最終章
それからのことはあまりに急でいろんなことが続いたので覚えていない。熊谷先生に保護された霞は三年前にこのスガル小学校で行方不明になっていた五年生の女の子ということが分かって大騒ぎになった。旬がこの学校に転校してくる一年前の話だ。このあたりではけっこう話題になった話だったけれど、旬も、旬の両親もその事件を知らなかった。
それから旬もいろいろな大人にいろいろな所に連れて行かれて、いろいろなことを聞かれた。しかしレルネーヨ世界のことは絶対に言わなかった。「目覚めたら隣にあの子がいた。」そのことだけを言い続けた。あんなことを言っても、たぶん、誰も信じないだろうし、それに霞とのことは大事に記憶の中にしまっておきたかった。それだけずっと言い続けたので旬は関係ないとされてもう何も聞かれなくなった。
霞はそれからどこかの病院に入院した。意識がもどらないのだという。星月先生の話によれば、脳の一部が壊れているのだという。学活の時間での星月先生の説明を聞きながら旬は『校長』の話を思い出した。
「霞ちゃんが死んだことと、このクラスの担任である星月春香がなんらかの形で関係していることは確かだ。」
その『校長』の言葉はどこまで信じていいのかはわからない。でも試してみる価値はある。
旬は霞の病状について説明する星月先生の顔を見る。そして突然、話の流れに関係なく、旬は手をあげて立ち上がり口を開いた。
「木村君、どうしたの?」
「先生はあの女の子のことを知っていたんですか?三年前も。」
それを聞いて先生用の机に座る星月先生の顔がみるみるうちに蒼ざめた。
「そ、そりゃ知っているわ。あんなに大きな事件だったんだもの。」
あきらかに動揺している。それは何かを隠しているような言い方だった。そして星月先生は大きな間違いを犯していた。なぜならたとえ大きな事件でなくても、星月先生は霞のことを知っていなければならなかったからだ。だって星月先生は霞の担任の先生だったんでしょ?
旬は霞が入院しているという病院に行った。受付のお姉さんに事情を話すと、「ああ、これがあの男の子ね。」という顔で旬をじろじろとつま先から頭のてっぺんまで見て、どこかへ電話をした。三十分くらい受付の薬くさい椅子に座って待っていると白衣を着た先生がやってきた。
「木村旬君だね。よく来てくれた。僕は、君があの子に話しかければ何かが変化がおこるかもしれないと思っている。反対する者もいるけどね。でも、この前だって君の声で彼女が少しだけ反応したのだから。」
そう言って白衣の先生は旬に手招きをした。先の見えないくらい長い廊下を、旬は先生の後をついて歩いていった。暗い廊下、よぼよぼと歩く老人。青白い顔をしたお姉さん。そして体中にまとわりつく薬のにおい。
いくつもの廊下を過ぎ、いくつもの扉を通り、いくつもの角を曲がって、旬は霞の病室についた。世界の果てまでやってきた感じだ。白衣の先生はノックしてから
「開けますよ。」
と言って扉を開けた。中から返事は聞こえてこなかった。
真っ白い病室には女の子が眠っていた。肌の色の白い女の子、長い髪をした女の子。彼女の名前は霞。
「彼女にはここ三年間の記憶が無い。どこにいたのかも分からない。しかし分かっていることが一つだけある。それは彼女がこの三年間ずっと夢を見続けていたということだ。」
旬は白くかがやく霞の顔を見ながら聞く。
「夢、ですか?」
「そうだ。夢だ。しかも生きている記憶と同じくらい鮮明に夢の記憶を持っている。だから彼女は夢という現実を生きていたのかもしれない。」
「よくわかりません。」
「私にもよく分からない。しかし、その夢の記憶の部分が木村君の声に反応しているんだ。不思議なことに。でも、その理由を木村君は知っているはずだと思うけどね。」
そう言って医者は旬の顔をじっと見た。でも旬はさっと顔を伏せた。
いたたまれなさを隠すように、旬は霞のベッドのわきに近づいてそこにあった椅子に腰かけた。
「言いたくないなら、いいさ。あと、もう一つだけ言っておこう。彼女は行方不明になった三年前から少しも年をとっていない。背も伸びず、体重も変わらず、細胞も三年前の五年生のままだ。時間が彼女の体だけ進んでいないんだよ。おかしなことだね。」
それだけ言って、白衣の先生は部屋を出た。
旬は動かない霞を見ている。形のいい鼻に、赤い血の通った唇。意志の強そうな眉。その全てがあの霞と同じだった。唯一違う髪の色も、色が違うだけでつややかさは変わりなかった。
校内を一緒に走りまわった霞と、この霞は、同じ人間なのだろうか?それとも二人はまったく違う何かなのだろうか?
「霞、聞いているか?霞。今度、一緒に校内を走ろうよ。そしてレルネーヨ世界に行こうよ。」
「霞、起きろよ。」
いくら呼びかけても霞は目を覚まさなかった。走ったりもできなかった。夢なんかではない。これが現実だ。
病院に行った次の日、学校が終わってから、旬は図書室で下校時間までねばった。そして旬はいつもの昇降口に立った。足のすじをのばす準備運動をする。
「ヨーイ、ドン」
たったひとりの旬の声が校舎中に響く。そしてたった一人の走者が一階の廊下を走っていく。
一年生の前を通り職員室の前を通り抜けて校長室へ。霞が人型風船を破裂させたところだ。階段をかけ昇る。二年生の教室の前を左折して三年生の前、そして四年生の前、四年二組。最初に霞と向かった教室。学級崩壊があった教室。
また階段をかけ昇り、三階へ。資料室の前で右折する。五年二組、旬の教室、そして霞が眠っていた教室。五年生の場所を抜けて六年生の教室へ。そして旬は六年一組の教室の前に到着した。
しかし、旬の意識は飛ばなかった。視界も暗転しなかった。
「おかしい。」
窓ガラスも黒くなっていない。そこはレルネーヨ世界ではなく、『校長』もいない、普通の学校の世界。
「向こうに行けない。やっぱりひとりじゃ無理か。」
長く続く廊下を見る。六年三組の教室の扉が開く。旬は『転校生』か?と身構えたけれど、すぐに気づいた。
六年三組の教室から出てきたのは普通の男の子が二人だった。ここはやっぱり普通の世界である。ふだんの生活がある世界。もしかしたら灰色の髪の霞がいたから、自分はレルネーヨ世界にいけたんじゃないか、旬にはそう思えた。右手が霞の手を覚えている。小さくてかわいくてひんやり冷たい、霞の手を。
夏になった。七月も半ばを過ぎてほんとうに蒸し暑い夏になった。楽しい、楽しいはずの夏休み。でも他の夏休みにくらべて、旬は少し心残りな夏休みをすごした。
父親の実家に帰った。そこで従兄弟たちと海水浴をして遊んだ。プールにも行った。友達とも遊んだ。でも楽しむことに集中できなかった。何かしていても心のかたすみには必ず霞がいた。灰色の髪の毛だったり、黒い髪の毛だったりしたけれど、いずれにせよ霞には違いない。旬の心の中にはいつも霞がいた。
新学期になった。物足りない夏休みの後の物足りない二学期のはじまりだった。始業式も退屈で、五年二組のクラスもいつもと変わらない面々だった。
教室の扉が開いた。
「春香先生、早いですよ。」
昔、聞きなれた声色が聞こえてきたので、旬は顔をあげた。
「そう、呼ばないで。今は星月先生なんだから。」
そう言って星月先生が入ってきた。その後に続くのは、長い黒髪の女の子。星月先生が言う。
「今日は、五年二組の新しいお友だちを紹介します。」
星月先生のわきに立っている女の子が頭をさげた。
「はじめまして、白丘霞と申します。」
楽しい二学期の予感がした。




