なことが起きかけていることだけは判った。
夜が明けると、領内へ連絡を持っていく飛脚担当氏の出立である。
江戸・谷田部間の飛脚担当氏は江戸藩邸2名、領内3名と5名もの藩士を宛て、いつお殿様からのご用があっても即応できるようにしている。
また、藩のご用だけでなく、普通の手紙なども相応の対価をもらって届ける仕組みを作り上げ藩財政の健全化に貢献している。
今朝の飛脚担当は、この元となった文を運んできた者であり、その文に異様に早い返信があった件を伝え、深川の領内で変わったことがないかの懸念を伝えた。
この日(17日)の夕刻になって、谷田部からの飛脚担当が着いた。
この夕刻に受け付けた手紙や藩奉行からの指示には、特段変なものは無かった。
しかし、とてつもない話しが流れていると教えてくれた。
「カラクリのご隠居様・飯塚伊賀七さんが妙見菩薩様から特別なご加護を頂き、空に浮く・空を飛ぶためのカラクリを考案したそうだ。
しかも、そのご加護を頂いた乗り物を20基も作り、昨夕に天明の飢饉で無くなった人の魂を乗せて空へ放った、ということだ。
直接見た人が言うに、凧ではなく、一間四方の紙でできた大きな豆腐のような塊で、蝋燭の炎の力で動くそうだ」
空に浮くためのカラクリに関する騒動であれば、確かに天文方との連絡が相互にあっても不思議ではない。
こういった話もひっくるめて、藩邸の留守居役への報告を行った。
ここ江戸藩邸は、お殿様ご不在の場合、むさい男が10人程度集団居住する場所ということで、いろいろな話はすぐ共有されてしまうので、改めての報告は不要とは思うが、それでも規則通りするのがお役所というものなのである。
なお、このむさい男共の食事準備・片付けなどの日常茶飯事は、トップの留守居役も含めた輪番性で行う。
これは「戦場にてメシを婦女子に頼れる訳なかろうが」とお殿様が言ったことに始まるが、肝心のお殿様がいる時は、専門の料理人がついて準備している。
いつの時代でも、こんなものである。
いろいろな話や届出から推測するに、カラクリのご隠居様御大自身が江戸へ来ることは間違いなさそうである。
しかも、結構長逗留することも考えられそうだ。
まあ自分から言うのも業腹だが藩邸長屋は今のところ部屋が余っているので、そこを使ってもらおう。
食事準備・片付けは、対価を取って免除でいいだろう。
なにせ、今評判の「茶運び人形」というカラクリを2体も持ってくるのだ。
下世話な話だが、今回の人形は藩の口聞きで、1基約100両程度で商家へ収めると聞いている。
藩への口利き料をどれだけ納めてくれるのかは知らないが、景気の良い話だ。