第八章
なくなった筆箱を探していたら四時半になっていた。筆箱は六年生の教室の前の女子トイレの便器の中に入っていた。えんぴつやら消しゴムが濡れてしまった。そしてくさい。旬はえんぴつの一本一本と消しゴムを洗って、においがとれないことがわかると全部をゴミ箱に捨てた。
弁太はこんなことをするために女子トイレに入ったのだろうか?がんばるなあ。変なところで旬は感心した。
昇降口に行くと灰色の髪をした女の子がいた。体育座りをしている。その女の子は言った。
「旬、今日は走ってくれる?」
旬はうなずいた。
「おう、走ろう。」
霞は笑った。そして立ち上がった。
「うん、じゃあ行くよ。ヨーイ、」
霞は手を床について、脚を伸ばしておしりをつきだした。旬も右手をひいて、右足を前に出した。
「ドン」
霞がそう言うと二人は走り出した。やっぱり霞の方が早い。スタートの仕方とかそういうことじゃない。経験の差だった。
一年生の前を通り、保健室、職員室、校長室を通り過ぎて二階へ。二年生の教室をこえ、三年生と四年生の教室をぬける。やはり誰とも会わない。階段をのぼって三階へ。五年生の前を走り、六年生の長い廊下を走り終えるともう、終点だ。
霞はぴったりと止まった。旬も今度は壁にぶつからずに止まることができた。そして意識が飛んだ。
目覚めるとあの世界だった。窓ガラスが黒く塗られているあの世界だ。人型風船とかがいる世界だ。
「あのさ、霞。聞いていい?」
霞は六年生の廊下にかかっている緑色のひもで灰色の髪を一本に結わえている。
「いいけど、何?」
「この世界の名前ってさ、何っていったけ?忘れちゃったんだ。」
霞は髪を結わえ終わり、旬の顔を見た。
「何、レルネーヨ世界のこと?」
「そう、それ。それってさ、誰が名づけた名前の?霞?」
霞は廊下の先を見た。蛍光灯が手前からパチパチとついていく。
「ちがう。それに誰が名づけたかなんてそんなこと知らない。」
旬は続けて聞く。
「じゃあ、何で霞はそんな言葉を知っているの?」
「わからない。でも知っているの。なぜかは知らないけれどなんとなく。」
その時、学校全体をゆらすような大声が聞こえてきた。
「ええええええええええええええ。」
旬も霞も思わず耳をおさえた。廊下の何枚かの窓ガラスにヒビが入った。
「今日の『転校生』みたいね。」
「そう、みたいだね。」
旬には今ので『転校生』が何なのかがわかってしまった。でも、『転校生』をたおして何が変わるというのだろう?本人が変わらないと何も変わらないというのに。四年二組だってそうだったじゃないか。
「旬、前を歩いて。」
そんな霞の言葉に旬は不満そうに言った。
「なんだよ、またおとりかよ。」
そう言う旬に、霞はちりとりを投げて渡した。旬は受け取るとそのちりとりには六年一組、と書かれている。霞はほうきを持っていた。
「男の子なんだから、先に行きなさいよ。」
そう言われても、と旬は思った。僕はあいつが苦手なんだ。
それでも渋々、旬は歩き出した。六年生の教室の前を通り、五年生の教室の前へ。『転校生』がいるところはわかっている。五年二組だ。間違いない。
「ええええええええええええええ。」
また聞こえてきた。教室に近づいたから、声がますます大きくなっている。鼓膜がいたい。窓ガラスにひびが入った。
霞は五年一組の教室に入ってティッシュを持ってきた。そして丸めた。
「これ、耳につめて。こんな大声じゃあ、鼓膜がやぶれちゃうよ。」
旬はちりとりをわきにかかえて、言われたとおりにティッシュを耳につめた。霞も耳につめている。
「『転校生』は五年二組にいるよ。」
そう旬がつぶやくのを聞いて霞は不思議そうな顔をする。
「『転校生』に心当たりがあるの?」
「そう、あるんだ。もしかしたら知り合いかもしれない。」
「そう。」
霞は五年二組の教室の扉を見つめる。
「じゃあ旬が扉をあけて。」
まあ、そうなるだろうと思ったけれど、旬は言われるがままに五年二組の扉をあけた。教室の中は机や椅子が散乱している。蛍光灯は半分くらいしかついていない。
そして暗い五年二組の教室の後ろの方を見る。すると教室の半分を埋めつくす巨大な肉のかたまりがあった。人のはだの色をしているけれど形はまるっこい。本当に肉のかたまりだった。
肉はもぞもぞと動いている。そして一個の目のようなものが肉の裏側から動いてきて、静止した。その目がこちらを見た。そしてその目のようなものがぱちくりぱちくりまばたきした。
そして同じように、口が上の方から、もう一つの目が左の方からあらわれて、口はぱくぱくと開いたり閉じたりし、目はぱちぱちまばたきしている。気持ち悪い。肉のかたまりの両目がじっとりと旬のことを見ている。
そして急に、ぼわっとその肉が浮かび上がり、旬の方にせまってきた。旬は驚いて扉をしめた。
「旬、どうしたの?」
急に扉をしめたので霞はおどろいている。その霞の腕を旬はつかんで、走り出す。
「早く、逃げるんだ。」
ドシン、という音がして校舎がゆれた。そして教室の扉が廊下の方に倒れた。そして扉のわくを壊して肉のかたまりが飛び出てきた。
「何、あれ?」
「『転校生』に決っているだろ。」
そう言うと旬は図書館の方に向かって走る。旬に腕をつかまれた霞も走る。
「えええええええええええええええええ。」
肉のかたまりの声で空気がビリビリと震える。旬のほほや腹の皮も震動している。でもそれほど鼓膜は痛くない。ティッシュのおかげだ。
図書館の前を曲がり、階段を横目に抜けて第二音楽室の前を通過する。そして旬と霞はつきあたりの音楽室に入って扉を閉める。霞は旬に聞く。
「どうするの。いきどまりよ。」
旬は霞の顔を見る。
「ごめん。考えていなかった。」
霞はあきれる。
「はあ、どうすんの?私たち。あんなのが音楽室に入ってきたら潰されちゃうよ。」
「霞は、あんなのを退治したこと無いの?」
「無い。退治したのはもっとかわいいのだけ。あんな気持ち悪くて大きい『転校生』なんて今まで見たこと無い。」
校舎が振動する。音楽室の扉から廊下を見ると、あの肉のかたまりが見えた。少しずつ大きくなって近づいている。
旬は頭をめぐらした。そしてひらめいた。
肉のかたまりは音楽室に突入した。音楽室の扉は押し倒され、わくはひしゃげた。うす暗い、弱い蛍光灯のあかりでぼんやり照らされた部屋の中に、巨大な肉のかたまり。机と椅子が押しのけられた。でも旬と霞はいない。
「えええええええええええええええええ。」
と大声をあげた。でも音楽室は防音がほどこされているから、音楽室以外にいればそんなにうるさくはない。
旬と霞は音楽準備室に逃げていた。そして肉のかたまりの雄叫びがやむと、準備室の扉をあけて、旬はシンバルを投げつけた。
くるくるとフリスビーのようにシンバルは回転し、肉のかたまりにあたった。そうとう痛かったようだ。
「ぐうううう」
とうなっている。良く見ると目がひとつ潰れて、青色の血がふきだして、床を青く染めている。肉のかたまりの血は青かった。
肉のかたまりがうめき声をあげながらごろりと動き、もう一つの目で旬のことを見た。
「逃げろ。」
旬はひとりでそう言って音楽準備室から第二音楽室に入り、そこから廊下に出た。肉のかたまりは旬を追いかけてせまい音楽準備室に入り、はいでるのに苦労している。おまけに準備室の中の金管楽器やら楽譜台がささっているのか、それともシンバルで切られたところが痛いのか、
「ぐおおおお」
という悲鳴をあげている。それを聞いてだんだんと旬は肉のかたまりがかわいそうになっていた。
肉のかたまりは前の人型風船とは違う。旬と同じように肉があってそして青色だけれど血だって流れている。痛みだって感じるだろうし、だって今だって傷ついて悲鳴をあげているじゃないか。
どんなに痛いのだろう、どんなに苦しいのだろう。でも忘れてはならない。このレルネーヨ世界では『転校生』は退治しなければならない。そう霞は信じている。その戦う理由を霞も知らないけれど、とにかく退治しなければならない。だから旬は霞を助ける。
旬は走った。すでに霞が図書室に向かっている。そこで旬が立てた作戦を実行にうつすために霞ががんばっている。だから旬もがんばらなければならない。なぜか?そんなことは知らない。
肉のかたまりが青い血しぶきをあげながら廊下にはいだした。そして目をぐりぐりと動かすとのっそりのっそりと旬の方に近づいてきている。
さあ図書室へ。旬は肉のかたまりを誘う。




