第一章:運命の足音(1)
「…ユル…ナユル…」
誰かが少女の名前を呼んでいる。
(誰?私を呼んでいるのは。誰なの?私、この人の声を知っている。彼は…)
甘く強い低音の男の声が勇希の頭の中にだんだん大きくはっきりとこだましてきた。勇希は暗闇の中に立っていた。周りを見回したが、闇が深すぎて、自分の手すら見ることができない。
「誰なの?どうして私のことをナユルって呼ぶの?」
勇希は目に見えない相手に向かって問い掛けた。
「君には危険が迫っている。ここから逃げるんだ。俺がいつでも守ってやる。何があっても、俺は君と一緒にいるから…」
そう謎の声は続ける。
勇希はその声を知っていた、だが彼女の意識は暗い影に覆われて声に出して呼びたいはずのその人の名を思い出すことができない。
突然、勇希は完璧な暗闇の中、二つの藍色の瞳が自分を見ていることに気がついた。
「あなたは!」
その名を勇希が口にする前に、その男の姿は消えうせ、代わりに勇希はうす暗い不思議な部屋に立っていた。
***
「どうぞ、お座りなさい。おじょうさん」
丸いテーブルの向こうから黒いケープを絹のような白髪にかけた老女が勇希に声をかけた。
「そうよ、勇希、あんたの将来を聞いちゃおうよ」
勇希の高校時代の友達だった咲が丸テーブルの前に置いてあったいすに勇希の背を押して座らせた。
黒いシルクの布がかけられたテーブルの上には大きな水晶玉が赤いベルベットのクッションの上で妖しげな光を放っている。
「でも、咲、私、未来なんて知りたくないのに…」
勇希は反発して古くからの友人のほうを見上げる。
「まあまあ、今日はあんたの16才の誕生日でしょ。楽しまなくっちゃ。それに、彼女、なかなかすごいって噂だし。ね、ちょっとだけ、お遊びだと思ってさ」
咲は勇希にウインクしてみせる。
勇希はそんな咲をみて、言い争っても無駄なことに気がついたので、素直に言うことを聞くことにした。勇希はふっとため息をもらすと占い師のほうに向き直った。
暗闇の中、勇希にはこの占い師の白い髪と白く骨ばった手に真っ赤なマニキュアをした爪だけがはっきりと見えていた。
「よろしいですか、お嬢さん。では、両手をこの水晶の傍に添えてください。触らずに、ただ傍に添えればいいのです。そう、いいですね。では、目を閉じて、頭の中にこの水晶玉を思い浮かべて…水晶玉があなたから全ての気を受け止めることで、私にはあなたの未来に何が待っているのか見ることができますから」
その年老いた見かけとは裏腹に、占い師の声はとても優しく、はっきりしていた。
勇希が言われたとおりに目をつぶると、水晶玉が少しずつ光を放ちだした。光は叙々にその大きさを増し、まるで太陽のようなまぶしさで、咲は思わず目を閉じる。
「これは…!」
勇希は占い師が息を飲むのを聞いた。その金色に輝く眩しい光は閉じた勇希の目にも感じられた。
「なにが起こってるの?」
勇希は誰にともなく問い掛ける。
「あなたは…」
占い師はいったん呼吸を整えると、言葉を続けた。
「あなたは古代帝国で大変重要な人物の一人…さあ、お嬢さん、もう目を開けても大丈夫」
占い師の声は今や興奮でうわずっていた。言われて勇希は目を開ける。水晶玉はまだ金色に輝いていたが、前ほどその光は強くなかったので、目を細めなくても水晶玉の様子がはっきり見えるようになっていた。
「ここに5つの珠が浮かんでいるでしょう?これがあなたの守護者たち。いつもあなたのことを守ってきたのね」
占い師はやせこけて骨ばった指で水晶玉を指さしながら言った。
勇希は水晶玉の中で赤、青、緑、オレンジ、そして紫色に輝く5つの珠をみつめた。
「勇希、あんたの理想の彼のことを聞いてみなよ」
突然、咲が勇希の耳元に囁いた。
「なっ!」
親友の顔を見た勇希の顔は真っ赤に紅潮していた。
勇希がなにか反論しようとした時、突然占い師が耳をつんざくような悲鳴をあげた。勇希と咲はなにが起こったのかわからず、お互い顔を見合わせる。
占い師を振り返ると老女の顔はまるでこの世のものではないものを見たかのように血の気が失せて真っ青になっている。彼女の目は恐怖で大きく見開かれ、水晶玉に釘付けになっている。その水晶玉の中央から黒い影が現れ、金色の光を闇へと飲み込もうとしているのが見えた。
「陛下、その男のことを捜すのはおやめください」
しばらくして正気を取り戻した占い師の声は硬く、その瞳は妖しい光を放っていた。
「どういうことなの?」
勇希は問い返した。そうする間にも水晶玉の中では深紅の液体が滲み出て、黒い影をどろどろした血の海に染めていく。
占い師は勇希の腕をぎゅっと握り締める。この骨ばった手のどこにそんな力があったのか、勇希の腕はみるみるうちに血の気が失せて白くなっていく。
「決してあなた様の理想の男をお探しになってはなりません。なにがあろうと、見つけ出してはいけないのです」
「なぜ?どうしてそんなことを言うの?もし、見つけちゃったらどうなると言うの?」
腕にかけられた強い力が勇希に理由を聞いてはいけないことを語っていたが、勇希はどうしても聞き返さずにはいられなかった。
占い師の手は勇希の腕をいっそう強く握り締め、あまりの力に勇希はおもわずうめき声をあげそうになる。
急に腕の痛みが弱まった。ふと気が付くと、勇希の周りには再びあの混沌とした闇が漂っている。ただ、彼女の頭の中で、あの老女の静かだが、有無をも言わせぬ声が響いた。
もし、あなた様があのお方を見つけてしまわれたなら、それはあなた様が死を迎えるときです…と。
勇希は全身がしびれていくのを感じていた。彼女の身体は闇の奥深くへと沈んでいった。魔の暗闇の奥底へと沈みながら、なにもかもがうつろになっていく。ただ、あの占い師の声だけが勇希の心にはっきりこだましていた。
「あのお方を探してはなりません…決して探そうなどと思われるな…でなければ、あなた様は死んでしまう…」