第九章:カミン・タイラー(1)
「カミン…カミン…」
自分の名を呼ぶ女の声がまるで暗く長いトンネルの中で囁いているかのように辺りにこだましている。
「誰かが俺を呼んでいる。いったい誰が?君は一体誰なんだ…?」
カミンは自分の意識と戦っていた。自分が今起きているのかそれとも夢を見ているのか、よくわからない。頭の中で夢の世界に留まっていたい、ともう一人の自分が叫んでいる。それなのに何か、いや、何者かが身を隠そうとしているカミンを闇の中から引っ張り出そうとしていた。
「俺にかまわないでくれ…放っておいて…頼むから!」
カミンは心の中で見えない声に懇願する。
「目を覚ましたくない…ここから出るわけにはいかないんだ…駄目だ!」
カミンは自分を闇から引きずり出そうとする姿の見えないその女に向かって叫んだ。だが、その女はカミンの悲痛な叫びなどまったく気にも止めていない様子で続ける。
「カミン、答えて!私の声が聞こえてるんでしょう?お願いだから、返事をして。カミン!」
最初はおぼろげだったその女の声が、今は妙にはっきりとカミンの耳に聞こえてきて、ついにカミンは目を開けた。眩しい蛍光灯の光がカミンの藍色の瞳に差し込んでカミンは思わず形のいい眉をしかめた。あまりの眩しさにしばらくは何も見えない。
どれくらいあの闇の中にいたんだろう?カミンはふと思ったが、随分長い間いた、というだけで、自分が一体あの闇の中で何をしていたのか、いつからあそこにいたのか、全く思い出すことができないことに気が付いた。
「っ…ここは…一体?」
暫くすると目が光に慣れてきたのか周りの様子が少しずつ見えてくる。
「カミン」
夢で聞いたのと同じ女の声がまたカミンの名を呼んだ。
「…マ、ホーニ−?」
カミンは声のするほうをゆっくり振り向くと、戸惑ったような声でその声の主の名を呼ぶ。
「カミン…ほんとに…本当にあなたなのね…」
真津子はほっとしたのかその紫の瞳を涙で濡らした。カミンは四人の懐かしい顔が自分を心配そうに覗いているのに気が付く。カミンの藍色の瞳が驚いたように広く見開かれた。
「ケラ…チドル…それに、クルツも…?」
カミンは仲間の名を呼んだが、まだ何が自分の身に起こったのか、状況がよくつかめていないようだった。カミンは仲間の顔を見つめながら、まだぼうっとした頭で状況を把握しようとした。
「な…なんで俺がここに…?」
ふと、何か思い出したのだろう、カミンは急に厳しい表情になると辺りを見回した。
「ナユル!ナユルはどうした?何か、あったのか?」
カミンは辺りに敵がいないかと見回したが何もおかしなところは見当たらない。 真津子は自分の手をカミンの肩に置くとカミンに落ち着くように促して、今までカミンが寝かされていた長椅子に座らせた。
「心配しないで、カミン。ナユルのことなら大丈夫。私たちがあなたと話せるように、今は眠っているだけだから。」
カミンは驚いたように藍色の目を見開くと、まだ困惑した顔で古い仲間の顔をまじまじと見つめた。
「どういうことだ?」
「俺たちみんな、お前と話がしたかったんだよ、カミン。一体、お前に、そして俺たちに今何が起こっているのか、教えてくれないか?」
部屋の反対側に置かれた木製の椅子に座っていた敬介がその真剣な言葉とは裏腹に、まるで好奇心旺盛な子供のようにその瞳を輝かせる。
「勇希…ナユルが、あなたを呼んでくれって言ったのよ。あなたなら、私たちが知らない何かを知っているかもしれないと」
つくもが隣に座りながらそう、説明した。
「ナユルは、俺が彼女の中にいることを知っているって言うのか?」
カミンは驚きを隠せない様子で呟く。
「ああ。彼女だけじゃない。俺たちみんな、お前が勇希の中にいるということは分かってる。そして、彼女が危険な時だけ、お前が姿を表すってことも。だが、たった一つ、わからないのはどうしてお前が勇希であって、自分自身でないのか、ということだ。お前に一体何が起こったのか、どうしてお前が勇希の体を共有しているのか、それがわからないことにはダコスから勇希を、ナユルを護ることは無理なんじゃないか、それが俺たちが出した答えだ」
窓の側に立っていた満が代表して答える。
「それは…」
カミンは言葉を濁すとうつむいて下唇を噛んだ。
「言いにくいこと、なのね?」
真津子はそんなカミンを見てそっと声をかける。いつも快活でナユルのこととなると無鉄砲だったカミンが言葉を濁すなど、真津子には信じがたいことだった。何か、言いたくないこと、皆には知られたくない事情があるに違いない。
聡明な真津子がそんな可能性を考えなかった訳はなかった。だが、今のままでは何も解決の糸口は見つからない。ぐずぐずして手をこまねいているばかりでは、いつかダコスの思う壺に嵌ってしまう。
事実、昨日襲ってきたあのルシファーはかなりの凄腕だった。あのカミンの技をもってしてもカミン一人では太刀打ちできなかったのだ。このままでは確実に勇希を奪われてしまうのは時間の問題だ。流暢なことを言ってはいられない。事は一刻を争うのだ。
もちろん、勇希が嫌だと言えば無理強いはしないつもりであったが今朝になって、勇希は真津子たちがカミンと話すことを望んだのである。それでも、やはりカミンを無理やり引っ張り出して話をしようなどというのは間違いだったのではないか、真津子は少し後悔していた。
言いたくないなら言わなくてもいい、そう真津子が言おうとした時、カミンはわかった、と小さく頷くと、ぽつり、ぽつりと話し出した。