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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

融解する問答

作者: 夏目カガリ

 

 

「つまり、わたしは約ニ年間に渡ってあなたを傷つけたのですね」

「ああ」

「精神的に? 肉体的に?」


 青年の問いを受けて男は窓の外を見て目を細め、緩慢な口ぶりで両方だと答えた。掠れた声で、気だるげに。

 そこは、そう広くはないが日当たりの良い部屋だった。 白い壁に囲まれており、うららかな初春の日差しを柔らかく反射している。 天井に埋め込まれたスピーカーからは何も流れてはいなかったが、 その代わりに薄く開いた窓からは風でケヤキが揺れる音、それに伴い微かに聞こえる小鳥のさえずりが自然の音楽を奏でていた。

 青年と男は長方形の机を挟み、向いあって座っていた。


「前者から話してくれますか。精神的にとは?」


 穏やかな声で青年が尋ねる。二十代後半ほどで、黒ぶちのメガネをかけた青年だ。 人目を引くような印象的な要素は特にないものの清潔感にあふれた容貌で、纏う雰囲気は部屋に満ちる光と同じくらい柔らかい。

 対する男は青年よりやや年嵩で、三十代前半といったところだろうか。 顔立ちだけを見れば端正な部類に入るが、表情の抜け落ちた顔と木の洞のように暗い瞳のせいで、 そうと気づく者は少ないだろう。油気のない肌はかさつき、砂漠の植物のような不均等さで無精ひげが生えている。


「おまえは、一日家にいたが家事を一切しなかった」

 窓から視線を外し、男は青年の問いにそう答えた。

「いつも色んなことに苛々としていて、よく物を投げたり壊したりした。 だから俺は仕事を終えて帰宅すると、まず片付けをしてから夕飯を作り、洗濯をした」

「わたしはよく怒鳴りましたね。洗濯機の音がうるさいから」

「そう。だから俺は、お前が完全に寝静まるまで待たなきゃいけなかった。 それから洗濯して干すから、たぶん寝るのはニ時とか……それくらいだったと思う。もちろん毎日じゃないが」


 ぼんやりとした口調で男は、ひとつひとつ記憶を辿ってゆく。

 その様子は、パズルのピースを正しい場所に導く過程を青年に連想させた。


「仕事がお休みの日は何を?」

「一歩も家から出なかった。――いや、出れなかった。 メールも駄目だったし、電話もだ。俺が必要以上に他人と関わるのをひどく厭がった」

「他には何かありますか? 精神的に、あなたが苦しいと思ったことは」

「そうだな……おまえは、よく俺を罵った。料理がまずいだとか、ノロマのクズだとか。 まあ実際、俺は料理が下手でノロマだったんだが」

 そこで男は、ふと唇を歪めて笑った。

「ああ、『なんでまだ生きてる?』って言ったこともあったな。朝起きて顔をあわせた瞬間にだ。 ぽかんとしたよ。あれはケッサクだった。そう思うだろ?」


 ヒステリックな笑いが収まるまでじっと待ってから、そういえば、と青年は話題を変えた。


「そういえば、あなたは惣菜屋で働いていましたね」

「ああ。残り物がもらえるからな。貧乏人にはありがたい」

「でも給料は、正社員じゃなかったからそう多い額ではなかったでしょう?」

「そうだな、侘しい額だった」

「給金の殆どを、あなたはわたしの酒代に当てていましたね」

「おまえはアル中だった。 何ていったか、キッチンなんとかいう」

「キッチンドランカー?」

「そうだ、それだった」

「そして酔っている間は、普段以上に暴れた」

「……けれど、アルコールが切れたら土下座して謝っただろ?」

「ええ。でも、数日後には同じことを繰り返しました。あなたは何度も許しましたが、わたしはその信頼を何度も裏切りました」


 男は軽く目を伏せ、爪の甘皮をむしった。青年は注意深く、つとめて柔らかい声音で次の質問を投げかけた。


「肉体的には、わたしはどのようにあなたを傷つけましたか?」

「殴った。たまに蹴ることもあった」

「学生時代、わたしはサッカー部に所属していましたから、蹴りの威力は凄まじかったでしょうね」

「……ああ。血反吐を吐くほどな」

「一時期、通院していたのを覚えていますか?」

「覚えていない」

「内臓に損傷を受けて血尿が止まらなかったことがあったでしょう? あなたは寝ることすら出来ないほどひどい痛みを抱えながら、 それでも仕事に通っていましたね。いつものように、いずれ痛みは去るものと思って我慢していたのでしょう。 もし仕事場ではなく自宅で倒れていたら、あなたはどうなっていたと思いますか?」

「どうだっていい。そのまま死んでいたかもしれないが」


 男は苛ついた口調でそう答えた。阿片の中毒患者のように落ち着かない素振りで、しきりに手の甲を擦っている。 青年は机のうえに両手を組んだ。


「性的暴行はありましたか?」

 男は青年を初めて真正面から見ると、吐き捨てるようにいった。

「本当に聞きたいのか」


 青年はゆっくりと瞬きをすることで、自分に聞く準備が出来ていることを示唆した。

 動揺しないこと。それがこの場においてもっとも重要なことだと青年は理解していた。


「わたしは、あなたの意思を無視して性交渉に及びましたか?」

「……厭がったときは無理やりに。時々だ。アルコールが入っていないときは優しかった」

「強要されたセックスほど自らを損なうものはありません。その時あなたは、わたしに対してどんな感情を覚えましたか?」

「わからない」

「よく状況を思い出して。焦らずゆっくりと。分かるはずです」

「……傷ついた。哀しくなった」

「わたしが憎かったですか?」

 青年が尋ねると、男はやや戸惑った表情を浮かべた。

「憎かった、かもしれない」

「かもしれない?」

「いや……きっと厭だった。と、思う」


 男が搾り出すようにしてそういうと青年は、教師が子どもに掛け算を教えるような口調でこう話した。


「長期にわたるDVは、被害者にPTSDという心理的影響を及ぼします。 一般的にはトラウマと呼ばれていますね。自傷行為を行ったり、喜怒哀楽を喪失したり、 判断力が低下することで現状の異常さをそうとは思わなくなったりします。 ですが、もっとも問題視されているのは、繰り返し人格を否定され続けることで、 『悪いのは自分であり、何の価値もない人間なのだ』と思い込むことです」


 青年は言葉を切り、男の表情を観察した。能面のようだった顔にわずかに汗が滲んでいる。

 ひび割れた唇を舐めて男はなにかをいおうと口を開いたが、結局は逡巡したのちに閉じた。


「わたしは確かに毎回、誠心誠意あなたに謝りましたね。 しかし恐怖と安定に交互に揺さぶられることは、ある意味で暴力のみよりも被害者を痛めつけます。 かつては愛し合った人間からの暴力は、それほどあなたの心を殺すのです」


 究極のアメとムチといえるでしょう、と青年は付け加えた。 男は手で顔をぬぐい、深く息を吸って、吐いた。相変わらず部屋には木洩れ日が満ちていて、小鳥がさえずっていたが、体感温度は最初よりもずっと低かった。

 青年はそっと手を伸ばすと男の片手を取った。男の掌はじっとりと汗ばんでいたが、体温は死人に近い冷たさだった。 大丈夫ですか? と気遣いながら、さりげなく指を手首に伸ばし悟られないように脈を取る。 男の脈は通常よりもだいぶ速くなっていた。そのパルスを指先に感じながら、青年は本題に入った。


「あの日のことについて、教えてくれますか?」


 男は弾かれたように青年から両手を引き、 伸びすぎた前髪の隙間から鋭く睨みつけた。主人を威嚇する番犬のように。


「……知ってるだろ」

「“あなたの”口から聞きたいのです」


 男は苛つき舌打ちをしたが、 その表情はどこか怯えていた。青年は再びゆったりと両手を組む。


「あの日、わたしは荒れていましたね。重い腰を上げて行った仕事の面接にはあっさりと落ちて、 そのうえキッチンにはアルコールがなかった。あれほど酒は切らすなといっていたのに。 わたしは、すぐ買ってくるように命令した。それに対してあなたが何と言ったか覚えていますか?」

「俺は……俺は、金がないと」

「ええ」

「今月は家賃を払う金も危ういのに、酒を買う金なんてどこにあるのかって」

「続けて」

「話があると、俺はいった。すると、おまえは激昂して椅子を投げてきた。 俺は思わず――たぶん反射的に、傍にあったものを掴んだ。包丁だった。おまえは驚いたがすぐに、」

「すぐに?」

「そう……おまえは、」

 男は音を立てて、唾を飲み込んだ。

「おまえは『刺せるのか?』と笑った。『おまえに、俺が刺せるのか?』と。 そして俺が戸惑った一瞬に殴り、包丁を奪い取った。髪を引っつかんで、咽喉元に包丁を当てた」

「そう。そして、わたしは――」


 青年はそこで初めて一瞬だけ躊躇ったが、すぐにその言葉を口にした。


「わたしは、あなたを殺しましたね。どのように?」


 青年は男を見た。洞のようだった目は、今では口よりも遥かに雄弁だった。 言わなければならないのか、とその血走った目は懇願していた。許してくれ、言いたくない、とも。 青年は、それらの問いに沈黙で答えた。

 やがて諦めた男は、唇を戦慄かせながら搾りだすようにして話しはじめた。 強迫観念に声は上ずり、こめかみに滲んだ汗は頬を伝い、顎に集約した。


「おまえは……おまえは、まず俺を縛り上げた」

「何で?」

「し、新聞を捨てるときに縛るロープで」

「ロープで両手と両足を拘束した。それから?」

「それから、殴った。鼻の骨が折れた感触が――血が、おそろしくたくさん出た」

「それでも、わたしは満足しなかったんですね?」


 男が痙攣するようにして頷くのを見て、それから? と青年は理知的な態度を崩さずに先を促した。 男は何度も言い澱み、時折こみ上げる感情に溺れそうになったりもしたが青年は決して急かさなかった。 急かさなかったが、偏執的ともいえるほど細部まで聞き質した。


 どれほどの時間、わたしはあなたを痛めつけましたか?

 わたしが押し入ったとき、あなたは絶望しましたか?

 長い髪をハサミで切り刻まれたときは? 何度あなたはやめてと懇願しましたか?

 鎖骨を削るように包丁を差し込まれたとき、どれほど死への恐怖に怯えましたか?

 あなたの目に、わたしはどんな風に映りましたか?

 教えてください。“わたし”はいつ、恋人が死んでいることに気づきましたか?



 椅子が勢いよく倒れた。男は幽鬼のようにふらつく足で後ずさると、頭を小刻みに振った。

「先生……先生、もうやめよう」

「いいえ。最初の決め事を思い出して。ロールプレイングですよ。 カウンセリングが終わるまで、わたしは『あなた』、あなたは『彼女』です。 どうしたんです、最初はなかなか乗り気だったじゃないですか」

「いやだ、もう話したくない……!」

「しょうがない。では聞いてください」


 青年は黒ぶちのメガネを外し、シャツの胸ポケットに入れた。


「あなたは知っていましたか。彼女のお腹に新しい命が宿っていたことを。 彼女を性的に痛めつける時には避妊をしなかったそうですね。 愛のない暴力で出来た子どもを、それでも彼女が産もうとしていたことをあなたは知っていましたか? 子どもが生まれて父親になれば、 あなたが変わるのではないかと――あれほど虐げられていながら、なおも彼女があなたに希望を抱いていたことを知っていましたか?」


 男はずるずると床に崩れ落ち、拳でカウンセリングルームの床を何度も叩いた。 青年は微動だにせず、その自傷行為ともいえる暴力的な姿を眺めていた。

 危険は感じなかった。男の両手には手錠があるし、 襲いかかられたとしてもこの痩せ細った身体を組み伏せるのは容易いだろう。 それに、この男にはもう他人を支配することはできない。

 危険なのはむしろ自分の方だ、と青年は思った。


「愛していた! 本当だ!」


 唐突に男が叫んだ。 涙を流し、悲壮に顔をゆがめて。


「別れ話を切り出されると思ったんだ! そんなのは耐え切れないと思った、彼女が全てだったんだ!」


 叫び声に、部屋にひとつだけあるドアのロックが外されて看守が顔をのぞかせた。 部屋に入ろうとしたその看守に向かって青年は苦笑しながら首を横に振り、大丈夫ですから、と唇の動きだけで伝えた。 看守は心配そうな顔を浮かべていたが、男の手に手錠がきちんとはめられていることを確認してから、またドアを閉めた。

 看守の足音が少し離れたのを耳で追ってから青年は立ち上がり、男の方へと歩いた。


「愛していたのならなぜ優しく抱いて、朝まで一緒に眠ってあげなかったんですか。 なぜ殴り、なぜ腎臓が破裂寸前になるまで蹴ったんです? 彼女の死体を前にしたときあなたはなぜ、 ゴミ袋につめて川に捨てるという選択をしたんでしょうか」


 男のまえに屈みこむ。見上げてくる怯えきった目を見つめ返し、青年はこめかみを指先で揉んだ。 そして押し殺した感情を細く長く、ため息にして肺から吐きだした。


「あなたのソレはね、愛とは呼ばない。よしんばそう呼ぶとしたら自己愛というんです」


 男は何かをいおうと口を開いた。しかし声は出ず、唇は魚のように無為な開閉を繰り返すだけだった。 江口さん、と青年は男の名を呼んだ。鼓膜に厭が応にでも沁みこむように、慈愛すら感じさせる穏やかな声音で。

 彼女はこの世で唯一、あなたを愛してくれた人間でしたね。 ご両親には勘当され、親しい友人もいない。そうですよね? あなたが今までカウンセリングで話してくれたことです。

 ねえ、わたしのいっていることが理解できますか、江口さん。 彼女をその手で壊した瞬間、あなたはこの世で誰からも必要とされない存在になったんです。 誰もあなたのために泣かないし、誰もあなたが全てだと欲したりしない。 道端に転がる小石よりも無価値な存在です。あなたが彼女に言ったことを、わたしからも言いましょうか。


「なんでまだ生きているんだ?」


 男の双眸が絶望の色に染まってゆくのを見て、青年は泣きそうな顔で微笑んだ。






 抜け殻のように項垂れた男をしばらく見下ろしてから青年は立ち上がり、 テーブルの上に置いてあったICレコーダーをスーツのポケットに入れた。ドアをノックすると、先ほどの看守がやってきてロックを外す。中年のその看守は、部屋の中をちらりと覗いてから「大丈夫でしたか?」と気遣わしげに尋ねた。


「あの受刑者は先生を信頼しているようだったので、驚きましたよ。 今日はどんなカウンセリングを? いつもより少し長かったみたいですが」

「今日は少し立ち入った話をしまして。大丈夫、患者が叫んだり取り乱すのはよくあることなんですよ。 むしろそうやって心の葛藤や鬱憤なんかをぶつけてくれるようになったのは、こちらに心を許している証拠ですから」


 やや照れくさそうな苦笑を青年が浮かべると看守は訳知り顔で、なるほど、と頷いた。


「いやあ、それにしても頭が下がりますな。月に一度とはいえ、ボランティアで受刑者たちのカウンセリングをするなんて、なかなかできるもんじゃありません」

「いえ、私もまだ精神科医として若輩者なので経験を積ませてもらえて有難く思っています。これを機に国が受刑者の心のケアを重視してくれればいいのですが」

「まだお若いのに大したものですなあ。うちの娘に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいもんです」

「そういえば娘さんの受験、どうでした? もうそろそろ結果が出た頃ですよね」

「いやねえ、それが受かっちまったんですよ。春から東京だって今から浮かれてます」

「それじゃ寂しくなりますねえ」

「やかましいのが居なくなって落ち着きますよ。 ただねえ、アレは家内に似て面食いだから。悪い男に騙されるようなことだけは勘弁してほしいもんです」

 青年は一瞬息を詰めたが、すぐに親身な様子で頷いた。

「そうですね。ええ、本当に」


 ではまた来月に、という看守の言葉に彼は首から提げたIDカードを軽く掲げ、愛想よく会釈を返した。




 刑務所から出ると、春一番の風が勢いよく青年の髪を掻き揚げた。 思わず風の後を追って空を仰ぎ、その眩しさに目を細める。本当に、うららかな日だった。 近くの小学校では授業開始のベルが響いており、それは平和の象徴のように思えた。

 バス停へと歩きながら青年は思い出していた。数年前、恋人との写真をメールで送ってきた彼女の笑顔を。 お腹に赤ちゃんがいるの、と電話ごしに幸せそうにいった彼女の声を。

 あのとき、どうして気づかなかったのだろう。不審な点はあった。 真夏なのに長袖を着ていたこと、電話がいつも自宅からでなく仕事帰りにかかってくること、 他にもサインは腐るほどあったはずだ。なのになぜ、気に留めることができなかったのだろう。

 あのとき気づいてさえいれば、こんなことには。


「――…姉ちゃん」


 刑務所の外塀によりかかり、呻くように青年は涙を流した。嗚咽が漏れないように片手を強く口に押し当てる。 それでも咽喉は痙攣を繰り返し、指の震えは永遠に続くように思えた。 姉がこの世を去ってからというこのニ年間、厳重に凍らせていた悲しみが一気に融解して、その濁流に飲みこまれる。

 幼いころに両親が離婚し、それでも姉との絆は断ち切れずにいた。戸籍上の苗字は変わっても、身体に流れる血は変わらない。誰よりも幸せになってほしいと望んでいたのに。なぜ彼女があんな目にあわなければいけなかった? あんな、傲慢で臆病で自分よがりな男のために?

 必死になって青年は十数分前のことを思い起こした。出る間際、男の手にそっとカミソリを握らせた感触を。 陽光を反射し、鈍く光る銀色。それを魅入られたように見つめる、男の黒々とした双眸を。


 やがて落ち着いてきた青年はスーツの袖で涙をぬぐい、首から提げていたIDカードを歩道の脇を流れる下水に捨てた。

 そして歩き出した。今までと同じように。これからも、そうであるように。





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[一言] 彼の復習は成ったのか…。あえて書いていないのが良かったです。 良い短編でした。
[一言] 今回はトリッキーな構成でしたね。 最初、ゲイのカップルの痴話喧嘩かと思い、 あれ?主客が逆転してない?と気づき、 あーなるほどね、と納得して、 最後に、おおっそうきましたか、とすっきりしまし…
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