伊賀七さんのあせり <C112>
この回は、伊賀七さん視点での振り返りという風に執筆しています。
文化十四年、丁丑水無月12日(1817年7月25日)夕刻
話しは前々日の夕刻にまで遡ります。
健一様から徳川将軍様の治世があと60年余りで無くなると聞かされたあたりから、私は頭に血が上りっぱなしになってしまいました。
「徳川様の次の幕府は、どなた様になりますでしょうか」
思わず詰め寄ってしまいましたが、今から思うと恥ずかしい振る舞いでした。
健一様は、説明することで自分のいた時代の歴史が変わることを気にされていましたが、私はそれどころではありません。
今の将軍様が居て、殿様が居て、飢饉などがない限り領民が平穏に暮らしているという風景が、私がもう生きていないにせよ、孫が生きるころ位には変わってしまっているというのです。
もし、次の将軍家がわかるのであれば、早々に取り入って身の安全・領民の安寧を願うというのが当然ではありませんか。
ここまで聞かされるとは思っていなかったものの、人払いして正解でした。
健一様は、徳川様が将軍で無くなるころの事情を一生懸命説明しようとしてくれています。
一応、手元に要点を抜書きはしていますが、内容は全く理解できていません。
「カイコクハ・サコクハ・サバクハ・キンノウハ」
「海外との関係と幕府の失敗」
乱世になるには何か複雑な状況がからむのは常と考えますが、内容までは全く追いついていません。
こんな状況ですが「薩摩・長州・土佐・肥前の西国四藩が主導する政権」になることだけは聞き取れました。
島津将軍、毛利将軍などが跋扈する世になるのでしょうか。
私には訳が判らないことだらけです。
「ところで、関ケ原の合戦は今から何年前のことになりますか」
この質問の答えから、健一様が実は丁度200年後から魂が飛んできて八兵衛に憑依したことが解ったのです。
その過程で健一様の居た世界では西洋で一般的に使われている4桁の数字で年を表すことが解りました。
確かに全体の流れを確認するのには良さそうですが、紀伝体形式に慣れていると換算が大変だと思います。
また、健一様と八兵衛の誕生日を比べると、こちらも丁度200年あることが解り、憑依には浅からぬ縁が必要なのではないかと感じました。
そして、名前も「林健一」と解りましたが、幕府昌平坂学問所の林羅山先生との関係を尋ねると関係がないとのことでした。
こうして「いつ」が解った後は、次に「どこ」を確認する質問が始まりました。
私の聞きたいことは後回しになりますが、私も何をどこから聞いてよいのか混乱の最中です。
ここは私の聞きたいことは後回しにしたほうが良さそうと思いました。
強いて言えば、私の聞きたいことを前面に押し出すのではなく、健一様と会話する中で重要な機密事項を漏らしてしまうのではないか、と考えました。
もしそのような話しが出たのであれば、さりげなく誘導してしまえば、何か余計なことを漏らしてしまうように思えたのです。
とりあえず、谷田部がどのような位置にあるのかを健一様は納得されたようです。
残念ながら、この辺りで日が暮れてしまい、この日の聞き取りはここまででした。
その夜、得られた情報を日記に書き記しました。
整理してまとめると、実に恐るべき出来事が起きると言われています。
もう少し細かくいろいろなことを聞き出したいと考えます。
こういった話を八兵衛経由で聞いているが、一体どういう具合になっているのだろうか。
もし、八兵衛ではなく私に憑依しているのであれば、昼夜を問わず問い詰めることもできるのにと大変残念だと考えました。
健一様はおそらく元の体に戻る努力はされたのだろう。
だが、上手くいかなかったに違いない。
これは、時間だけでなく空間も離れていたことが原因だったとも考えられます。
ならば、八兵衛から私に鞍替えできないかを持ちかけても損はありません。
思えば、八兵衛は健一様という宝の山を頭の中に抱えている大変うらやましい状態なのです。
その知識を自分の中に取り込んで、生かそうという意志が随分弱いと見えています。
技術に関して純粋な心意気は解るのだけど、人間それだけでは食っていけないということをまだまだ解っていないようだ。
多少腹黒く動くこともできないと、人生損をするのだということを八兵衛さんに解ってもらいたい。
こう考えながら一日を締めくくったのでした。
文化十四年、丁丑水無月13日(1817年7月26日)
八兵衛が飛び込んできた翌朝、私は健一様に八兵衛から私へ憑依し直しできないかを持ちかけました。
健一様は驚いて、そのようなことは試したことはない、とおっしゃいました。
そして、私の悪巧みに乗ろうとしたのです。
しかし、やはり憑依し直すことはできませんでした。
そればかりではなく、事故発生の3日目から事故被災者の死亡率が急上昇する、という未来の常識をもたらしてくれたのです。
そして明日朝来るであろう3日目の懸念に囚われているということも。
その日の夕飯が終わった後のことでした。
驚いたことに健一様が「伊能忠敬様、間宮林蔵様」のことを問合せされたのです。
最初、伊能忠敬様がどなたのことを指すのかがさっぱり解りませんでしたが、どうやら深川の三郎右衛門様のことのようです。
伊能忠敬様は、幕府天文方の中心的な存在として全国を測量して回っている方ですが、その測量機器に関して旧知の間宮様を仲介してやりとりさせて頂いたことがあります。
間宮様の生家はここから歩いて半日の所にあり、官吏に取り立てて頂く前から聡明な努力家ということで面識もあります。
このご両名とも私の知人であり、窮理学に明るい大学者なのです。
伊能忠敬様がどういったことをされた方かを聞きだす時に、案の定本来話すべきではないと思われる、これから起きる事件のこともいくつか口にされていました。
このお二人に何をお聞きしたいのかを尋ねると、元いた場所と今の場所がどの程度離れているかを知りたい、とのことでした。
そこまで聞き取ったところで、日が暮れてしまい以降は翌日となってしまいました。
この色々と言いたい放題言わせるという方針は、尋問するより効果があるようです。
今日も日記を付けていると、驚愕すべき事件が、元号を沢山書くことができました。
文化十四年、丁丑水無月14日(1817年7月27日)
そして、3日目の朝のことです。
いつも通り人払いを済ませたところで、健一様がおっしゃった。
「俺もこの時代で暮らしていく覚悟を決めたい」
私はその一言を聞いて安堵しました。
未来の知識を思う存分吸収する機会が与えられたのだ、と。
しかし、私の思惑を知ってか知らずか政治への介入は積極的にはせず、するとしても限られた事柄だけにしたいとおっしゃった。
介入したいのは「海外との不平等条約」と「金銀貨幣の交換比率」であり、ともに徳川幕府の失政にかかわる案件のようです。
私は非常に関心を持ちましたが、この内容についてはまだ整理できていないので後日話しをして下さることとなりました。
また、そういった政治以外のことであれば助言は下さるとのことです。
話しの進めようが無くなったと感じた私は、昨夕の伊能忠敬様・間宮林蔵様にうかがいたい内容について尋ねました。
「谷田部と俺が未来で事故にあった場所がどの程度離れているかを聞きたい」
このようなお答えでしたが、そこから何を知りたいのかをとぼけて聞くと、驚くべき知識がドンドンと放り出されてきたのです。
まず、地球の大きさや緯度や距離、時間について、見たことも聞いたこともない知識・数字がたちまちにして表れました。
様々な計算を、墨で半紙に書き散らし、面倒臭そうに算盤をはじきます。
もちろん、文字や算盤は八兵衛が健一様の声に指示され、その通り書いたり計算したりしています。
結論は「ここから丁度南西方向に百里離れていたならば、10分の6刻南中時刻が違う」でしたが、その結論を出す方法は見たことも聞いたこともありません。
確か、深川の三郎右衛門様・伊能忠敬様は地球の大きさを具体的に知りたくて天文方に自弁で通われた方と聞いています。
ここに書かれていることは、おそらく最新の窮理学・平成の世でいう物理学/数学の産物であることは間違いありません。
私は健一様の許可を得て、書き散らした半紙を集めるとこれを束ね、その半紙が・書かれている数値や式が何を意味していたのか、記憶を振り絞って思い出し追記していきます。
これは、宝物です。
私は、脚注を施しながら感動に打ち震えていました。
「どうにかしなきゃ。
これを、今すぐどうにかしなきゃ。
今直ぐ、深川の三郎右衛門様にお伝えせねば」
さあ、この宝がどうなるのか、伊賀七さんの挙動が気になるところです。