第七章
五年二組には弁太という男の子がいる。背が低くて色白で、少し横はばが広い。旬は、その弁太という男の子は少し頭が悪いんじゃないかと考えている。
それは単にテストの点数が悪いからではない。話し方とか、とろいしぐさとか、人のことをじっと見つめるところから旬はそう考えていた。弁太はやけに声が大きかった。そしてやけになれなれしかった。そして強引だった。
休み時間になって、旬は黒板消しを窓の外ではたいていた。趣味だから、じゃない。日直の仕事だからだ。バンバンとはたくたびに風のぐあいが悪いとチョークの粉が顔中にべたつくいやな仕事だった。でも日直だからしかたがない。
すると弁太が近くによってきた。そして旬の後ろに立った。圧迫感があった。旬はあまり良い予感はしなかった。むしろ悪い予感がした。旬は弁太を見た。
「どうしたの?」
すると弁太は
「ふーん、なんでもないよぅ。」
と変な節をつけて答えた。そして大きくてつぶらな目でじーっと旬を見つめている。そしてしきりに頭をかいている。ものすごい気になる。
「弁太君、ちょっとはなれてよ。」
そう旬は弁太に言った。すると弁太は急に口を大きくあけて、腹いっぱいに空気をためて、大声で
「ええええええええ!」
と叫んだ。けたたましい声だ。弁太ののどちんこが見えた。旬は心臓がはじけるくらいに驚いた。教室中の児童が弁太と旬とを見た。弁太はひとしきり教室中の注目を集めたのを見ると、満足そうに、これまた大声で
「何もしてないのに、はなれてなんて言うの!チン毛君は最低だー。」
と叫んだ。語尾を不愉快なくらいにのばすので、まだ弁太君はまだ口をあけて震えている。声を体中からしぼり出すようにしている。旬はその口をなぐりたくてしかたがなかった。おまけに今になって旬のことをチン毛君などと言うのはこの弁太くらいだ。
「なんだよ、ちょっとだまってくれよ。」
そう言って旬は自分の仕事を続けた。バンバンと白い粉をまきあげる。
するとそのバンバンという音にあわせて、弁太が旬の尻をバンバンとたたきはじめた。
バンバン、バンバン、バンバン、バンバン。
「やめてくれよ。うざったいから。」
旬は弁太に言った。すると弁太は
「えっ?」
と言って、またつぶらなひとみで旬を見つめた。そして
「えっ?今、何て言ったの?ぜんぜん聞こえないよう。」
そう言ってわざと首をかしげて耳に手をあてた。よく聞こえるように。その表情はとてもにくにくしげだった。旬は相手にするのもばからしくなって、無視してバンバンと黒板をはたいた。するとまた弁太がバンバンと旬のおしりをはたく。旬は窓の外に出していた黒板消しを中にもどすと、思いっきり弁太の顔めがけてたたきつけた。白い粉が舞った。白い顔をした弁太はものすごい大声で廊下に向かって走っていった。
「先生―!」
窓ガラスがびりびりと震えるかと思うくらいの大声だった。
それから旬は、星月先生に怒られた。弁太は星月先生の太ももに抱きついてチョークの粉のついた真っ白い顔をして甘えている。
「何もしていないのに、木村君が黒板消しで僕のことをたたいてきたんです。」
それに対して、旬はちゃんと反論した。
「でも、最初に弁太君が僕のおしりをたたいてきたんです。」
しかし弁太はこれに反論した。
「でも最初に木村君がぼくにひどいことを言ったんです。」
それを聞いて星月先生は弁太にたずねた。
「木村君はなんて言ったの?」
すると弁太はこう答えたのだ。
「思い出すのもいやなことです。僕はとっても傷つきました。」
「何て言ったの?」
「嫌です。思い出したくもありません。」
あきれた奴もいたものだ。そして弁太の反論を聞いた星月先生は旬と弁太の両方をしかった。
「木村君は口のききかたに気をつけなさい。そして弁太君はたとえひどいことを言われても人のおしりをたたいてはいけません。」
旬は思った。いったい僕は何をしたというのだろうか?
でも旬が何をしようとしまいと、それから弁太のいやがらせがはじまった。翌朝、学校に行ってみると机のベニヤ板の上にマジックで「チン毛君こんにちは」とデカデカと書いてあった。こんなことをする人、そしてまだこんなことを書く人は一人しかいなかった。ふーと旬はため息をついた。それを見ているとなんだか嫌な気持ちになった。でも、すぐに消せるものでもないので旬は黙って、その字の上に教科書を置いて隠しておいた。そうして家から持ってきた本を読んでいると弁太がやってきた。そしてずかずかと旬の横に立つと強引に、机の上にあった教科書をどけた。バラバラと旬の教科書が床に落ちた。
「なんだよ。」
すると、また弁太のおたけびが始まった。
「あああああああああああ。」
旬はその弁太の声を聞くたびに心臓がはねあがる。教室中の生徒もびっくりした。弁太はこんなことをして何が楽しいのだろうか?
「これ、この机の上の誰が書いたんだろうね?」
とこれまた大声で言った。
「おまえだろ。」
と言いたかったけれど、言わなかった。言ったらまた大騒ぎになるだろう。旬の困っている顔を見た弁太は
「これ書いたの、誰だろーね。」
とまた大声で言って自分の席にむかった。なんなんだろう、弁太という小学五年生は。わけはわからないけれど、机に書かれた落書だけは現実だった。
その日は体育の授業があった。その前の社会の授業が終わって休み時間になると、廊下にかかった体育袋をとってきて巾着を開けた。するといつもの汗くさいにおいだけではなくて、吐き気をもよおしそうなにおいがした。くさった牛乳のにおいだった。
体育袋をひっくり返すと、まずぞうきんが落ちてきた。昨日の給食の時間に女子がこぼした牛乳をふいたものだ。それがひどいにおいをまきちらしていた。
犯人はだいたいわかっていた。たぶん、弁太だろう。でもそのことを聞けば、必ず弁太はあの太い体の奥底からわきおこる大声で叫ぶのだろう。旬はなんだか、うんざりした。
その日の体育は体操着を忘れたということにして、お休みにした。牛乳くさい体操着なんて着られやしない。連絡帳にお母さんのハンコがなかったので星月先生に怒られた。
ドッヂボールの授業では弁太が大声でわめきながら、楽しそうにはしゃいでいる。体育館のすみで体育座りをしている旬ははがゆさを感じていた。納得できない。
弁太のいやがらせはけっこう長い間続いた。ある日、学校に行ってみると旬のうわばきの中、ふちすれすれ一杯に水が入っていた。水を捨てて太陽にあててかわかしたけれど、なかなか乾かなかったのでスリッパを借りて生活した。何でこんな目にあわないといけないんだ。
教科書のページが全部やぶられていた。表紙と裏表紙だけになっていた。
全てのノートが墨で塗りたくられていた。何も読めないし、書けない。
リコーダーの中にミミズが入っていた。棒でとろうとするとミミズがリコーダーの中でつぶれてしまった。ぐちゃぐちゃになったミミズの死体を見て、もうリコーダーを吹きたくなくなった。
授業が終わってランドセルをとると、ランドセルの中に小石が入っていた。帰りのあいさつがすんでから、小石を捨てにいかなければならなかった。
旬はそういった嫌がらせがあるたびに、とてつもなくつかれたけれど、誰にも言わなかった。理由は弁太の大声だ。弁太のことを考えるだけでもいやになった。かかわりたくなかった。
そんなある日、弁太が話しかけてきた。
「僕ね、新しいラジコン買ったんだよ。いいでしょ?」
旬は全然良いとも何とも思わなかったので無視した。あんな嫌がらせをしておいて、何がラジコンだ。そうすると弁太は大きく息をすいこんでそして大声で叫んだ。
「無視したー、チン毛君が無視したー。僕は無視する人が嫌いだー。」
あんなことをしておいて、無視する人が嫌いだって?弁太のわがままにもほどがある。
「無視されたー。僕は傷ついたー。」
そのかんにさわる大声で旬は耳と頭がおかしくなりそうだ。泣きたくなった。
旬はまた、砂漠を見た。とてつもなく広くて、そして暑い砂漠。誰もいない砂漠。幻の砂漠。そこをとぼとぼと歩いている人がいる。君は、誰?




