第十章
翌日、学校に少し遅れて行った。教室に入って机を見たけれど、たいした変化は起こっていなかった。そしてもう学校に来ている弁太を見た。なぜか弁太はがっくりとうなだれていた。それを見て旬はなんだかどうしようもない胸騒ぎがした。もしかしたら、昨日旬が『転校生』を退治したことと弁太の様子には何かつながりがあるのかもしれないからだ。
その日の弁太はいつもとまったく違っていた。ふだんより元気がなく、おとなしくて、そして声もいつもより小さかった。そして旬にからんで来たりもしなかった。弁太はずっと窓の外を見ていた。
ときどき旬のことをいつもと変わらぬくりっとした目で、だけどかがやきのないうつろな目で見る時がある。そのときは前のこともあったから旬はどきっとしたけれど、それだけだった。弁太は旬を見ることにあきると、また窓の外をながめている。
弁太の額には、ばんそうこうが貼ってあった。
そのまた翌日も、そのまた翌日も弁太は静かだった。むしろ元気がなかった。そして三日たって弁太のばんそうこうが外れると教室で異変が起こった。
弁太の大声と嫌がらせにまいっていたのは何も旬だけではなかった。クラスの生徒のほとんどが大なり小なり、その被害にあっていた。そのため、それらの生徒の反逆がはじまったのだ。でも、どの生徒がやったのかは分らない。
ある朝、弁太のうわばきのふち一杯まで牛乳が注がれた。弁太のノートの全ページに「大便」という文字が書かれた。弁太の机のベニヤ板が外された。誰が、どうやって外したんだ?金属があらわになった机のまえで登校してきた弁太は途方にくれていた。
「誰がこんなひどいことをしたんですか?」
担任の星月先生は犯人探しを始めたけれど、結局犯人は分からずじまいだった。いままで弁太から嫌がらせを受けていた旬が一番に疑われたけれど、証拠は何もなかった。無論のこと、旬はやっていない。
それからも星月先生の目を逃れるように、弁太への仕返しは繰り返された。弁太の鉛筆が根こそぎ折られ、消しゴムが八つ裂きになっていた。弁太の体操着のゼッケンがはがされ、体操着にじかに「五年二組大便太郎」とマジックで書かれていた。ランドセルの黒い皮が全部はがされて灰色のランドセルになっていた。おまけに、いつのまにか弁太が持っている全てのラジコンのタイヤがパンクさせられていたという。
それらの様子を見たり聞いたりして、旬は心がとげとげとしてきた。弁太が嫌がらせを受けて途方に暮れているのを見て、自分が弁太に嫌がらせをされていたときの感情や心を思い出したからだ。
旬は弁太に同情した。でもその仕返しを止めさせることはできなかった。第一に誰がやったのか、わからない。そしていつやったのかもわかっていなかったからだ。でもあの『転校生』を退治したときから、はっきりと変わってしまっている。
ランドセルの黒い皮がはがされたのは理科の実験の最中のことだと推測されている。五年二組は全員理科実験室に移動していた。旬は最後から二番目に、そして仕返しを警戒していた弁太は一番最後に教室を出た。
弁太が理科実験室の自分に割り当てられた席に腰かけた時、五年二組の全員が椅子に腰かけていた。そして実験器具は、全て机の上に用意されていたからそれからの移動はあまりはなかった。そして旬は扉のすぐ前の班だったので、実験中に誰も扉から出て行かなかったことは確認している。
そして帰る時は旬と直人が最初に教室に到着して、そしてクラスの大半が教室に戻った時に、弁太が自分のランドセルの異変に気づいたのだ。
そこから考えると五年二組の誰も弁太のランドセルをいじることはできない。
だとしたら、五年二組以外の児童がやったのだろうか?何のために?謎は深まるばかりだ。それでも弁太への嫌がらせは続いた。
そして嫌がらせが児童の間だけに広まるたびに旬は胸をいためた。だって弁太を苦しめるために『転校生』を退治したわけではないのだ。
(そうだ。あれは本来、僕がやるべきことじゃなかったんだ。)
弁太が悲しそうな顔で落書きされた教科書をぱらぱらと開いているのを見て、旬も泣きそうになった。これはなんとかしなければならない。きっと、弁太になりかわろうとした『転校生』を倒した旬が責任をとらなければならない。
前にレルネーヨ世界に行ってから一週間後、旬は図書館で下校時間四時半までの時間を潰していた。もちろん図書館の扉は壊されていないし、本棚もそのままだ。黄色い『校長』が座っていた本棚にも、もちろん誰も腰かけていない。
四時半になって放送部の六年の女子が下校放送を流す。毎日同じ人がこの声を流している。録音だろうか?それともよほど暇な人で、毎日四時半まで残って、いつもの何の変哲のない台詞を繰り返しているのだろうか?何か別の言葉を言ってみたいと思わないのだろうか?例えば
「校庭にてみんなでキャンプファイヤーしちゃおう!」
とか。まあ放送部の先生が激怒して放送室に乗り込むことは確実だけれど。
そしてそのかわりばえの無い台詞を聞くと、旬は読んでいた本を閉じて本棚にしまった。そして図書室を出て階段に向かい、三階から一階まで降りていった。一階の階段の下から二段目に灰色の髪の少女がものうげに座っていた。
「よう、霞。」
霞は振り返った。
「旬。」
「この前はごめん。私、気が動転していて…、うまくしゃべれなくて。」
霞がみなまで言う前に、
「今日も走ろうよ。」
と旬は口をはさみ、霞の右腕をつかんだ。
「え、ちょっと待って。」
「ヨーイ、ドンだ。」
今日は旬が合図を出した。旬に腕を引かれて、足をもつらせながら霞が走る。いつものコースを走る。
そして六年一組の教室前まで走った。霞が手をついてスタートしないとあちらの世界に行けないなんてことはない。霞が合図をしないとレルネーヨ世界に行けないなんてことはない。すぐに旬の意識が落ちた。
目覚めると、いつもの窓ガラスが黒く塗られた世界が広がっていた。
旬の横に霞が立っている。ちっと顔は不満気だ。
「旬、今日はちょっと強引じゃない?」
「そんなことはないよ。最初の時の霞に比べれば普通だ。」
「そんなことない。」
霞は反論する。
「ところで、旬。ここまで強引にレルナーヨ世界に連れてきたなら、ちゃんと連れてきた理由があるんでしょうね。」
それに胸をはって旬は答えた。
「もちろん。」
その旬の自信に霞は少し笑った。
「で、どこの教室なの?」
「五年二組。」
霞は旬の顔を見た。
「また?」
旬は真っ暗な廊下の先を見た。蛍光灯が次々に点灯していく。
「たぶんね。」
「たぶん?」
霞と旬は六年生の廊下を歩いていく。旬が手に持っているのは六年一組のちりとりとほうき。霞が持っているのは六年二組のちりとりとほうき。そして向かうのは五年二組の教室。今度の『転校生』は正直言って、予想できない。五年二組というのも、でたらめだ。
でも旬が五年二組の扉を開けると、そこは蛍光灯がついていなかった。真っ暗だ。
「なになに、灯りついていないの?」
霞が教室の中をのぞきこむ。そうだ、灯りがついていなくて真っ暗だ。
旬は、扉のそばの電灯のスイッチを押した。五年二組の教室の電灯が全て点灯した。闇に目が慣れていたから、まぶしそうに旬と霞は手で視界を覆った。霞の目がだんだんと明るさに慣れてきて指と指のすきまから誰かが見えた。教室の中に誰かがいる。そこには黒い、黒い皮膚の男の子が席に座っていた。
「誰かいるよ。」
霞が恐そうに言う。
「黒いよ。」
旬の目がやっと慣れた。視界に入る男の子の姿。そうしたら旬は何も言えなかった。確かに黒い皮膚をして、黒い上下の服を着た男の子が席に腰かけていた。それは誰かに似ているようだった。
「まさか、あれって。」
霞が言う。そうだ、言われなくてもわかっている。あの黒い男の子が座っているのは、旬の席だった。だから、あの男の子の正体は…。




