プロローグ
「クシュン!」
少女は小さくくしゃみをした。
「あーもう。また誰か噂してるなー」
ポケットからティッシュを取り出すと丁寧に鼻をふく。九月下旬の暖かい秋の陽の光が彼女の長い栗色の髪に降り注いだ。
彼女の名は奈波勇希。二十歳になったばかりで、劉翔学院大学の三年生だ。たった今、今週最後の講義である『紅劉国古代文明』の授業から解放されたばかりである。勇希は幼い頃からいろんな古代文明に興味を持っていた。そんな彼女のお気に入りの文明は紅劉国である。
紅劉国とは約五千年ほど前に建国された一大大国で、勇希の住んでいるところからするとちょうどこの惑星を半周したところに存在していたと信じられている文明のことである。そこは二千年という長い間、犯罪や災害といった問題のない、いわゆる理想郷のような場所であった。
一年を通して春のような過ごしやすい気候が続き、豊かな土地のおかげでいつも農作物は豊富にあった。この国の王家は代々正しく平等な統治を行い、その民のことをこよなく愛し、また、国民も彼らの王を慕い、その忠誠を誓った。
ところが、そんなユートピアとも言えるような国にも突然の終焉が訪れる。国内で戦争が勃発したのだ。この理想郷をあっという間に塵埃へと変えてしまうのに二年もかからなかった、と言われている。
現代の全技術をあわせてもおよばないと言われるほどの偉大な文明であったが、その歴史を変えてしまうことになった戦争についての文献は未だ見つかってはいない。このかつて完璧であった大国を無にかえしてしまうような戦争が起こった理由は誰にもわからないのである。
「もし、何か手がかりでも見つけることができたなら…」
勇希の夢はなかなか叶いそうもなかった。
***
「おーい、奈波!待てよ!」
誰かが叫ぶ声が聞こえた。勇希のセピア色の瞳が鮮やかなオレンジ色の髪をした若い男の姿を捕らえる。
「立花君?どうしたの?つくもと一緒にいるはずじゃなかったっけ?」
立花と呼ばれた男はものすごいスピードでメインキャンパスから中庭に続く階段を駆け下りてきた。
「そんなに急いだらこけるわよ…」
勇希が言い終わる前にオレンジの髪をした男は最後の一段に足をとられ、コンクリートに思い切りしりもちをついた。
「…っつ!」
男はかみ締めた歯の奥で声にならない悲鳴をあげる。
「あーあ。聞いてくれれば痛いよって教えてあげたのに…」
男は勇希が差し伸べた手を無視して立ち上がると汚れたズボンを両手で掃う。
「うっせえな。コケたいときはコケるんだよ、俺は。お前の助けなんかいらねえったら」
敬介はそういうと、すねたように勇希から目をそらす。
「ちょっと、なんで私に怒るわけよ。自分が悪いんでしょ」
勇希はアッカンベーをしてみせた。
立花敬介、それがこの派手なオレンジ色に髪を染めた短気な青年の名前である。彼もまた、劉翔学院大学の三年生である。二浪しているので勇希より二つ年上だった。勇希は敬介をあたかも本当の兄弟のように慕っていた。ぶっきらぼうに話してはいるが、心の奥では敬介がいつも勇希のことを心配していることを勇希はちゃんと知っていた。
二年前、音楽のクラスで出会ってからというもの、敬介はいつも勇希のことを見守ってくれていた。そんな敬介に勇希は感謝してはいるものの、彼のやさしさが敬介の彼女である安東つくもを嫉妬させていることも勇希にはよくわかっていた。
勇希はこれまでに何度かつくもに敬介に対して特別な感情がないことを言ってみたが、つくもはいつも勇希と競争しようとした。
「あーあ。夢の王子様さえ見つかれば、こんな気を使わなくても済むんだけど…」
勇希はふっとため息をもらした。
「え?何言ってんだ、お前」
敬介は目を細めて勇希をじーっと見た。
「え?な、なんでもない、なんでも。私、なんか言ったっけ?あははは」
気づかないうちに思わず口に出していたらしい。勇希は顔を真っ赤にしながらもとりあえずその場を取り繕おうとわざとらしい笑みを浮かべた。
「あー!敬介!やっと見つけたあ!」
若い、小柄な少女が突如現れたかと思うと敬介の右腕にしがみついた。
「つくも!何やってんだ、こんなとこで。清田先生の実験の手伝いをするんじゃなかったのか?」
敬介はまだ自分の腕にしがみついている少女の顔を覗き込んだ。
「あら、忘れちゃいないわよ。ただ、あんたを一緒に連れて行こうと思ってさ」
つくもと呼ばれた少女はそう言いながらおもいきり敬介の腕を引っ張った。
安東つくもと敬介は幼なじみだった。つくもがこの大学の1年生になってから付き合いだしたようだがどちらかといえば兄妹のようにいつも口げんかが絶えない。
「あ゛―!!そんなに強くひっぱんなよ。もっとこう、優しくなれないのかよ、ほら、フツーの女の子みたいにさ?だいたいなんで俺がお前と一緒に行かなきゃいけないんだよ。お前が自分で買って出たんじゃねえか。俺は知らねえよ」
「あたし?優しくだって?冗談じゃないわよ!あんたはあたしの彼氏なんだから、あたしの言うことは聞かなきゃいけないの。そうよね、勇希?」
つくもはなおも敬介の腕を強くつかみながら勇希を挑戦的な瞳で見つめた。
つくもは勇希より15cmも背が低く2歳も年下だったが、彼女のきつい緑色の瞳は強く冷たい光を放ち、その瞳で睨みつけられたものは誰もが口を閉じるしかなかった。
(つくもとはぜったい闘いたくないわ。いくらあの子が私より小さいとはいってもあの子がほんとに怒ったら私なんて絶対勝ち目ないもの)と勇希は思う。
勇希は心の中でそっとため息をつくと大きな微笑を浮かべてつくもに賛同した。勇希が手を振って見守る中、かわいそうな敬介はつくもに強引に引き摺られるように化学実験室へと消えていった。