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朝の思い付き通り、俺は授業を抜けて大迷宮へ行くことにした。抜けてと言っても、もちろん許可は得ているが。
迷宮通りにまだ人は少ない。開いている露店も数える程度で、午後の賑わいとは比べるべくもなかった。日が昇っているというのに、まるで夜のように静まっている感じ。
それだけギャップが激しいんだろう。いい機会だからじっくり見て回りたいが、学園からは最低限の時間しか許されていない。シビュラから渡されたクッキーを届けて、要件を伝えたら即帰還だ。
もっとも、
「朝早くの迷宮通りなんて、私初めてです! ついでですからじっくり観光しませんか? ユキテル様っ!」
「……」
何故か、シビュラまで一緒に来てしまった。
大迷宮に入れない彼女は、今回に限って入場する許可を取り付けている。ケルベロスにお手製のクッキーを与える手前、自分が行かないのは変、と押し切ったらしい。
無論、当人は微塵もそう思っちゃいないだろう。単に迷宮通りへ、大迷宮へ入りたかっただけに違いない。
「早く帰るんだから、はしゃぎ過ぎないようにね」
「分かってますよー。あ、ユキテル様みてください! 魔獣のお肉が売ってますよ! 今晩はこれにしましょうか?」
駄目だ、この女絶対聞いてない。
シビュラは目当ての店に向かうと、さっそく店主と親しげに話し始めた。調理方法でも聞いているのか、店主の方が身ぶり手ぶりで解説している。
……本人は楽しそうだし、あまりしつこく言うのは止めておこう。学園への言い訳は何個でも考えられる。
「あら、この前の坊やじゃない」
「げ……っ」
悩ましい美声の持ち主は、誰なのか問うまでもなかった。
処女神アテナのライバル、美と愛の女神アプロディテ。以前と同じ扇情的な出で立ちの彼女は、吐き気がしそうなぐらいの色気と一緒に近付いてくる。
「今度は別の女の子を連れてくるなんて……うふふ、色男じゃない。やっぱり君はあの駄女神と一緒にいるべきじゃないわ。お姉さんと一緒にいればきっと楽しいから、ね?」
「え、遠慮しておきます」
こちらに両手を伸ばしてくるアプロディテを、寸のところで抑制する。
彼女は不満を露見させることなく、意味あり気な目付きで腕を組む。大きさと形の良さを備えた巨乳が、お陰でグッと持ち上げられた。
注目したら術中に嵌まるだけのに、それでも無視は選べない。男の本能が刺激される。
「ねえねえ、何か困ってることとかない?」
「い、いきなりどうしたんですか?」
「やあねえ、そんな疑いの目で見ないでくれる? 私は単に、親切心から君の手助けをして上げようと思ってるのよ? 学生が朝から大迷宮だなんて、普通の出来事じゃないし」
「……」
一挙手一投足が妖艶な美女は、物言いたげな目でこちらを眺めている。
手助けか。確かにアプロディテのような女神なら、問題を解決する術はあるかもしれない。が、彼女が関わると、最終的にトラブルとなるのが目に見えている。
絶対に断るべきだ。ヘルミオネだって協力してくれるんだし、ここで女神の手を借りる必要はない。
「ふむふむ、ギルドのことで悩んでるのね」
「!?」
「隠そうとしたって無駄よー。私達は人間の考えてることなんて、お見通しなんだから」
さっそく悪戯を思いついたらしく、アプロディテは悪辣な微笑を作っている。ああ、もう駄目だ、おしまいだ。
組んだ腕を離し、彼女は口元に指を添えて言った。
「他のギルドからシード権を譲ってもらいたいのね? 分かったわ。お姉さんが人肌脱いであげましょう」
「い、いや、遠慮します! 脱がないでください!」
「そう言われると余計に脱ぎたくなっちゃうわ! ではでは――」
途端、彼女の手に弓と矢が出現した。
弓の方は何の変哲もない代物に見えるが、矢は違う。矢じりの部分が黄金、しかもハートマークで作られていた。及ぼす効果についても、何となく想像がつく。




