八兵衛さんの決意 <C116>
視点がころころ変わり、見えにくくなるかも知れませんが、4日目朝に向けてリセットのつもりで執筆しています。
ワシに健一様が憑依してからもう3日以上になる。
最初の日の朝は、金縛りにあった。
そして次の日は、突然早朝から話しかけてきてワシは吃驚仰天し、ご隠居様の所へ駆け込んだ。
ご隠居様は色々とご承知のように的確に指示を下し、健一様と話しをする。
健一様は、ご隠居様のおっしゃることは直接聞こえているようだが、直接話すことはできない。
それでワシが中継するのだ。
とは言っても、健一様が「こう話せ」と頭の中に話しかけてくる内容を、できるだけそのままご隠居様に伝えるだけなのだがな。
最初はとても面食らったが、すぐにも慣れてきた。
時には、ご隠居様の言うことがよく聞こえなかったりすると、ワシに何を言ったのかを聞いてきたり、言葉の意味が解るかを尋ねられたりする。
だんだん慣れてくると、健一様の言葉で解りにくいところや、言い回しを変えたほうが良いところなんかが見えてくるようになった。
そこで、一文聞いてはそれを解釈して口にするようになった。
そうすることで、ご隠居様と健一様との会話が一層やりとりしやすくなったのは間違いない。
ご隠居様の所に駆け込んだ日にわかったのは、健一様が200年後の日本で事故にあい、その魂だけがこちらに飛んできてワシに憑依したことだ。
何年位後の世界から来たのかを聞いている時に、幕府がどうのという話しが出た。
この時、ご隠居様は一瞬殺気立った。
だが、健一様がなにやらややこしい事情となっていること、今後の大まかな推移を説明すると、ご隠居様の殺気は引いた。
その後は、ここ谷田部が水戸街道の近くにあり、江戸まで1日程度の距離にあることまでを確認して、ワシの最初の長い一日が終わった。
その夜から、ワシは工房の寝所に戻らず別宅の納戸で寝ることになった。
翌朝、ワシが起きて顔や体を洗っていると、ご隠居様の世話をなさる女中のトメさんが朝飯の準備ができていると呼びに来た。
トメさんは隣村の出で今年からの奉公と聞いているが、若いのに結構きちんと働きなさる。
むさい工房で競争のようにして食べる飯とは違い、ご隠居様と同じように給仕してもらえる朝飯は美味いと感じてしまう。
その日の夕食までの間、ワシに憑依した健一様の魂が、憑依代えできるかどうかという実験をした。
この実験をした時、ワシは頭が割れるかと思う程の痛みを感じた。
そして、健一様は気づかなかったかも知れないが、実験が終わってからかなりの時間音沙汰もなかった。
ひょっとしたら、健一様がワシから離れたのではと思ったりもした位なのだ。
なので「どうも駄目なようですね」と伝えてきたときには、吃驚すると同時に安堵してしまった。
ご隠居様が無理な実験を進めたことを、ワシの中にいる健一様に謝る姿が印象的だが、ワシに向って頭を下げるなんてマネされたら、ワシはどうすればよいのか解らず、ただただ縮こまるしかない。
『二人きりならまだ良いが、誰かに、例えばトメさんなんかがこの姿を見たら、誤解するのじゃないか』
なんて、余計なことを心配してしまった。
一層のこと「ワシが鄙びた仏像でも手に持ち、これが健一様」とした方が、格好がつきやすそうだ。
我ながら良い案を思いついた。
その日の夕食後は、健一様が言う「伊能忠敬様、間宮林蔵様」についての会話をした。
会話に段々慣れてきたワシは、ご隠居様がひっかかるであろう単語や用語を直接伝えず、ある意味意訳に近い伝言を行うことに終始した。
それをしないと、会話があちこち飛びすぎてしまうことを懸念したのだ。
健一様の知りたいことを、できるだけ直ぐ聞けるようにしたいがための工夫なのだ。
しかしながら、いろいろと疑問も出るので、会話の合間に健一様に内緒で尋ねたりもかなりした。
本当は、こういった抑えた話もご隠居様は知りたかったと思ったのだけれど、さすがに勘弁してもらいたい、と思っていた。
その夜眠りに落ちようとしていたワシに健一様が「一生自作農の四男として暮らしていくことになるのか」と問い合わせてきた。
今日を生きるのに精一杯のワシは、そんな先のことを考えたりすることもなかった。
ただただ毎日、お腹一杯のメシが食えて、今やっているような仕事をして、生活にユトリができたら嫁取りでもして、位にしか考えていなかった。
ご隠居様の元へ奉公して、もう十年くらいになるか。
いつの間にか、ご隠居様の指図通りに動き、失敗をして怒られたり、時には小さな改善点を話して褒められたり、という平凡な日々に安住していた。
健一様の質問に延々答えていく内、今まで意識していなかったこの世の中の仕組みが見えてきた気がした。
例えば、士農工商といった身分制度や養子縁組、幕府役人への取立て、立身出世。
こういった見方を持ったことも無かったワシは、どれだけ単純な生き方をしていたのだろうか。
『そうか、健一様はここで朽ちるまでじっとしている気はなく、思うがまま世の中を動かしてみたいのだな』
ワシはそんな意志があることに気づかされたのだ。
そして、そういった野望を秘めた健一様がワシの中にいるのであれば、ご隠居様が世界の真ん中という生き方をしていた自分を捨て、健一様のお役に立つことこそ重要なのじゃないかな、と考えるようになった。
これが、ワシ・八兵衛が一大決心を固めた最初の夜であった。
健一様が、最初から気にされていた3日目を経過する朝が来た。
ワシのことも含んでいるので妙なもの言いにはなるが、健一様の気持ちを直接ご隠居様に伝えた。
「伊賀七さん、どうやら未来にある元の体に俺は戻れないようです。
そこで、八兵衛さんには迷惑な話でしょうが、ずっとこの状態になると思います。
俺もこの時代で暮らしていく覚悟を決めたいと考えています」
ワシも、健一様を中に抱えたまま生きていく覚悟を決めた、ということを健一様に伝えた。
健一様は、意気込みをご隠居様に伝えるときに、話しに引き込まれ、後から考えると余計なことを口にしてしまった。
「政治への介入」という所で、間に入ったワシがもっと冷静になっていれば止められたのだろうが、大きな覚悟を伝えた余波か、うっかりそのまま中継してしまった。
そして、健一様のこの時代以降の歴史に関する知識の取り扱い方針についての話し合いになってしまった。
「不平等条約、金銀貨幣の交換比率」の内容は、まだ深く考えていないという説明をご隠居様にして、日延べしてもらったが、健一様には何か目論見がありそうである。
ワシは今まで世の中の仕組みや政治に無関心で生きてきたが、健一様を見習ってこういった機微をもっと自分のものとしなければ行けないと感じた。
ここで、ご隠居様と健一様の間が気不味い感じになったが、ご隠居様が折れたのか、昨夕の地域時差の話に切り替わって雰囲気が変わった。
ワシは、おおよそのことを前日に聞いていたので、健一様の指示に従って半紙に数字を書いたり、算盤で値を出したりという操作をしていた。
そうしながら、横目でご隠居さんの様子を窺っていたが、興奮を無理に抑え込んでいる表情なんて、滅多に見ることができないものを見ることができた。
夕食は、別宅の座敷で腹一杯の茶粥だ。
こんなに良い待遇なんて、健一様がワシに取り付いてからなんだか運が回ってきたようだ。
しかし、ワシはこんなことで満足してはいけないのだ。
まだまだ学ばねばならないことがある。
夕食後は、ご隠居様・工房自慢の茶運び人形の披露となった。
健一様の指示のまま、動作させたり、分解・組み立てを行った。
何点かの助言があり、ワシはそれを半紙に書き取るというやり取りをしているうちに日が暮れてきた。
カラクリ人形を片付け始めていると、ご隠居様が書斎から出てきた。
手に文を手にしていることから、どうやら本宅に行くようだ。
「お出かけでございますか」
そう声をかけると、返事があった。
お供となって江戸に連れて行ってくれるようなことを仰っている。
書き留めた半紙を手渡すと、それを懐にしまった。
「片付けが終わったら、今日はもう就寝してもよいぞ。
また明日もお願いする」
ワシは手早く片付け終えると、納戸へ行き布団へ寝転んだ。
新しい一歩を踏み出したにしては代わり映えしないが、今日も良い日だった。
明日も平穏な日でありますように、と思いつつ眠りについた。
そして一夜明けて、となります。
ここでストックが尽きたので、毎深夜の投稿はこれまでとなりそうです。