第二章
やっと「チン毛君」や「変態」などという不名誉なあだ名が忘れさられようとしていたときだった。あの日の放課後、旬は友だちの直人と校庭のすみのサッカーゴールでサッカーをして遊んでいた。直人は旬のことを「チン毛君」とは呼ばない。ほんとうに良い友だちだ。こういう友だちは大切にしなければならない。二人はボールを蹴る役とゴールキーパーの役を交代して、夢中になって遊んでいた。
でも校庭を見回っていた先生に「ボールを蹴っちゃだめだよ」と言われたので、とちゅうから手を使ってサッカーゴールめがけてボールを投げる遊びに変えた。ハンドボールというらしい。直人は手首でボールに回転をかけて投げるので、どこにボールがはねるのか分からなくて楽しかった。
四時半になってチャイムが鳴った。そして放送部の六年生の女子が下校の放送を流す。
「みなさん、下校の時間です。まだ校舎に残っている人は帰り支度をしてすぐに下校しましょう。」
それを聞いて旬は、教室に算数プリントを忘れていたことに気づいた。
「直人、算数プリントって明日までの宿題だっけ?」
ボールを体育倉庫にしまいに行こうとした直人はふりかえって答えた。
「そうだよ。忘れた人は居残りだってさ。」
それを聞いた旬はゴールポストのわきに置いた自分のランドセルを背負い、もう一個のランドセルを直人に向かって投げた。直人はみごとそのランドセルをつかんだ。でもボールは落とした。
「なんだよ、急に投げるなよ。」
「すまん、すまん。じゃあ、直人。先に帰っててよ。教室にプリント忘れちゃったから、それ取ってから帰るから。」
「あ、うん。じゃあ、さようなら。」
「おっす、さようなら。」
別れをつげて直人は体育倉庫へ、旬は昇降口に向かった。先生に見つからなければいいな、と思いながら。
昇降口で自分のうわばきをはいて旬は五年生の教室に向かおうとした。でも足をとめた。
昇降口から少し入ったところには、髪の長い女の子がいて、右足のアキレス腱をのばしていたからだ。その女の子の髪は、まるで一面の大雪原のような灰色をしていて、長さは腰まで届くような長さだった。そして女の子は赤いスカートをはいていた。
この昇降口を使うということは四年生か五年生だろう、まさか一年生のはずはない。でも今までそんな子を見たことはなかった。こんな目立つ髪の色をしていればすぐに気づくようなものだけれど。それに何で下校時間なのにランドセルも持っていないのだろう。アキレス腱を伸ばし終わって脚の屈伸をしようとしたところで、女の子は、わきでつっ立ている旬に気づいた。しばらく見つめた後で話しかけられた。
「君はこの学校の児童?」
旬はびっくりしながらもそれにすなおに答えた。
「そうだよ。じゃあ君はこの学校の児童じゃないの?」
女の子はうーんとうなってから、脚の屈伸を続けながら答えた。
「まあそんなとこかな。もと児童ではあるんだけどね。」
転校した子だろうか?それとも、旬は何かをひらめいたように
「それじゃあ、卒業生だ。」
と叫んだ。でも女の子は首を横にふった。首の動きとともに灰色の髪がきらきらとなびいた。旬は思わず見とれてしまった。
「卒業はしていないんだけどね。」
そう奥歯に肉がはさまったような言い方をして、脚の屈伸を終えた女の子は旬に聞く。
「君、名前はなんていうの?」
「木村旬。」
女の子はふーんと、うなずいて
「私は霞。だから霞って呼んで。」
と言った。そんな紹介じゃあ、それしか呼びようがない。
「だから私も君のこと旬って呼んでいい?」
やや強引な口ぶりだったけれど、旬は照れながら小さくうなずいた。それを見て霞はうれしそうに笑った。
「じゃあ、旬。一緒に走らない?」
「走るってどこを?」
「校舎の中よ。決まっているじゃない。」
そう言うと霞は一階の長く続く廊下を指差した。一年生の教室、校長室や職員室、それに保健室が続く廊下だ。暗いけれどところどころオレンジ色の光が見える。かたむいた太陽の光が差し込んでいるのだろう。
誰もいない学校の廊下はどこか神秘的だった。
「でも、走っているところを先生に見つかったら怒られるよ。」
と旬は当然であるかのように言った。廊下は走っちゃいけないし、もう下校時間を過ぎている。確実に怒られるだろう。心臓に悪い。
それを聞いてか聞かでか、霞はしゃがみこんで廊下に手をついてヨーイ、ドンの体勢をとった。
「弱虫。まだ走っていて誰にも見つかったことがないから大丈夫よ。旬は走るの、走らないの?」
旬は答えた。
「僕は弱虫じゃない。」
それを聞いて霞はにっこり笑った。
「じゃあ走るのね。行くわよ。ヨーイ、」
そういうと霞は両手を開いて、脚を伸ばしておしりをつきだした。旬は右手を引いて右足を前に出して前かがみになった。よくわからないけれど走るだけなら簡単だ。四年生のころはリレーの選手に選ばれたこともある。結果は最下位だったけど。
「ドン!」
女の子が走り出した。それに続いて少し遅れながら旬も走り出した。そのとき旬ははげしく後悔した。「ああ、ランドセルおろしとけばよかった!」
一年生の教室の前の廊下を走る。一年生はちゃんと雑巾がしぼれていないのか廊下が少し濡れてつるつるとしてすべりそうになる。そして保健室の前を通って、どきどきしながら職員室の前を通過する。
(良かった、誰も気づいていない)
霞は校長室の前で右折し階段を昇りはじめた。灰色の髪がほとんど廊下に水平になってなびく。足が速い。もう旬は息切れしそうだった。階段をのぼりに二階の廊下に出るとふとももに疲れがたまってきた。そしてかたかたとゆれるランドセルがジャマだ。
それでも走りつづける。二年生と三年生の教室の前を駆け抜ける。廊下に体操着袋が大きく膨らんでぶらさがっている。四年二組の教室の前の廊下には机や椅子がいくつか転がっていた。学級崩壊がおこっているからだろうか?霞はそれを上手によけて走っていく。旬はよけきれずに机にあたったけれどなんとか走りぬけた。霞は後ろから見ていてもまったく疲れていない。走るのに慣れているのだろうか。
四年生の教室の前を左折して霞は階段を登る。そうしたら三階だ。資料室の前で右折する。旬の足がもつれる。五年二組の教室の前で転んでしまったけれど、ランドセルがクッションになって、でんぐり返りをしてそのまま勢いで起き上がることができた。
「えらい!」
と霞が叫ぶ。後ろを見る余裕もあるらしい。うちのクラスの掃除当番がさぼっているらしく、服に少しほこりがついたのではらい落としながら走る。
そうこうしているうちに霞は六年一組の教室の前、廊下の行き止まりに到着して、その手前で止まった。続いて飛び込んだ旬は足がふにゃふにゃになっていてうまく止まれずに行き止まりの壁に思い切り体をぶつけてしまった。
ごっつう。頭はなんとか腕で守ることができたけれど、痛い。頭にぐわあと血がのぼり、立ちくらみのようになって、意識が飛びそうになった。視界は完全にまっ黒。もうだめですか?だめなのですか?




