第五章:最後の五大戦士(1)
満が傷ついたつくもを流クリニックに連れて帰った後、勇希は自分の家に帰ると、まるで呆けてしまったかのような面持ちで、長い間自分の部屋に閉じこもっていた。
勇希もつくも達と一緒に行きたいと言ったのだが、満はそんな勇希の気持ちを知ってか知らずか、あとで連絡するから、とだけ言ってつくもと立ち去ってしまったのだ。勇希は自分のベッドの上に横になると病院のように白い天井をじっと見つめていた。
灯台でなにか影のようなものに始めて襲われてから一ヶ月。もちろん、あの出来事や失われた鍵のことを忘れてしまっていたわけではない。だが、まさか、彼女の命を狙った誰か、いや、何かが自分の友達にまで手を出そうとは思ってもいなかったのである。
つくもは決して仲のよい友達、とは言えなかった。いつも競争心丸出しで勇希にくってかかっていたつくもにほとほと愛想がつきることもしばしばだった。それでもなお、つくもが勇希の命を救ったのは事実だ。
「なんであんなこと…」
勇希は自問自答し始めていた。
「私のために、あんな怪我まで負って…どうして自分の命を危険にさらしてまで、あんなに嫌っていたはずの私を助けてくれたの?」
真っ白な天井が目に溜まった涙のせいでぼやけていく。勇希は下唇をかむと、壁のほうに寝返りをうった。
つくもが自分の身を呈して危険に立ち向かった時、勇希はぴくりとも自分の体を動かすことができなかった。ただその場にばかのように立ち尽くして、自分の友達が邪悪な影に傷つけられるのを見ているしかなかったのである。その影の本当の目的はつくもではなく、勇希であったのに。
勇希は音もたてず、静かに泣き崩れた。涙が勇希のセピア色の瞳から止め処もなく溢れ出て、血色のいい薔薇色の頬を濡らしていく。
「泣かないで」突然、背後から懐かしい声が聞こえてきた。
勇希はゆっくりと体を起こすと周りを見渡したが部屋にはやはり自分のほかに誰もいなかった。
「今の声…」
何か言いかけたとき、机の上の何かが青く優しい光に被われているのに気が付く。それはあの灯台で、勇希が見つけた日記帳だった。
勇希はティッシュで涙を拭うと日記帳と向き合うように椅子に座った。勇希がそっと日記帳に手をかけると、その青い光は忽然と消えてしまった。
少しだけためらった後、日記の表紙をめくってみた。何ページかめくってみるが、何も書かれていない。
「?」
勇希があの灯台の地下に閉じ込められた時は長々とカミンという青年のことが確かにこの日記帳には書かれていた。それが今はそっくり消えてしまっている。それだけではない、どんなにページをめくってみても、何一つ、記述されてはいなかったのだ。
「一体これはどういうことなの?」
勇希は軽い眩暈を覚える。彼女の心臓は勇希の体から逃げ出そうとでも言わんばかりに早く脈打っていた。
日記を閉じると、自分の胸に当てて、呼吸を整える。目をつぶってしばらくじっとしていると、少しずつ、落ち着きを取り戻してきた。
心臓がいつものように規則正しいリズムで動き出したことを確認すると、そっと目を開けて同時に日記の中央を開いた。すると突然、青い光が日記帳の中から部屋に差し込んでそれと同時に一種のホログラムがまっさらなページから飛び出してくるのが見えた。
始めはぼんやりと影だけが、そして叙叙に一人の青年の姿が現れた。一対の藍色の瞳が彼の青く長い前髪の下で勇希を見つめている。その青年は勇希が長い間ずっと夢に見てきたその人そのものだった。勇希は夢とはまた違った場所でこの青年の顔を知っていた。
そう、あの灯台の地下室で勇希が見つけたもう一つの古い歴史書、その中に彼がいた。青年の名はカミン・タイラー、紅劉国五大戦士の一人である。カミンは優しく微笑んで、驚く勇希に話し掛けた。
「お願いだから、もう泣かないで」
カミンは穏やかな甘い声で静かにささやいた。
勇希は自分が泣いていたことを本当にカミンが知っていたのかと思ったが、彼女がなにか言う前にカミンは続けた。
「何があろうと、いつでも俺が護ってやる。だからナユル、もう泣かないで」
勇希はこのホログラムはきっとナユルの思い出を記録したものなのだ、と理解した。きっと二人がまだ生きていた頃に、カミンがナユルに言った言葉なのだろう。それをこの日記がまるでビデオかなにかのように映像として記録していて、今、勇希に見せているというわけなのだ。
その証拠に、勇希はカミンの藍色の瞳の中に映る白くこざっぱりとしたドレスに身を包んだナユルの姿に気が付いた。彼の瞳の中のナユルはなぜかとても悲しそうな表情をしている。カミンは目を閉じると、まるで自分の中の何かをふるい落とすかのように静かに首を振った。再びカミンが目を開けたとき、勇希にはその息を呑むほどきれいなカミンの瞳の中に、ナユルへの愛情だけがはっきりと見てとれた。
「ナユル、俺も君と離れたくない。だが、普通の男である前に、俺は五大戦士の一人でもある。俺は君の、ナユルの守護者であり、そして、この国に使えている者。俺が俺である限り、俺は君とは一緒になれないんだ」
カミンはそこで言葉を切ると、その瞳にはこのうえない痛みと悲しみが浮かんでいた。カミンは深く息を吸うと、勇希が今まで誰にもみたことのないような最高の笑みを浮かべてみせた。
「でも、これだけは忘れないでほしい。俺はいつでも君の側にいる。俺の命にかえてでも、俺は君を必ず護ってやる。俺の一生を君を護るために捧げよう。君は俺の命なんだ」
勇希は自分の顔が赤くなるのを感じて、きっとナユルも同じ気持ちだったのだろうと思った。
と、突然、笑みがカミンの顔から消えた。 代わりに、カミンの目が警戒して鋭い光を放つ。
「勇希」
カミンが呼んだ名はいまや勇希のものだった。
勇希が驚いていると、カミンは低い警戒した声で続けた。
「勇希、ここから離れるんだ」
勇希はいったいなにがおこっているのか状況を把握できないでいた。そうする間にも、カミンの表情は硬くなり、ついには大声でこういった。
「勇希、急げ、窓から離れるんだ!」
カミンが言い終わるか終わらないうちに、目の前にある窓の外で何か黒い影が動いたのに勇希も気がついた。勇希が気配にゆっくりと顔を上げる。彼女のセピア色の瞳は大きく見開かれ、まるで誰かが顔に冷たい空気を吹き付けたかのように目の前の光景に凍りついた。
勇希の目の前で、その大きな暗い影はキングコングの従兄弟のような真っ赤な毛に覆われたモンスターに変わっていった。それは巨体にもかかわらず、二階の窓の外にふわふわと浮いていたのだ。その汚い黄色の目が勇希を捕らえると、大きく開いた口から真っ黒な尖った歯が覗いていた。
カミンのさけび声が勇希の頭の中で、早く逃げるようにこだましていたが、勇希は腰が抜けたかのように、その場から動けないでいた。真っ赤なキングコングは激しく吠えると、その巨体には似つかない素早い身のこなしで窓へと向かって動いた。窓はこなごなに砕け散り、勇希の恐怖の叫びが冷たい星のない夜に響きわたっていた。