第四章:五大戦士(1)
勇希が紅劉国のことやダコスという名の者が彼女を亡き者にしようと企んでいることを知ったあの日、満が勇希を家に送ったあの日からすでに一ヶ月が過ぎていた。あの日、真津子は一人、どこか行くところがあるからと言って出て行ったがどこに行くのか勇希には教えてくれなかった。あとで連絡すると言っていた真津子からなんの連絡もないままただ月日だけがいつものように過ぎていく。
勇希は母親から手渡された翌日に大切な鍵を無くしてしまったことを悔やんでいたが彼女の生活は何一つ変わることなく、あの晩以来変わったことに遭遇することもなかった。大学の勉強で以前と変わりなく忙しい毎日を過ごしているうちに家に持ち帰ってきたあの光り輝く日記帳のことすらすっかり忘れてしまっていた。
時はもう十月で、勇希の大学も他の大学と変わりなく、この時期は毎年学園祭を開くことになっていた。勇希やつくも、敬介は「The Mixer」というバンドに所属しており、今年の学園祭ではミニコンサートを開くことにしていた。バンドのメンバーは合計五人。各々が違う楽器を演奏する。勇希はサックス、敬介はギター、そしてつくもはフルートである。光という名の青年はトランペットを、その双子の弟である宏樹はドラムを演奏する。それぞれ全く別の楽器を弾いているのだが、五つの異なった楽器がみごとに調和して新感覚の音楽を作り出し、いつの間にか勇希たちの大学ではちょっとした有名バンドになっていた。そこに目をつけた大学側が学園際でミニコンサートをすれば大学での評価点を特別もらえる、と持ちかけたのである。勇希と他の四人のメンバーは向こう二週間の間、昼夜となく練習し、すべてが順調に運んでいた。
ところが、いいことは長くは続かないのが世の常である。バンドリーダーの敬介が学園祭の前の晩、立ちの悪い流感にかかってしまったのだ。勇希と残りの三人はコンサート開始12時間前、急遽コンサートの内容を変えなければならなかった。敬介のパートが必要ないよう曲を夜遅くまでかかって急遽アレンジしなおしたが、ありあわせで作った音は納得のいくものではなかった。バンドのメンバーの誰もが約束されていた評価点がうら寒い神無月の空に消えていくのを感じていた。
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翌日、学園際は予定通り始まった。「The Mixer」がコンサート用に用意した小さなホールはたくさんの人で埋め尽くされていた。勇希と他の三人はステージにあがる前から会場の熱気を感じていた。
「もう、ここまで来たら後戻りできないわ。とりあえずやれるだけのことをやってみましょう」
勇希はそう仲間に言うとステージへと踊り出た。
一曲目、誰も間違えることはなく、わりといい曲調に仕上がっていた。実際、勇希たちのバンドは今までになくいい音を奏で、その証拠に観客たちはまだ一曲目だというのにすでに椅子から立ち上がるとリズムにあわせて踊り始めた。
勇希と三人のメンバーはこんなに大勢の前で演奏したことは今までなく、それがなんて素敵なことなのだろうと今更ながらに感じていた。楽しい時はあっという間にすぎ、会場の誰もがこのまま何事もなく、コンサートは大成功に収まるだろうと予感していた。だが、そんな皆の気持ちとはうらはらに何かが闇でうごめいていた。三曲目は勇希のソロ曲で甘く切ない曲に皆が酔っている頃、事件は起こった。
「勇希!あぶない!」
勇希の隣にいたつくもが突然叫び声をあげたかと思うと、その瞬間勇希の前に踊り出た。
勇希にはつくもの前に背の高い黒い影だけが見えた。観客はいったい何が起こったのかわからず、ただ静かにその場に立ち尽くしている。なかにはもっとよく見ようと椅子の上に立っている者もいた。たぶん、これも余興の一部だと思っているのだろう。
勇希が少しだけ体を右へずらすと、その黒い影がただつくもの前に立ち尽くしているのではなく、妖しく光る、大きな刃物で切りかかっていることに気がついた。
つくもは自分のフルートを使って敵の武器をくい止めていたのだった。つくもは奥歯をぐっと噛みしめてなんとか力を押しとどめているが、影の存在はつくもよりずっと大きく、つくもが力で対抗できないことなどは誰の目にも明らかだった。このままではつくもに勝算はない。
「き…さ…まあ…!!」
つくもが食い縛った歯の隙間から絞るようなうなり声をあげる。
まるで他人がしゃべっているようで、勇希が知っているいつもの彼女の声とは違っていた。
「やああああああ!」
つくもは叫び声とともにフルートで襲い掛かっていた影をステージ上から突き落とした。影の力から開放されたつくもはフルートを左手に持ち帰ると、まるで武器であるかのごとく身構え、ステージから客席へと転げ落ちたその影を射抜くかのような視線で睨み付ける。影はすぐさま床から立ち上がると、今度は中空へと浮かび上がった。
「勇希、逃げて!ここから離れるのよ!」
つくもが勇希に向かって叫んだが、勇希は一寸たりとも動くことができないでいた。いや、動けないと言うのは正確ではない。勇希は自分の意識が何か外からの力で呪縛され、自分を自分自身の力でコントロールできないことを感じていた。
その間にも、影は益々大きく膨れ上がり、勇希の藍色の瞳は、その血のように赤黒く光る一対の目を暗闇の中に捕らえていた。
「あんた、一体?」
つくもの声は動揺を隠せない。
突然、影がつくもに向かって動いた。つくもがはっと身構えた時には敵の大きな刃物がつくもの右腕にくいこみ、真っ赤な鮮血が滴り落ちた。
つくもの腕にくいこんだ刃を見た観客はやっとこれは余興の一部でも何でもないことに気付いたらしく、前側に座っていた少女たちの切り裂くような悲鳴が会場に木霊した。そして、2人のバンドメンバーを含む人々は我先にと会場から逃げ出していった。
つくもは自分に襲い掛かったその影を苦々しく睨み返すと銀色に光るフルートを握る手に力をこめた。
今度は自分から影に襲い掛かろうと身構えたその時、強い風が会場の中へと吹き込んで朦朧としていた勇希の意識を引き戻した。我に返った勇希のセピア色の瞳は黒い影の後ろに立つ背の高い大きな男の姿をとらえた。
「満さん!」
勇希が叫ぶ。
満はいまや空っぽになった客席の中、長い刀を手に佇んでいた。満は何も言わずにその刀をつくもへ向かって投げた。瞬間、つくもは持っていたフルートを投げ捨てると、その左手に輝く刀を受け取った。と、突然つくもは落ち着きを取り戻したようで、影に向かってにやりと微笑む。
「さ〜て、懐かしい仲間も手に入ったようだ。これでもまだ、俺とやり合うっていうのかい?」
勇希には影の表情など見て取れるはずもなかったが、少しだけ、次の手を出しあぐねているかのようにその赤い目に陰りが差したような気がした。
「死にたくないのなら、撤退したほうが身のためだ。帰って、お前のご主人様に伝えな。貴様は俺たちのお姫様を手にいれることはできない。なぜなら、今度は俺が護っているのだから」
つくもが言うと、影は小さなうめき声で答えた。
「かつて我々はお前たちを滅ぼしたのだ。今度も必ず…覚えておけ」
形のない口から低くおぞましい声を絞り出すようにしてそう言うと、その影は勇希たちの目の前から消えうせていた。