完璧な生贄(改稿版)
妹を生贄にしなければならない、ということに、あまり抵抗感はなかった。ずっと離ればなれで暮らしてきたとはいえ、実の妹だ。幼い頃、一緒に遊んだ経験がないわけではない。妹を目の前にすれば、もっと、目標を妨げる忌々しい葛藤に襲われるのではないかと恐れていたが、そうでもないようだった。数年間科学者として生活してきて、思考が合理的になったのだろう。何も知らない人々は、それを冷酷だとうけとるのかも知れないが、例えば十億の人間を助けるために一人を犠牲にするのは、人類の未来をあずかる科学者としては当然のことだ。そう、助かるのだ、これから先、激しい苦闘の末、むなしく死んでゆくかも知れない数億の人間が……。
彼らの命が、わたしの双肩にかかっていると思うと、スノーモービルのハンドルを握る手に力がこもった。
「お姉ちゃん、運転代わろうか?」
紫外線をカットする仕様のゴーグルの下の、柔和な目がわたしを上目遣いに見てきた。そうだった、十年前にお別れをした日も、この女はこの目つきでわたしを見上げてきたのだ。いや、家族で食事をしているときも、何かのゲームをしているときも、似たような表情をしていたと思う。それが純真さを現していればいるほど、わたしの心はかき乱された。なぜ、双子なのにこれほど違うのか、と。
「いいのよ。あなたは、これから大事な面接があるんだから、疲れちゃったら元も子もないでしょ」
「そう。ごめんね」
実際にはわたしは、もう三時間もぶっ続けでスノーモービルを運転していたのだった。本当は代わってほしいところだったが、妹に旧首都圏の迷路のような雪上を運転する技能はあるまい。
空からキラキラと氷の粒が舞い落ちて、ゴーグルにぶつかる。それらが次第に張り付いて、視界を遮るから、時々手袋で拭わねばならなかった。こんな現象は、一世紀前の南関東では絶対に見ることができなかったそうだが、わたしが生まれたときには、すでに当たり前になっていた。
この地域の積雪は、現時点で、二十メートルに達しようとしていた。夏でも完全には溶けない。旧世代の建物は、皆雪の下に埋もれ、ほとんどが圧壊しているだろう。背の高いビルだけが、まるでジャーベットに埋もれた綿菓子のように、霧氷をこびりつかせ頭を出していた。
「まさか、お姉ちゃんから連絡してきてくれるなんて、思っても見なかった」
「当たり前じゃないの。血を分けた、実の妹なのよ。それに、あなたが優秀なプログラマだってことは調査済みだったわ」
「え、ごめん。なんていったの、よく聞き取れなかったわ」
スノーモービルのエンジン音と、時折吹き寄せる突風に声がかき消されるために、わたしたちは大声で会話をしなければならなかった。こちらの心の機微が伝わらないのだから、それはそれで都合がいい。
「あなたが優秀なプログラマだから、人類統一連盟のプロジェクトに大いに役に立ってくれることは、面接官にもすぐに分かるわよ!」
「そ、そうなの。なんだか……」
なんだか緊張するな、か、ワクワクするな、か、よく聞き取れなかった。妹が有能なプログラマであることは、彼女の作ったソフトウェアを見れば分かるが、彼女に声をかけたのは、そんな理由ではない。生贄にするためだ。
五十年ほど前、突如として地球寒冷化が始まった。理由は不明、数々の対策を講じるも、おおむね失敗。わずか三十年という短期間で、地球の平均気温は20度も下がった。極圏や山岳地帯から張り出した氷床はあっという間に高緯度地域や高地を覆い尽くし、文明を危機に追い込んだ。
海の水深は数十メートル下がり、今まで大陸棚だった場所の大部分が、海面上に姿を現した。だが、領土が増えたからといって誰も喜ぶものはいなかった。対馬海峡と津軽海峡は、今や細い川のようになり、かろうじて日本海と外海とをつないでいるに過ぎない。冬の間、凍りついた津軽海峡を渡り、南関東にまでヒグマやキタキツネが跋扈するようになった。鹿島灘には、ゴマフアザラシやホッキョククジラが姿を現した。
だが、移動し始めたのは動物達ばかりではなかった。氷床が広がり、豪雪の結果、ヨーロッパ、ロシア、カナダなどの国々のライフラインは寸断され、農業に壊滅的な被害をもたらした。日々の食糧を得る手段さえままならなくなった人々は、あの手この手で国境を越え、南へ南へとなだれ込んだ。ほとんどの国々は、法治国家としての尊厳と理性を失わず、最善を尽くしたが、それでも紛争になるのを避けることはできなかった。国家間の争いというよりは、無断の入植者と現地人との戦い……、長い歴史の中で人類が克服してきたはずの理由で、争いが各地で起こった。
わたしたちが生まれる前の日本も、その大混乱の中にあった。大陸からなだれ込んだ移民との戦いは過酷を極め、一時は日本政府が機能を失ったほどだった。
だが、寒冷化が一段落し、皮肉だが人口が激減した結果、居住区を巡る争いはなくなっていった。ぼろぼろになった東京は捨てられ、鹿児島に首都が置かれることになった。
日本の状況は、まだしもましだったといえよう。北極圏に面した大陸世界では、未だに戦乱が続いている。低緯度地域の諸国は、技術や頭脳を持った人間をふるいにかけて、積極的に受け入れたから、文明の灯火は、赤道付近で保たれることになるのかも知れないが、日本は諦めていなかった。日本人は、自らの国土に極めて強い執着心を持っていることが、改めて証明されたのだった。
いよいよ、かつての東京が見えてきた。ビルの空き部屋に、浮浪者や貧しい移民が住んではいるが、在りし日のエネルギーは完全に冷えきった、墓場のような旧都。
***
その話を上司から持ちかけられたのは、一年と数ヶ月前のことだった。人類統一連盟の科学者達は、なんとか寒冷化を押しとどめるべく、様々な対策をモデル試算し、あるいは新環境に適応するための科学技術を開発するべく、結束してプロジェクトにあたっていた。わたしは、ジオフロントを建設するための掘削機械の開発を行っている部署に所属し、かけずり回る日々だった。
吹雪荒れ狂う地上を逃れ地下に居住区、工場、交通網を設ける……言うは易し行うは難しだが、わたしたちの努力の結果、実現されつつあった。
だから、全く部署の違う、地球シミュレーション部の部長から、新プロジェクトの依頼が来たときも、ジオフロント絡みのことだと思った。電話での会話の後、デスクの前までわざわざやってきたわたしの上司は、極秘面接がある、と言った。わけが分からなかった。知らない間に何かやらかして、処分を言い渡されるのではないかと、身震いした。なにせ、上司もわたしが呼び出された理由を知らなかったのだ。
面接会場は、今まで入ったこともない、上級職員の会議室だった。数名の部長・局長、そして人類統一連盟科学委員会の事務次官までが楕円形の机の周りに座っていた。室内は薄暗く、彼らの表情は全く読み取れなかった。
わたしは、言われるままに、一番出口側の席に座った。ここでの会話は、全て英語でなされたのだった。
「キミには双子の妹がいる、そうだね?」
おもむろにそう言ったのは、確か海洋資源開発推進部長だった。なぜ知っているのだろうと、訝りながらも、うなずいた。
「もう、十年以上会っていません」
「そうかね」
今の質問はどのような主旨のもとでなされたのか、それすらも不明の素っ気ない返答だった。だが、意味はじきに分かった。
「キミは、ジオフロント一筋でやってきたから、他の部署の情報はあまり知らないだろうが、ね」
地球シミュレーション部長の声は陰険とも取れるほど低かった。部屋は少し寒く、身震いしたのを覚えている。
「我々のシミュレーションで、恐るべき結果が出ている」
「え?」
思わず、身を乗り出した。部長は、顔の前で手を組んだ。
「あと十年で、全球凍結だ」
「そ、そんな話は、どこからも聞いていませんが」
数理的にそのような結論が出ているのであれば、各部署に何らかの通知はあってしかるべきだ。全ての科学者は、対策に全力をつぎ込むことを厭わないだろう。
「公表するわけないだろう。世界中をまた大混乱に陥れたいのか」
人類統一連盟の科学者の全員が秘密を守るとは限らなかった。むしろ、わたしたちは皆、それぞれ高度な思想に基づき判断し、行動している。秘密にしておくことが悪だと考える人間もいるはずだ。
「それに、決まったわけではないしな。確率は80パーセントだ」
地球シミュレーションは、現在最高性能のスーパーコンピュータで演算されている。天文学的要素から、人類の活動による影響まで、あらゆる事態を考慮に入れて演算しているはずだ。それが、80パーセントという数字をはじき出しているのだとすれば……!
「何としても、全球凍結は避けねばならない。今回の寒冷化、ある程度原因は分かっている。ミランコビッチ・フォーシングや太陽活動の一時的な弱体化、深層水のコンベヤーベルトの変化など、数々の不幸な事態が重なったためだ。だが、原因が分かっただけで、事態を改善できるほど、地球は単純ではない」
最初淡々と喋っていたのだが、終わるころの語気は震えていた。部長が口を閉ざすと、事務次官が喋り始めた。
「結論から言おう。我々は生贄を欲している」
「生贄? それは、事態を終息させるべく、科学者に人柱になれ、ということですか」
例えば、大気圏内で巨大な核爆発を起こし、気候を無理やり変化させる、とか。そんなことを実行し、あまつさえ失敗したら、わたしたちは民衆から追いつめられるだろう。だが、彼の言っているのは、もっと直接的なことだった。
「違う、古代のシャーマン宜しく、神に犠牲を捧げるのだ!」
何を言っているのか、耳を疑った。ここにいるのは、科学に身を捧げ、科学の進歩だけが人類を救うと考える種類の人たちではなかったのか? 少なくとも、超自然的な何かに助けを求めるような馬鹿な発想をするとは思えなかった。
「それは、非科学的ですね。何かの比喩ですか?」
あくまで控えめに言ったが、少しトゲのある口調になってしまったかもしれない。
「生贄で願いを叶えようとすることが、生贄で人類を寒冷化から救おうとすることが不合理なことだと誰か検証したのかね」
「それは……」
ほとんどの自然科学は、帰納法的な思考法に拠って立っている。だから、明日太陽が昇るのは、地球のどこかの呪術師が生贄を捧げているからなのか、科学者が明らかにした物理法則に基づいてなのか、立証することはできない、という主旨のことをこの人は言っているのだろうか。だとすれば、あまりにも馬鹿げている。自然科学がおおむね正しいのは、人類文明の発達そのものが立証しているではないか。
「いいかね。ある現象が起こる因果関係を、科学的に完全に証明したとして、それでは「科学的な理由」以外の理由を排除することができるだろうか」
「どういう意味です?」
「例えば、ある人物が手を離した結果、鉄球が落ちたとする。その理由を説明できるかね」
「……引力の法則に従ったからでは?」
「無論そうだ。素粒子物理学者ならば、グラヴィトンの働きにまで言及するだろうが。とにかく、鉄球がそこに運ばれて、落ちるまでを、力学的に完璧に説明することも可能だろうな」
「おそらくは」
「では、それが戦争中の城塞だとしたら。その人物は、敵兵を殺すために、高い城壁の上から鉄球を落とした」
「……理由はどうあれ、引力の法則は変わらないのでは」
「その兵士が、貧しい家庭を抱え、自らの不幸は突き詰めれば敵兵のせいだと考えていたとしたら? 例えば、大国に経済的に支配された貧しい国が、ヘゲモニー国家に反乱を起こすというのは、よくある構図だろう?」
「……」
「つまり、彼の敵意、恐怖、家族への思いが、鉄球を落としたと表現もできるだろう。これは立派な理由付けで、引力の法則と互いを排他し合うこともない」
「つまり、物理的因果関係以外にも、ある現象への理由付けをすることはできると、そう言いたいのですか。ですが、彼の内面は神経細胞の発火として、経済格差は個々の富の流れとして、物理的に記述することは可能でしょう。全ては科学的に還元される」
「還元されうる、と言ってほしいな。現実には、人の内面や経済格差を物理主義的に還元して記述することは不可能だろう。少なくとも、現時点では。いずれは統一的な理論で語られるかも知れないが、今はまだ、その地平まで我々は到達していないのだから、少なくとも見せかけ上、鉄球が落ちたことへの二つの理由付けが存在している」
わたしはめまいを感じた。まるで、事務次官の弁舌に、心が奪われていくようだ。
「つまり、地球環境の動きに、生贄の儀式を介在させることを、論理的に排除することはできない、というのですか?」
「そう。そこで鉄球が落ちるのを妨げたければ、彼を説得しやめさせるのが一番だろう。物理学的に鉄球が落ちる説明がついても、物理の法則を変えることはできないのだから。つまり、地球環境を変化させるのに、必ずしも、科学的に明証な方法を取る必要はないのだ。科学的な方法で解決するのは、落ち始めた鉄球を空中で静止させるのと同じぐらい難しい。環境の科学的な因果関係はあまりにも複雑で、制御不能だが……、彼の心情に訴えて、直接、鉄球を落とすのを諦めさせることはできる」
「でも、なぜ生贄なのです?」
「これは、ある大国の政治家の間で語り継がれていたことなのだがね」
古代殷王朝、マヤ、カルタゴ……、生贄を行った文明の数は知れない。特に、殷王朝は、占いで政治の方針を決め、卦が凶と出れば、生贄を捧げて神をなだめたという。そのような政治形態の王朝が700年近くにわたって存続し得たのは、生贄の儀式が有効だったからではないのか。以後の、生贄の儀式をほとんど行わなくなった中華帝国に、700年近く存続した政権はない、そう事務次官は言った。
「……、生贄の儀式が、文明の先進地帯で行われなくなったのは、それがあまりに不合理だからなのではありませんか?」
「いいや、そうとは限らないぞ。フランス革命によって、フランスはヨーロッパのほとんどの国々を敵に回した。にもかかわらず、各国との戦争に負けることはなかった。それは、ルイ16世や政争に敗れた共和主義者を、処刑という形で、図らずも生贄に捧げたからなのだ。あるいは、ケネディ大統領の暗殺。その後のアメリカは、ベトナム戦争に大敗したにもかかわらず、超大国としての力を保ち続けた。これは、意図された生贄だと言われている。彼らは皆、それなりに高貴な人物であり、生贄になるのに、それなりにふさわしかったのだ」
「そんな……」
「これは、ある大国の中枢では、常識にすらなっている話だ」
「そんなのは、ただの都市伝説と同じレベルの話だわ。何の実証的根拠もない」
「そうだな。むろん、こんなお話だけで、我々はことを起こそうとしたわけではない」
事務次官は、地球シミュレーション部長に目配せした。部長は、深く息を吐くと立ち上がった。
「我々は、総力を挙げてあるシミュレーションを行った。データの不足は否めないが、複雑な現実世界を相手とする案件で、データが満ち足りることなどむしろあり得ないのだ。モニタで資料を見てくれたまえ」
そして、彼は咳払いした。机の上の丸いセンサに触れると、ノート型パソコンのように開き、モニタが立ち上がった。それは、普段使い慣れたGUIのOSの画面で、デスクトップには一つだけアイコンがあった。『生贄の儀式の解析』というタイトルが付けられたそのファイルを無言で開く。
千ページ以上のデータは、文字と数式でビッチリと埋め尽くされていた。
「当時、我々はこう考えていたのだ。もし、最後の頼みの綱で生贄を捧げるにせよ、それはできうる限り完璧なもの、原型に近いものでなければならない。幸いにして、過ぎ去った時代の歴史学者や人類学者が、様々な人身御供の実例を、記録に残しておいてくれた。それらを、要素に分解し……、最終的にはゼロと一のデータに還元し、シミュレーション装置の中に放り込んだのだ」
わたしは、資料の該当部分と思われるところを、流し読みした。かれらが最初に作ったのは、膨大な行列を持つ表だった。例えば、ある生贄の儀式で「儀式の前に水で手を洗う」のであればその項目は一(有)となる。水ではなく酒で手を洗うのであれば「水で手を洗う」はゼロ(無)となり、「酒で手を洗う」の項目(なければ創設される)が一(有)となる。生贄の心臓をえぐり出すのか、水の中に放り込むのか……、どんな些細な要素も表に起こし、全てをゼロと一のデータに還元するのだ。
「一度数値にすることができれば、後は大型の計算機があれば様々な操作が可能だ。分かるよな。かつてヨーロッパの言語学者が印欧祖語を論理的な導出で仮定したように、ある文化圏の生贄儀式の祖形を求めることも可能だ。あるいは、生物学において行われているように、系統樹の作成もできる。こうした成果を組み合わせれば、全ての人身御供の祖形を求めることもできるだろう」
ほとんど、部長の語ることは上の空で聞き流して、わたしは資料を読むのに熱中した。そこで行われている数学的導出、論理的なステップに間違い、大きな飛躍を見いだすことはできなかった。どうやら、世界中に無数にバリエーションのある生贄の形態は、単系統であるようだった。つまり、たった一つのオリジナルから派生し、変化していったのだ。
「生贄儀式の原初の形態が判明した。そして、その始まりの年代と地域も分かった。今から一万三千年前〜一万年前までの間、だ」
「ヤンガードリアス期ですね!」
現代の寒冷化問題について少しでも関わっているものならば、その地質年代を知らないはずがなかった。それは、氷期が終わり温暖化し始めたはずの地球が、再び寒冷化へと向かった時期のことだ。
「そうだ。温暖な気候になり、繁栄し始めた人類を、寒冷化が直撃したのは間違いない。そして、再び地球が氷期に戻ってもおかしくはなかったのだ。だが、結果は違う。ヤンガードリアス期は終わり、一万年以上もの間、温暖な気候が続き、人類は繁栄を謳歌していた。つい最近までだが」
「なぜです? なぜ、地球は氷期に突入しなかったのですか?」
「生贄の儀式が行われたからだ、我々はそう仮定している。つまり、旧石器時代末期の人類は、これ以上寒冷化の苦しみに耐えられなかったのだ。そこで、世界で最初の生贄を捧げたのだ。その祈りは、天に届いた」
「生贄の儀式によって、ヤンガードリアス期は終わりを迎えた……と」
「その通りだ。その場所も、ある程度特定できている。キミの故国、日本だ」
「まさか……」
詳しくは分からないが、例えば文明発祥の地である中東地域などで行われた、という方がしっくりくる。少なくとも日本は、あまりにも辺境の地域で、世界に影響を与える出来事が起こったとは思えない……、いや、それこそが素人の独断なのか。
「疑わしいかも知れないが、コンピュータはそのような結論を出している。さらに、我々は、どのような人物が生贄にふさわしいか特定もしている。かなり珍しい条件ではあるがね」
「そのふさわしい条件を全て備えているのが、わたしの妹だったと? なぜ、どのように調べたのですか?」
「日本には戸籍制度というのがあるね。我々欧米人の身分登録簿とは違い、家族ごとに編製されたものだ。その全データの供出を、我々は日本政府から受けている。この制度は、家系図を作るのに非常に便利なのだ。兄弟関係その他の親族関係も、生贄の重要な要素の一つだ。そして、百人近い候補が上がったが、そのうち一人が、偶然キミの妹だったのだ」
つまり、生贄の対象者の親族が、たまたま人類統一連盟に所属していたのだ。職務に忠実な彼女を利用しない手はない、あの人たちはそう考えたに違いない。
「むろん、妹を殺したくはないだろう。だから、断ってもらっても構わない、我々は別の候補者を探すさ」
部長はそこで言葉を切った。それを受けて、事務次官が口を開いた。
「しかし、今キミは我々の計画を聞いてしまった。この意味は分かるね」
わたしは恐怖を感じた。もし、断ったとしても、陰謀を知ってしまったのだ。常に監視されるだろうし、抹殺される可能性もある。先の戦乱を生き延びた人たちだ、もっと恐ろしいことだってしてきたはずだ。
だが。戦慄は、闘争心へと変わる。もし、儀式を成功させたとしたなら、部長も事務次官も、わたしに大きな借りを作ることになる。
「もし、計画を受け入れてくれるのならば、キミに、もっともっと高いポストと金を約束しよう。キミの望む役職に就けてやることもできるのだ」
そう、計画を足がかりにして、こんな連中を歯牙にもかけないような地位に上り詰めてやる。心臓の高鳴りが、心地よかった。
「分かりました。妹を、それと分からないようにうまくおびき寄せる必要があるのですね。簡単です、やってみましょう」
***
わたしたちは、旧都心部に到達した。すでに、ひときわ高い目標部は見えている。高度な人類文明の象徴のような、偉大な塔。
「なぜ、あんなところで面接をするの?」
妹が、塔を指差していった。面接をするなら、人類統一連盟の出先機関のある鹿児島だと、誰もが思うだろう。妹は不審がっているが、まさか生贄にされるなどとは思うまい。
「かつて、この国が全盛期を迎えていた頃の象徴……、つまり文明の灯火の象徴だからよ。重要な面接だから、そのような場所で行われるの」
氷の粒は降り止んだ。地面から少し上の高さには強い風が吹いているが、わたしたちの顔の高さには、それほど強烈な風圧はない。なんだか、説明が宗教めいてしまったかと心配だったが、妹が気にする様子はなかった。
彼女は、物珍しそうに辺りの景色を見ていた。二十メートルほどに雪が降り積もっているとはいえ、旧都心は超高層ビルが建ち並んでいる。霧氷がこびりついたその姿から、かつての繁栄は想像できない。奇妙な岩のような、もとから自然物だったかのように見えるのだ。
わたしは、ビル群の合間を縫うようにして、スノーモービルを進める。目標はビルの合間からすぐに顔を出すから、迷うこともない。
と、妹が西の空を指差した。太陽が三つ? いや、これは。
太陽の両側に、対称になるようにして二つの太陽があるように見える。幻日だ、昨今珍しくもない、氷の粒が引き起こすマジックだ。
だが、それだけではなかった。太陽の周りに、光の輪。これは、ハローだ。そして、空を横切るような幻日環と、逆さの虹のような、環天頂アーク……。これだけの現象が一度に現れるのは、本当に珍しい。
妹が、外套のポケットをまさぐり始めた。出てきた小型の携帯端末で、写真を撮り始める。端末にストラップとしてぶら下がっていたのは、何の装飾も施されていない、黒い陶器の鈴だった。
「あなた、まだその鈴持っていたの?」
「うん。お母さんの形見だもん」
確かに、母が死ぬ間際に、その鈴を手渡された覚えがある。その鈴は、母の家に伝わるお守りなのだと。その二つがあれば、あなた達の運命は必ず守られるでしょうと、薄汚れた病院のベッドの上、血走った目でわたしたちを見つめ、手を握っていった。
わたしは、変貌してしまった母の容姿が気持ち悪くて、思わず手を払ってしまった。母は悲しそうに眉をひそめたが、妹がすぐに手を握りかえし、母の顔を覗き込んだ。
「お母さん、辛いの? ああ、わたしがお医者さんなら、絶対に治してあげるのに」
よくも、そんな口からでまかせが言えるな、とおぞましい気分になった。母の見た目はほとんど化け物で、死んだ方がましなぐらいだとすら思えた。
「大丈夫、辛くありません。あなたが生きて、元気でいてさえいれば」
そう言って母は、弱々しく妹の頭をなでた。わたしは、目をそらした。
どうして、妹とわたしでこうも違うのだろう。なぜ、妹のように媚を売ることができないのだろう。
生贄の条件その一。二十歳未満の容姿端麗な女。妹は、誰もが目を見張るような美貌で、この条件を確実に満たしていた。双子なのだから、わたしもほとんどおんなじ顔かたちのはずなのだが、妹のように花がない。十年ぶりにあって、その差に愕然としたものだ。
生贄の条件その二。巫女の家系であること。
***
わたしたちは、鹿児島の日本政府が再び国土を統合してから五年目の夏に生まれた。わたしの方が、五分早く生まれたそうだ。
私の家は、氷期が訪れる前は、大きな神社の巫女の家系だった。代々の長女は、現人神のように崇拝され、彼女らもその期待に答えるべく、聖人君子として振る舞った。彼女らの兄弟・姉妹も宮司や巫女になることが多かったが、長女ほどちやほやされるものではなかった。
だが、氷期の訪れとその後の動乱で、家系の人々のほとんどは亡くなった。生き残ったのは、祖母と、母だけだった。もちろん祭祀などどうでもいいような世の中になってしまっていたけれど、祖母も母も、一族の伝承を受け継いでいた。
祖母は三女で、家を継ぐ本巫女になれるわけではなかった。だが、他に生き残りはいないと判断した祖母は、勝手に本巫女を僭称した。そうして、動乱の中、怪しげな儀式をしながら母とともに全国をさまよったのだった。その道のりたるや、壮絶なものだったらしい。
だが、母の占いは結構あたったようだ。客を惑わす筋が良かったのだろう。やがて、当時紀伊半島にあった軍閥の幹部に見初められ、結婚した。玉の輿という奴だ。数年間、彼女らは幸福な歳月を過ごし、母はわたしたちを身ごもった。
しかし、紀伊半島の軍閥は、それほど長い期間存続しなかった。ハイテク兵器で武装した軍を持つ鹿児島政府の前に投降し、解体された。父である人も、わたしたち双子が生まれる前に殺害された。母と祖母は、法治国家を標榜する新政府の下、ある程度の保護はされたが、生活は厳しかった。
鹿児島で、わたしたちは生まれた。双子の出生は、歓迎されるものではなかった。いや、わたしの出生は、というべきであろうか。
祖母は、おぞましい因習を伝え聞いていた。双子のうち、先に生まれてきた方は鬼子。もう片方を押しのけて、力づくで出てきたのだから。だから、殺せ。
もちろん、祖母がわたしを殺すことはできなかった。母が必死でとめたし、さすがに人殺しをするほどの度胸がなかったのだろう。
だが、祖母は冷酷な支配者だった。時代錯誤の封建主義に縛られたくそババァは、わたしと妹が同じテーブルで食事をすることも許さなかった。三人がテーブルを囲って食事をしているときに、わたしだけ別席でまずいご飯を食べさせられたのだ。
わたしをかわいそうだと思ったのだろう。母は、三人が食べている天ぷらなどを、持ってきてくれた。祖母のいないところでは、わたしと妹を一緒に遊ばせた。……、そんな中途半端なことをするのなら、いっそ祖母を殺してくれれば良かったのに。
もちろん、狭い住居だ。たとえ祖母がいたとしても、わたしと妹を完全に隔離することなどできない。祖母などが気づかない間に、わたしたちはたくさんの非言語コミュニケーションをかわしていたに違いない。それが、例え負の感情を表現したものであれ。
あるとき、妹が食べているお菓子を、わたしが奪ったことがある。それを発見した祖母は、わたしを激しく打ち据えた。「現人神たるお方のお食事を、鬼子の貴様が奪うなど、言語道断! 殺してくれる」
確か7歳のときだ。既に理性が生まれていたわたしは、なんて馬鹿なことをいう人だろうと思った。現人神が、だらしなくお菓子を頬張るかよ。
生活は苦しかったが、祖母を雇ってくれるような仕事はなく、母だけが必死で働いた。やつれっぱなしの母を尻目に、祖母はテレビゲームに逃避した。祖母が若かりし頃、まだ寒冷化は始まっていなく、小さい子供はみなテレビゲームをして過ごしたという。かりそめかも知れないが平和が訪れて、少しずつ過去のゲームが復刻されてきたのだった。
祖母は遊び相手として、妹を選んだ。他に選択肢はなかったのだから当然だろう。祖母が子供のようにはしゃぎ、妹が必死でコントローラーを操るのを、わたしはただ見ているしかなかった。
祖母が、買い出しでいなくなったときのことだった。妹はテレビの前に座って呆然としていたので、今なら話しかけられると、わたしは近づいていった。
妹が振り返って、上目遣いにわたしを見た。奇麗な目だった。
「お姉ちゃん、ゲームしたいの?」
うなずいた。妹の隣に座り、祖母が握っていたコントローラーを手に取った。初めて触るそれの使い方を、妹は丁寧に教えてくれた。わたしに操作されて動くキャラクターに、心が躍った。初心者向けの画面で、敵を何体も倒した。
「何をしている!」
突然、わたしの後頭部に、棒のようなものが叩き付けられた。左に首を振ると、杖を持った祖母が立っていた。
「貴様は、何の権利があって、それに触っているの?」
祖母は、かんしゃくを起こして何度も何度も杖を振るった。身体を丸めて、必死で耐える。慣れているはずの痛みだったが、ひどくこたえた。助けを求めて、妹の方に首を向ける。
妹は、口を歪め笑っていた。
わたしがテレビゲームをしたのは、それが最初で最後だった。
母が病気で死に、祖母に育てる能力はなかったから、わたしたちは養子に出された。妹は資産家のもとへ、わたしは中流の数学教師のもとへ。平和になった当時、恵まれない子供を養子にしようという機運が高まったのだ。
わたしは必死で勉強し、十六歳で科学者の研究グループに入ることになった。そして、今の地位についている。ゲームをしていた妹は、ゲーム制作会社に就職した。わたしほど勉強しなかったはずだが、同じ、明晰な頭脳の遺伝子を持っていたらしい。
それにしても、ゲーム制作会社とは何と愚かな商売だろう。確かに、ある程度平和になって、人々が娯楽を求めていることは確かだ。だが、ツンドラの河川に大量発生する蚊のように無数に生まれはじめたその類いの職業は、悪しきことの始まりでしかない。
人々の目を厳しい現実からそらさせ、無能力者にしてしまうゲームを作ることに、何の正当な存在理由があるだろうか。
***
わたしは、知らない間に歯ぎしりしていた。幻日は消え、空から雲はほとんどなくなっていた。スノーモービルは、ビル街の複雑に吹く突風のせいで凸凹になった雪面を、大きく車体を揺らしながら進む。揺れるたびに、妹は可愛らしい声を上げた。わたしが、とうの昔に失ってしまったものだ。
「あなた、結婚するって本当?」
「本当よ、って前も言わなかったっけ?」
そう、妹の頭の中では、後一ヵ月後に結婚式が控えていることになっているのだ。
「確かに、訊いたわね。お姉ちゃんより早く結婚しちゃうなんて、ずるいぞ」
わたしは、妹の肩の辺りを肘で小突いて、じゃれる振りをした。妹が、結婚の計画自体仕組まれたことだと感づいているのではないかと思い、質問してみたが、大丈夫のようだった。
このビル街は、人々がかなり住んでいるらしい。戦争と豪雪でライフラインがほぼ完全に消失した東京で、どのように生活しているのか分からないが、食料品や石油と思われる大荷物を積んだスノーモービルや雪上車がちらほらと行き交っている。かつての道路交通法などとうに無効になっており、鹿児島政府は新しい法規を制定したが、この旧都ではそんなルールはほとんど守られていない。何しろ、公的な標識も、信号もないのだから、みんな自分のカンに従って運転しているのだろう。
ここで事故を起こしてしまっては今までの段取りの意味がなくなってしまう。わたしは気を引き締めた。
広い道の端で、移民と思われる金髪の女の子が、黒髪の男の子とそりに乗って競争している。ぱっと見は危なっかしく感じたが、慣れたもので、スノーモービルの進路を邪魔することはなかった。
なんだか、むずむずした劣等感がわき上がってきて、彼らから目をそらす。わたしは、幼い頃、友達と遊んだ記憶がない。妹は、どうだったのだろうか? 車体から身を乗り出して、子供達を写真に収めている。
「妊娠しているんでしょ? あんまり身を乗り出して、赤ちゃんに負担をかけちゃダメよ」
そう言ったときには、もう子供達は見えなくなっていた。
「そうだった、そうだった」
妹はカメラをしまうと、多分裸になればわずかに膨らんでいることが分かるであろうお腹を、嬉しそうにさすった。
生贄の条件、その三。処女懐胎者であること。これはひどく難しい条件だが、科学者達は想像妊娠していることであると考えた。
***
この仕事をまかされて数日後、わたしはカレ――ケイスケ――の仕事部屋で、机を挟み食事をしていた。植物プランクトンから作られたデンプンなどを固めて焼いたパンに、揚げたタラをはさみ、今では貴重になった天然のケチャップをかけたハンバーガー。ごちそうだったのは、本物のジャガイモを丸ごと油で揚げたものだった。ジャガイモは寒さに強いとはいえ、栽培できる地域も、量も限られてしまっている。海藻で作ったお茶をちびちび飲みながら、わたしたちは会話を進めた。
これだけおいしい食糧を手に入れることができるのは、ケイスケが食糧生産部門の担当官で、まだ大量生産が始まっていないプランクトン製品を入手することができるからだった。
「じゃあ、キミも計画に完全に協力するんだね」
ケイスケは優しげな、少し困ったような笑顔をわたしに向けた。
わたしは、微妙な表情でうなずいた。
「意外だったよ、キミが生贄なんて一見非科学的な儀式のために協力するなんて」
「どうして? 生贄がなぜ、非科学的なの?」
「いや、だって、何らかの超越者に願いを届けようとすること、それが生贄の儀式だろう? でも、超越者の存在が、科学的に証明されたわけじゃない」
「科学的に証明されたものだけが存在するとは限らないわ」
「まさか、キミの口からそんな言葉が出てくるなんて」
ケイスケは、大げさに肩をすくめた。まるでアメリカ人のようだ。世界的なプロジェクトに参加していると、ジェスチャーすらブロークンになるのだろうか。
「さっきの言い方は厳密じゃあなかったわね。『存在すること』という概念は、そもそも科学で定義付けできるものじゃないと、わたしは思う」
「どういうこと?」
ケイスケは有能な研究者だが、快活すぎた。哲学的事柄を沈思黙考するのには向いていないのだ。
「辞書を調べれば分かるけれども、『存在』という単語を引くと、ほとんど同語反復的な説明がなされているだけだわ。例えば『卵』とは何か訊いてきた人に『地球上に存在する卵のことだ』と説明するのと同じぐらい、用をなしていない」
ケイスケは、栗色のトゲトゲした髪の毛の固まりの先端を、少し引っ張った。理解しようと努力しているとき髪をいじるのは彼の癖だ。
「でも、科学的な定義をすればいいじゃないか。『存在とは、空間と時間内にあるもののことである』と」
「それは、同語反復よ。定義のようで、定義になっていない」
時間と空間に「ある」という言葉を使ってしまった時点で、定義にはならないのだ。
「じゃ、じゃあ、これならどう。『存在とは、感覚与件のことである』」
確かに、述語側に「存在」に近い単語はないように見える。だが、感覚与件とはつまり「目の前にありありと存在している」という意味に他ならず、結局同語反復に陥る。
「うーん、でも何か定義の方法があるはずだ。これは、言葉尻の問題だろう」
「どうかしらね。『存在すること』を、それ自身以外の概念を使って定義することは不可能なんじゃないかしら」
「うーん」
ケイスケは、納得いかないように頭をかいている。彼の、こういう困ったような表情は見ていて飽きないが。
「だから、哲学者達は『存在とは何か』について、あれほど頭を悩ましたんじゃないのかな」
そうした哲学者の名前は、いくらでもあげることができる。
「そして、『存在すること』を言葉で定義できないのなら、論理で定義できないということだわ。論理で定義できないということは、科学では定義できないということ。存在が科学で定義できないのなら、裏を返せば、科学では定義できないものも存在しうる、ということじゃない?」
「驚いたな。上手く反論できないや」
「わたしも、哲学の本を読んでいて、こんな抽象的なことは、生々しい現実世界にはそぐわないと思っていた。でも、幹部連中の話を、素直に受け入れることができたのは、科学主義の相対性を、自分なりに考えていたからだと思う」
「ふーむ」
「もっともわたしは、いずれ全ての事象は科学的手法で定義できると信じたいけれどね」
「生贄を求める超越者がいるとして、いずれそいつも、科学のチェス盤に引き摺り下ろすことができるってことだね。ハッハッハ、それでこそキミだ。キミらしいよ!」
ケイスケはわたしの肩を何度も叩いた。そんなに触られると、顔に血が上ってしまう。
「ところで、ケイスケに訊きたいことがあるのだけれど。今回の計画について」
「なんだ、やっぱりためらうところがあるのか?」
「そう。なぜ、あの人達はそもそも生贄の儀式の有効性を実証しようとしたのかしら。会議で聞いた理由だけでは納得のいかない部分がある。最初の一撃はなに?」
「それをボクに訊いてどうする?」
ケイスケは眉をひそめてわたしを見据えた。こういう表情をすると、結構怖い。
「ケイスケ、あなたは食糧生産部門の人間だわ。それが、なぜ、わたしをサポートする役割を回されてきたのかしら。まして、わたしとあなたの関係を上が知らないはずない。仕事に私情が挟まることにもなりかねないわ」
それに、『生贄の儀式の解析』を読み込んでいくと、違和感が感じられた。何か重要な要素が抜き取られているような。
「……、以前に人類統一連盟科学委員会の建物に、爆弾テロがあったことは知っているな。元々、ボクはその主犯格……指示した人間を探していた。ああ、前に言ったと思うけれど、ボクの前職は武官でね」
学者にしてはたくましい体つきをしているのは、そのせいなのだ。
「で、数ヶ月の捜査の後、主犯格を捕らえることに成功した。彼は、新興宗教の教祖だったよ。60代のじいさんだけれどね。テロ実行の理由が、少し奇妙なものだった……、そんなことを考える奴らもいるのかなって」
ケイスケはもったいぶったような言い方をする。わたしをからかっているのだろうか。
「そうあせるなって。奴はね、ボクたち科学者が、超越者の『ご意志』に反する行いをしていると言った」
「は?」
「超越者は、人類を弱体化させ、美しい自然のままの地球を取り戻そうとしているんだそうだ。人類文明存続への意志を持つボクたち科学者は、回心するか、滅びるかしか選択肢はない」
「……、今だって十分自然は猛威を取り戻していると思うけれど」
「そうだな。だが、状況を打開するために、科学者があれこれ地球をいじくり回しているような行為は許されるものではない、そうだ」
「確かに、わたしたちとは永遠に相容れない思想の持ち主ね」
「うん、それで、奴曰く、その考えは自分の父親から受け継いだというんだな。父も、その時代の新興宗教の教祖だった」
現在の教団のアジトからは、その人物が残したノートや、電子データが押収された。教義は、息子が作ったものとほとんど変わらない。当時繁栄の絶頂にあった人類に、鉄槌を下さなくてはならない、そんなものだった。
その人物は、驚いたことに、もともと、分子生物学の研究者だった。生物多様性の研究をしていくうちに、環境保護の運動に目覚め、やがてそれは宗教へと変質していった。宗教を作ってからの彼は、古代の神話や宗教的儀式についての研究を始めた。
だから、教団の祭司の方は、もっぱら彼の妻が行っていたらしい。妻は、元々民間信仰の霊能者の家系だったらしく、宗教者として板についていた、とその息子は語った。
そして、男は、世界中の宗教的儀式……特に生贄の儀式の原型を発見する。研究者時代、遺伝子の塩基配列のデータから系統樹を作る仕事もしていた彼に取って、理論的には決して難しくない仕事だった。とはいえ、彼の手元にあったのは市販のパソコンだったから、地球シミュレーション部の出した「完璧な生贄像」と完全に一致したとは考えられないのだが。彼が具体的に見つけ出した儀式がどのようなものか、記録は残っていないそうだ。
とにかく、儀式は行われた。生贄に捧げられたのは、妻。人類を衰退させ、ありのままの自然を復活させるために。
その年から、地球の年平均気温は、明確に下がり始めた。
「オレは、自分でもそいつの残したものを読んで、妄想とは思えなくなった。それで、科学者達にも読んでもらったんだ。彼らは最初、小首をかしげていたが、やがて得心がいったようだった。所属替えが行われ、オレは科学委員会の下で働くことになった。それが、五年前のことだ」
五年前、ケイスケが十代最後の年か。一昔前の出来事のようにも思えるが、科学プロジェクトとしてはまだ生まれたばかりのようなものだ。それで、実行へとうつそうというのだから、科学者達はよほど確信しているに違いない。
だが、論文を読んだときの違和感が全て解消されたわけではない……、何かがまだ隠されているような。
「これが、ボクの知っている話の全てだ」
ケイスケの目は、空中を泳いでいた。わたしと目を合わせようとしない。
彼が何を考えているのか、手に取るように分かった。
右足のヒールを脱ぎ、足裏を彼の股間に押し当てる。固くそそり立った陽物の感触がした。ケイスケは恥ずかしそうに笑っている。
なぜか、少し眠くなってきたが、大丈夫だろう。わたしたちは、簡易ベッドの上へと向かった。
***
ケイスケは、プロジェクトで重要な役割を任されていた。妹と接触し、彼女の恋人役を務めること。他の男が近づいて、彼女と性交しないように見張ること、だ。そしてまた、妹がケイスケと性交したという気にさせること、これは想像妊娠には必要だが、ひどく難しいことのように思われた。
今から数ヶ月前のあの日、ケイスケと妹は何度目かの(ひょっとすると何十回目)のデートをしていた。二人は、海の産物を出す定食屋で食事をしている。ちょっと高い店で、人類統一連盟の職員ほどの給料でなければ、入るのをためらってしまうだろう。
わたしは、死角から彼らの様子を監視していた。別に、上から監視しろと言われているわけではない。だが、彼らが本当に交わってしまえば、今までの計画は無駄になってしまうのだ。そうなったのなら、直ちに上に報告するつもりだった。もう彼女は生贄として役に立たない、と。
しっかりと自己管理ができるケイスケだ、そんなことはないと思うが、楽しそうに談笑する二人を見ていると不安になってしまう。
ケイスケは、どんな風に妹を口説いたのだろうか。彼は、ちょっと男くさいが、奇麗な容姿をしている。会話も巧みで、聞き上手だ。何しろ、同じ遺伝子を持つ妹なのだから、好きになってしまうことは間違いない。
どんな会話をしているのか、耳をそばだてる。
「ねえ、最近身体の調子はどう?」
優しそうに訊く、カレ。
「うん。ナオキに紹介してもらったマッサージの店に行ったら、ずいぶん良くなったよ」
妹の前で彼は「ナオキ」と名乗っている。
「そうか。何しろプログラマなんて、一日中座ってモニタに向かっている仕事だろ。心配だったんだ」
そのマッサージ屋は、実際には高度な訓練を積んだ催眠術師だった。薬物なども使用し、寝ぼけている妹の心の深層に、「ナオキ」と性交した記憶を植え付けるのだ。何度も何度も。やがて記憶は、心の表層にまで泉のようにわき上がってくる。記憶を捏造しうることは、多くの研究が証明しているし、誰もが少しは経験していることだろう。
その記憶が本当なのかどうか、彼女には分からない。混乱するはずだが、そこはケイスケの腕の見せ所だ。あたかも、何度も性交しているかのように演技するのだ。捏造に、拍車がかかっていく。
彼女は怖くなって、近々に医者に行くだろう。もちろんその医者もグルで、彼女が妊娠していると告げる。これで、想像妊娠のスイッチが入るはずだった。
「なあ……」
ケイスケの声が急に小さくなった。必死で耳をそばだてる自分がなんだか恥ずかしかったが、やめることができない。
「ボクと、結婚してくれないか」
彼は妹に、確かにそう言ったのだ。
***
もうすぐ、目的地に着く。緊張しているのか、妹も口数が少なくなっていく。ハンドルを握る手が小刻みに震えているのは、むろん寒さからではない。
生贄の条件、その四。生贄は、そのぎりぎりの瞬間まで、自らが生贄にされることを知らないのが望ましい。つまり、少なくともわたしが、儀式用の短剣を取り出すその瞬間まで、妹は「面接をしにきた」と信じているべきなのだ。今まで、上手くやってきた。
それにしても「結婚しよう」か。
わたしのお腹に本物の赤ちゃんができたときも、結婚しようと言う言葉が出ることはなかった。心にさざ波が立って、それが心の限界にぶつかって何度も反響する。心の雑音を消すことができない。
「お姉ちゃん。ここよね」
「そうよ」
過去、人類が繁栄した象徴、栄光の文明時代が残した遺産、未だ聳える科学技術の粋。東京スカイツリーが、雪の結晶を全身にまとわりつかせて、なおも堅牢なまま屹立していた。人類文明を復活させる儀式において、この日本で、これほど神の依り代にふさわしい場所が他にあるだろうか!
かつて、信じられないほどの観光客が出入りした電波塔の周りに、今、人影はない。西の空に沈みつつある太陽によって、影が大きく、長くなり始めている。その影に包まれるようにして、一つの天幕があった。まるで、遊牧民のテント、それもとびきり豪奢なものに見えた。天幕には、幾何学模様が、複雑な規則でもって描かれている。これも、様々な文化圏の資料を総合した結果得られた、完璧な模様なのだ。この中で、儀式は行われる。
天幕の周りには、屈強な武官達が数名立っている。彼らは、その外套の下に自動小銃を背負っている。生贄が逃げ出したり、暴れ回っても、彼らがすぐに取り押さえてくれるだろう。
妹が不信を抱くかも知れないというのは、取り越し苦労に終わった。わたしの後ろをついて、天幕の中に入った。強い香の匂いがした。ゴーグルがあっという間に曇ったので、外して、外套のポケットの中に突っ込む。
天幕の中央には四角い囲炉裏のようなものが組まれ、そこで薪が小さな炎を瞬かせていた。明かりはそれだけで、煙は真上に作られた漏斗のような先端の煙突に吸い込まれる仕組みになっているようだ。天幕内に漂う匂いは、何らかの植物の樹脂を燃やしているからだろう。これが、旧石器時代の香りなのか。なんだか、頭がクラクラした。
白いスーツに身をくるんだお歴々……、事務次官、地球シミュレーション部長……、らが、白木の机の後ろに座っている。彼らの表情は闇の中でよく分からないが、わたしの顔を見てうなずいた。床には絨毯のようなものが敷かれ、ふかふかしているが、素材はよく分からない。
わたしが妹を殺すのだ。
当初、幹部連中は、わたし以外のものが儀式を行うことを想定していたようだが、自ら志願した。血のつながりのある妹を殺すのに後ろめたさがないわけではなかった。だが、わたしが救世主になるのだ。この偉そうな連中も、頭が上がらなくなるに違いない。いや、そんなことよりも「救世主の巫女」とは何と甘美な響きではないか。
口元が緩む。妹を殺せるのだ。
妹は、わたしに背を向けて、肩から下げた鞄から何かを取り出そうとしている。距離にして二メートル。今がチャンスだ。
わたしは、儀式用の、刃渡り三十センチある巨大な針のようなナイフを取り出し、木を削って作られた無骨な柄を両手で握る。一撃で殺せるよう、何度もダミー人形で練習した。
わたしは妹に向かって突っ込んでいった。妹が振り向く。
何かがおかしい。
妹の手に、同じものが握られていた。
まさか。
はめられた!?
もう止まることはできない。ナイフが鳩尾に深く深く刺さる。
まるで、身体の中の風船が弾けたような、激痛。皮膚が破れ、腹膜が破れ、胃と食道の接続部分を貫き、背骨にまで……。
妹の肩を掴む。力なく崩れ落ちる。
体液が氷水になったかのよう。
視界が、赤になり、それから急速に白くなっていく。
「成功しましたな、事務次官!」
「そう。完璧な生贄の条件。双子の姉妹が、お互いを生贄に捧げる。……、このシチュエーションを満たすのは非常に難しい! だから、有史以来の多くの儀式は、不十分にしか叶えられなかったのだ。古代の使命感にかられた巫女ならばやっただろうが、それとて不十分だ。儀式の直前まで、自分が生贄にされるのを知らないことがより望ましいのだから。我々が、ここまで段取りをするのに、どれだけ苦労したことか」
「これで、全球凍結は免れた。いや、そうでなくては困るのだ」
妹への憎しみすら、誘導されたものなの?
暗くなる。
激しい憎悪だけが……。
おお、見よ! 薪の煙があれほど盛んに!
了