計算機の足し算 <C119>
足し算の歯車の動きを細かく書いてしまいましたが、ご興味のない方はあっさり飛ばしてください。
話しの進行上、一切の関係はありません。
昨日と同じように夕食が始まる。
今日の夕食時から八兵衛さんの守り菩薩であった妙見菩薩様を三方に置き、客座・上座に据える。
ご飯粒と水を小皿に入れ、この小膳を三方に置く。
たったそれだけの操作で、そうすることで、場の雰囲気が大きく変わった。
普通の農家では囲炉裏を囲んで食事を摂るのだが、この囲炉裏のどこに座るのかというのは実は結構厳密に決まっている。
今までは、俺が憑依した八兵衛さんを、お客様と見るのか八兵衛さんと見るのかで結構無理があったのだ。
そのため、例えば朝食は座敷で通常座る囲炉裏傍ではなく、箱膳をしつらえて向かい合って座るしかなく、八兵衛さんだけでなく、別宅の主人であるご隠居様=伊賀七さんや、給仕のトメさんもどうすればいいのか判らないままぎこちなくなってしまっていた。
そのため、ただただ競争のように早く食べ終わらせ、不自然さから逃れていたのだ。
それを、これからは着座順という変な並びを意識しなくても良くなる、ということになり、一日の満足度に影響する食事時のぎこちなさの改善は精神衛生上重要で影響も大きかった。
数日一緒にこの場を過ごしていると、この夕食の楽しみが段々解ってくる。
俺の元いた時代とは比較すらできないほど粗末に見える質素な夕食。
だが、今日を・今日までを無事に働いて過ごし、自分を知る人と囲んで腹を満たすというただそれだけの儀式に、感謝の念が、喜びが溢れている。
今日は玄米ご飯に一汁二菜で、梅干の代わりに菜っ葉のお浸し。
女中のトメさんが、ニコニコしながらお代わりをしてくれる。
工房での食事は、いつも同じ仲間との競争で少しでも多くのメシを摂るのに忙しくなるが、ここではゆったりと頂けるので、しっかりと味わうこともできるのが嬉しい、とのことだ。
このゆとりの時間に、俺はこの後どういった説明にしようかを考えた。
夕食も終わり、一息ついた後、伊賀七さんへの『電卓』の説明を始めた。
なごやかな雰囲気もあり、俺の中で伊賀七さんの印象がご隠居様に近いものに変わってきた。
「『電卓』とは、電気式卓上小型自動計算機の略称になります。
『計算機』が系列の一般名称で、これを分類できるようにいくつかの機能・構成を示す修飾語を付けて全体の名前にしているのです。
実は『電卓』という通り名があまりにも普及しているので、俺の言う全体の名称は多少違っているかも知れません」
「まず解って頂きたいのは、『電卓』も『算盤』も『計算機』ということです。
操作する順番はどうあれ、2つの数字を演算して1つの数字を得るのが目的です。
演算の基本は、まあ足し算ですが、算盤の場合は最初に足される数字を盤面に置いて、そこへ足される数字を桁ごとに逐次手作業で指を使って落とし込んでいく操作をします。
足される数字の全ての桁の読み上げが終わり、指の操作が終わると、盤面には演算した結果として得られた数字が残っています。
実際に細かく見ると、1桁の操作が終わって次の桁の操作を行う形で、桁数毎に桁数回の操作になっています」
俺は、入力・操作・出力を意識して分け、さらに基本操作が・一番基になる簡単な操作が何かを意識できるよう伊賀七さんに説明する。
「電卓でも、同じことが行われますが、入力は2個の数字を2回に分けて行い、足し算という操作を指示すると、その結果を表示させます。
電卓では算盤と違い、演算の操作を指示するだけで、中の細かく分かれた操作については機械の中で終わりまで行い人手が入ることがありません。
この終わるまでの操作が自動でできるので、自動計算機です。
さらに、この操作を行うにあたって電気の力で行うために、電気式といいます」
伊賀七さんは、俺の話しを聞きながらソロバン珠を弾く指の動きをして確かめている。
「健一様、電気の力、と言われるのは何でしょうか」
『やはり、まずはそこですよね。
計算をするためには、決まりに従って珠を動かすという動作が必要で、この動作を行う動力があるのでは、という所が限界とは思いますよ。
俺も電気の力と言われると、電気モーター位しかパッと出てこない。
電気の流れで情報を処理する、今はどう説明しても理解してもらえないよな』
俺はためらいながら説明をした。
「電気については、実際に目に見えるものではないため、言葉での説明は非常に難しいです。
実験して見せると感覚的にもどういったものかが直感的に把握できるので良いのですが、このための道具なんかが、この世界にはないので時間をかけて作り出すしかないと思います」
ここで俺は、非常に説明し難い電気の話題を避け、自動計算機側に思い切り振ることにした。
「伊賀七さん、電気式の中身については説明し切れるほどの知識は持っていません。
しかし、機械式に拠って、演算の終了まで自動計算を行わせる原理・仕組みについて、今多少説明はできます」
「1桁と1桁の足し算を歯車の動きで考えましょう。
答えは2桁になることもあるので、最低3個の数字がついた歯車が必要です。
歯車には一から九までの数字と、ゼロと書いた10個の刻印を等しい間隔で打ちます」
「最初に2桁側の歯車に最初の値をセットします。
上の桁の歯車は、とりあえず1桁の計算なのでゼロの刻印を見える位置におきます。
下の桁は足される値の刻印が見えるところに置きます。
次に1桁側の歯車に足す値の刻印が見えるところに置きます。
それから、足す値の方の歯車を数が少なくなる方向へ1刻み動かし、足される方の歯車を逆に数が増える方向へ1刻み動かします。
この操作で、足される方の歯車が九からゼロに変わったら、2桁側の歯車を増える方向へ1刻み動かします。
足す方の歯車が一からゼロに変わると、足し算は終わりですが、ゼロになっていないなら、再度足す値の方の歯車を数が少なくなる方向へ1刻み動かす動作に戻ります」
半紙に歯車の絵と矢印を何個も書きながら、小学校一年生に足し算を教えるような調子で、説明をしてしまった。
ここの要点は、足す側の数を0にするための動きを足される側の歯車に逆転させて伝えるところにある。
この発想を突き詰めると補数という概念になるのだが、そこにまで至るのかな。
「ご隠居様、トメでございます。今少しよろしいでしょうか」
突然、障子越しに女中のトメさんが声をかけてきた。
「何かな」
「本宅からの言付です。
昨夕頂いた文は今朝早くの飛脚で江戸表の藩邸へ送りだしたそうにございます。
江戸へのご出立については特段問題なく認可されており、早々に奉行あて予定を出すように、とのことでございます。
そして、依頼を受けている茶運び人形2体について、いつごろなら江戸に出せるのかを教えて頂きたい。
以上の3件となります。
「相判った。
江戸行きは伊能忠敬様からの返事待ちとなるので、予定は先方の都合もあり今出せない。
茶運び人形は、江戸出立時に自身が持っていっても良い。
そう伝えておくれ」
「はい、解りました。
どうぞ、ご無理なさらないように」
トメさんの乱入で、息がつまるような書斎の場が和んだ。
筆者自身もちょっと細か過ぎるとは思ってますが、なにせ「計算機」を題にしてますのでご容赦ください。