生命多様性
生命多様性
日記を付けている人は、次のようなことを感じたことがあるはずだ。どうして、あのときの自分はこんな考えをしていたのだろうかと。日記を通して、過去の自分と、現在の自分とを比較すると、それらは全く異なる存在ではないかと、私は思ってしまう。赤ちゃんと、その赤ちゃんが成長し年老いた男を見比べて、同じ内面を持つ存在だと、心から思えるだろうか。
存在とは、そもそも、そういう多様性が始めから折り込まれているものなのだろうか。それとも、年月を経る中で、あるタイミングで、全く異なる存在に入れ替わってしまうものなのだろうか。又は同じ存在だけど、徐々に変化していくものなのだろうか。仮に徐々に変化していくとした場合、変化する部分とはどこなのだろうか。存在全体だろうか(これだと入れ替わりと同じことかもしれない)、存在の表面ともいえる意識だけだろうか、存在の魂といわれるような根本的な部分だけなのだろうか。
私の勝手な空想としては、存在とは、無限の多様性を備えたものだと考える。もっと正確に表現すると、存在とは、無限の多様性という無限の可能性を利用できるものだと考える。なお、この空想は事実に基づいて導いたものではない。私の直感に基づいたものだ。
私は、この空想を自分の中で整理するために、この空想を使って短い物語を作ってみた。今回は、それを皆さまに披露したい。どうか、少々お付き合い願いたい。
一.膜の漂う世界
そこには大きな膜があった。膜は、奥行きがなく、表面が歪曲した二次元の平面だった。その膜の表面には、その宇宙の全ての情報があった。その宇宙の過去、現在、未来に存在する、全ての存在(非生命体を含む)に関する情報があった。その膨大な情報の中の一つ一つの情報は、十一に区分できる次元を全て用いることによって、やっと正確に表現できるものだった。膜の周囲を見渡すと、他にも似たような膜が、無数に漂っていた。膜の数だけ宇宙が存在した。
それらの宇宙に存在する個別の存在たちは、自分が所属する膜に逐次アクセスして、自分が取り扱うことのできる範囲の情報を膜から得て、自分の世界を自分で構築していた。我々人間の場合は、意識に世界を構築していた。ただし人間は、膜にある情報を三つの次元でしか表現することができなかった。
二.誕生(一九七九年)
その日、ある母親が産気づいた。陣痛が始まった。夏の暑い夕方だった。
お腹の中にいるAと名付けられる予定の赤ちゃんは、自分が所属する宇宙の膜とオンラインでつながっていた。
Aは、その時の自分が取り扱うことができる情報を得るため、膜の表面を検索した。一年後に買ってもらう積み木で遊ぶことや、十年後に同級生から流行のゲームを乱暴に奪うことや、十六年後に付き合うことになる彼女といやらしいことをすることなど、楽しそうな選択肢は無限にあった。でも、彼のおかれた環境や、彼の能力(肉体的能力や知識といった知的能力)などの、その時の彼に与えられた(その時まで彼が選択して積み上げてきた)諸条件を踏まえると、それらの選択肢を選択することは不可能だった。なので、Aは仕方がなく、産道を頭からネジのように進んでいく選択をした。
Aは生まれた。その直後、Aは膜の表面から、二つの選択肢を見つけた。泣くことと、泣かないことだった。
Aは泣くという選択肢を選ぶことにした。Aの鳴き声を聞き、Aの母親が感嘆の声をあげた。
その日、ある母親が産気づいた。陣痛が始まった。夏の暑い夕方だった。
お腹の中にいるAと名付けられる予定の赤ちゃんの母親は、自分が所属する宇宙の膜とオンラインでつながっていた。
母親は、その時の自分が取り扱うことができる情報を得るため、膜の表面を検索した。二十八年前に買ってもらった積み木で遊ぶことや、十八年前に同級生から大好きだったゲームを乱暴に奪われたことや、二年前にその後結婚することになる男といやらしいことをしたことや、一年後にその男と離婚することや、十年後に精神病院に入ることや、二十年後に自殺することなど、選択肢は無限にあった。でも、女の置かれた環境や、女の能力などの、その時の女に与えられた(その時まで女が選択して積み上げてきた)諸条件を踏まえると、それらの選択肢を選択することは不可能だった。なので、Aの母親は仕方がなく、Aを生む選択をした。
Aは生まれた。その直後、Aの母親は膜の表面から、二つの選択肢を見つけた。Aが泣くことと、泣かないことだった。
Aの母親は、Aが泣かないことを選択した。それは、決して、女が意識的に選択したものではなかった。でも、我々人間の思考能力では論理的に矛盾するが、それは間違いなく、女が選択したものだった。女の周囲は慌ただしくなった。医師や看護婦たちは精一杯の努力をした。でもAは死亡した。Aの母親は嗚咽した。
Aの世界は続いていった。一方、Aの母親になるはずだった女の世界の中では、Aはいなくなった。
実は、Aと、Aの母親になるはずだった女は、直接的な接点をもっていなかった。Aは自分で膜から情報を取得し、自分で自分の世界を創っていた。Aの母親になるはずだった女も自分で膜から情報を取得し、自分で自分の世界を創っていた。それぞれが、それぞれの世界を創って、その中で、一人で生きていた。Aの世界の中の母親は、Aが膜の情報を元に、Aが創り出した、ホログラムのような幻だった。Aの母親になるはずだった女の世界の中のAは、女が膜の情報を元に、女が創り出した、ホログラムのような幻だった。Aの母親の世界の中のAの場合、一時の命だったため、まさしく、Aの母親になるはずだった女からすれば、幻のような存在だった。自分の世界(人間の場合意識ともいう)の中の、他の存在とは、膜の情報を基に、自分が創ったものだった。
三.誕生から二十年後(一九九九年)
Aの母親になるはずだった女は、十年前に両親の手で精神病院に入れられ、入退院を繰り返した。それから十年が経ち、その時は四十八歳になっていた。髪は白髪まじりになり、灰色だった。老婆のようだった。女は両親から見放され、公営住宅で、一人で暮らしていた。
それは、夏の暑い夕暮れだった。女は二十年前のある一日を、なぜだか、ふと思い出した。赤ちゃんが生まれるはずだった日を思い出した。自分には、このように一人ではなく、可愛い子どもと二人で生きる人生があったのかもしれないという、その時の女の魂にとっては最も救いだったが、最も危険な思考が意識に現れた。女は赤ちゃんにつけるはずだった名前を思い出そうとした。思い出せなかった。女は嗚咽した。
女は首を吊った。女の意識は消滅した。女が構築してきた世界は消滅した。
Aは高校を卒業して、警察官になっていた。Aの両親はそんなAが自慢だった。
それは、夏の暑い夕暮れだった。Aは自殺現場に立ち会うことになった。現場は公営住宅の一室で、女が首を吊って死んでいた。部屋の中は蒸し暑かった。異臭で吐き気がした。首が異常に伸びて恐ろしかった。女は老婆としか見えなかったが、部屋の中をよく調べたら、プラスチック製の収納ケースから、身分証明書が出てきて、四十八歳であることが分かった。Aの母親と同じ年齢だったが、あまりに違う外見に、Aはその女を憐れに思った。
収納ケースの底に、ハンカチに包まれている何かがあった。ハンカチは、飛行機や車などが可愛く描かれた、男の子用の青いハンカチだった。Aはハンカチを開いた。赤ちゃんのエコー写真が出てきた。
その瞬間、Aの母親になるはずだった女の世界は、一瞬だけ蘇った。女の世界は一瞬だけ、Aの世界と交差した。そして、また消滅した。Aの母親になるはずだった女の世界は、Aの世界に溶け込んだのかもしれない。
ここで、皆さまの興が冷めることを恐れつつも、この物語を補足したい。全ての存在は、他の存在と共にあるように感じているだけではないのか。他の存在も自分と同様に存在すると感じているだけではないのか。私の直感では、真実は、自分で他の存在を創っている。自分で世界を創っている。愛する者さえ自分で創り上げている。存在と存在が直接的にやり取りすることはない。できない。異なる存在が創り上げる異なる世界が交差したり、リンクしたりすることは、本来、ありえない。Aと、Aの母親になるはずだった女の世界が交差した件は、我々人間が扱うことができない、三次元以上の情報をも扱うことができる高度な存在による、女への情けだったのかもしれない。以上が補足だ。
四.誕生から一年後(一九八〇年)
Aは一歳になったばかりだった。まだ、這い這いもできなかった。
ある日、Aは、Aの母親と夕涼みに出かけた。Aはベビーカーに乗せられた。蒸し暑い夏の日だった。
Aは膜から、ぼんやりした周囲と、苦しみを覚える蒸し暑さという情報を取得した。取得された情報は、Aの脳を通して、彼の意識に反映され、彼の世界は新しく更新された。その後、Aが取り扱うことのできる情報として、泣く、寝るなどがあったが、Aは泣くことを選択した。次に、Aは母親が抱き上げてくれることを選択した。Aの母親は、Aをベビーカーから抱き上げた。Aはぴたりと泣き止んだ。
Aの母親になるはずだった女は、ホテルで歪んだ顔をしていた。女と女の弁護士と、女の夫とその夫の弁護士の四人が、ホテルの小さな会議室で、離婚に向けた協議をしていた。外は蒸し暑い夏だったが、部屋の中は震えるほど冷房が効いていた。ブラインドの隙間からは、夕日が差し込んでいた。
お互いに慰謝料が発生するような離婚ではなかった。問題は財産分与だけだったが、それも難なく解決した。協議は終わった。離婚が成立した。
その直後、女が取り扱うことのできる情報として、泣くなどの無数の選択肢が膜の表面にはあったが、女は笑うことにした。声を出して大笑いした。女の元夫は無表情で部屋を出て行った。女のやることには慣れていた。慣れていない元夫の弁護士は、決まりの悪そうな様子で、元夫について出ていった。女の方の弁護士はどうしてよいものか分からず、女に慰めの言葉を話すタイミングを探っていた。それら三人は、そういうふうに、女に創られた幻だった。
結局、女は、自分の弁護士から慰めの言葉を受ける選択肢を選ばなかった。Aの世界で、Aが選択したような、自分が創り上げた幻に抱き上げてもらうような選択はしなかった。
(了)