傾いたクリームソーダ
こちらの作品は不定期更新を予定しております。もしこの物語を気に入っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。
今日も、何も見えなかった。
久世宗一は、眼鏡の脇から垂れた小さな石を鏡から離した。
透明に近い石は朝の光を浴び、その奥にごく淡い青を浮かべている。装飾品にしては地味で、眼鏡につけるには少し変わっていた。
細いチェーンの先をもう一度つまみ、鏡の中の自分へ重ねる。
五十を少し過ぎた男が映っている。灰色のシャツに濃い色のベスト。細いフレームの眼鏡。髪には以前より白いものが増えた。
けれど、石の向こうにあるのは、わずかに歪んだ自分の姿だけだった。
宗一が石を離すと、ホテル側から声が飛んできた。
「久世さん、今日もやってたんですか、それ」
振り返ると、若い従業員が伝票を片手に喫茶店へ顔を覗かせている。
「ただの身だしなみの確認ですよ」
宗一は眼鏡を押し上げた。
「これを通すと、周りがよく見えるんです」
「老眼ですか?」
「君は朝から失礼ですね」
「じゃあ、いつもの、ここに置いておきますね」
従業員は伝票をカウンターに置き、ホテル側へ戻っていった。
宗一は届けられた牛乳のケースと伝票を照らし合わせる。数に間違いがないことを確かめ、冷蔵庫へ収めていった。
壁の時計は、開店まであと十分を指している。
店内にはコーヒーメーカーが湯を沸かす音が響き、その向こうのホテルロビーからは、ときおりキャリーケースの車輪が床を転がる音が届いていた。
食材を確かめ、コーヒー豆を補充し、テーブルを一周する。
以前は従業員に任せていた仕事だったが、今ではすっかり日課になっている。
入口の札を裏返した。
最初の客が来たのは、開店から十五分ほど経ったころだった。
ドアベルが鳴る。
入ってきたのは、大学生くらいの若い女だった。
肩に大きめのバッグを掛け、片手にスマートフォンを持っている。服装は落ち着いていて、派手な印象はない。
「いらっしゃいませ」
女は店内を見回した。
「あの、一人なんですけど、テーブル席って使えますか?」
「朝はそれほど混みませんから、大丈夫ですよ」
カウンターに近い二人掛けの席へ案内する。
宗一がおしぼりと水を用意している間に、女はもうメニューを開いていた。
見ているのは料理の写真ではない。
ページの隅に小さく書かれた説明文を追いながら、小さなメモ帳へ何かを書き込んでいる。
何を書き留めるほどのものがあるのだろう。
この店では、取り立てて珍しいものを出しているつもりはない。
「おしぼりとお冷です。ご注文はお決まりでしょうか」
女は顔を上げた。
「あの、このメニューって写真を撮っても大丈夫ですか?」
「ええ、構いませんよ」
「ありがとうございます」
女はスマートフォンを向けた。料理だけではなく、説明文や値段の並びまで何枚か撮っている。
そしてモーニングセットを注文すると、またメモ帳を開いた。
コーヒーを淹れている間も、女はページをめくっては何かを書き足していた。
料理ができあがり、宗一は皿とコーヒーを席へ運んだ。
「お待たせしました。スクランブルエッグとイングリッシュマフィン、それとコーヒーです」
反応がない。
メモ帳に夢中で、宗一が横まで来たことにも気づいていなかった。
「お客様」
女は肩をわずかに跳ねさせて顔を上げる。
「あっ、すみません。ありがとうございます」
慌ててメモ帳を閉じ、テーブルの端へ寄せた。
「差し出がましいかもしれませんが、当店のメニューがそんなに気になりますか?」
女は閉じたメモ帳を見た。
「……すみません。変ですよね」
「いえ。ただ、料理より説明書きの方を熱心に見ていたので」
少し迷ったあと、女はメモ帳へ手を置いた。
「お店を、少し変えたいと思って」
「あ。私、森川紗季っていいます」
「久世です」
「店長さんですか?」
「この店と、隣のホテルを預かっています」
紗季は一度、窓の向こうに見えるホテルの入口へ目を向けた。けれどすぐに視線を店内へ戻し、カウンターや壁際のメニューを見渡す。
「じゃあ、こういうメニューも久世さんが考えてるんですか?」
「全部ではありませんよ。料理はスタッフと相談しますし、昔から変えていないものも多いです」
「どれくらいの頻度で変えるんですか?」
先ほどまでとは違い、質問に迷いがなかった。
「季節のものは入れ替えますが、定番はそれほど変えません。変えたから客が来るとも限りませんからね」
紗季はすぐにメモ帳を開く。
「こういうお店って、若い人も結構来るんですか?」
「ホテルのお客様もいますし、近所から来る方もいますよ」
「SNSとかは?」
「店のアカウントはあります。熱心に更新しているとは言えませんが」
紗季は頷きながらペンを走らせる。
単に喫茶店が好きで調べているわけではなさそうだった。
「森川さんも、お店をやられているんですか?」
紗季の手が止まった。
「あ、私のお店じゃないんです。祖父が喫茶店をやってて」
紗季は店内へ視線を巡らせた。
「うちも、こういう感じだったらなって思って」
「今とは違うんですか?」
「かなり古いです。いわゆる純喫茶っていう感じで。私は好きなんですけど」
紗季はコーヒーを一口飲む。
「でも、この辺もだいぶ店減りましたよね」
「そうですね」
宗一にも思い当たる店はいくつかあった。ホテルを継いだころには残っていた商店のうち、今では看板だけになったところもある。
「まあ、うちもそろそろなんですけど」
その言葉だけが、妙に軽かった。
「閉めるんですか?」
「そのつもりみたいです」
「私、今年大学四年なんです。もともと店を継ぎたいって言ってたんですけど、家族から、継ぐにしても大学だけは出ておけって言われて」
「それで、食品会社から内定ももらいました」
会社名には宗一も聞き覚えがあった。
スーパーへ行けば、その会社の商品を見ない方が難しいくらいには名の知れた食品メーカーだ。
順当な就職先と言っていい。
それでも紗季は朝から、閉めるはずの店のために別の喫茶店を調べている。
「内定を祖父に報告したら、就職しろって言われました。店は自分の代で閉めるからって」
そこまで話してから、紗季は宗一を見る。
「すみません。こんな話まで聞いてもらうつもりじゃなかったんですけど」
就職先は決まっている。家族も祖父も、それを望んでいる。
それなら、目の前のメモ帳は何なのだろう。
会話の途中で石を覗くわけにもいかない。
「お水、足しておきますね」
空いたグラスを手に、カウンターへ戻った。
店の奥にある鏡には、テーブル席の紗季が映っている。
宗一は細いチェーンの先をつまみ、その像へ石を重ねた。
視界の端が歪む。
シャッターの閉じた店の前に立つ紗季。
見覚えのないオフィスで、机に向かっている紗季。
古びたカウンターの向こうで、幼い紗季が背の高いグラスを両手で抱えている。顔を近づけて何かを飲み、口元についた泡を手の甲で拭った。
その傍らを、年老いた男の腕らしきものが横切る。
次には、誰もいない店内。
そこで像は途切れた。
宗一は石を離した。
相変わらず、どれが過去で、どれが未来なのか。
それとも、起こり得るだけの景色なのか、分からない。
水を持って席へ戻ると、紗季はまたメモ帳を開いていた。
グラスへ水を注いだとき、ページの隅に書かれた文字が目に入る。
『クリームソーダ』
先ほど見えた、背の高いグラス。
「少しお待ちください」
宗一はカウンターへ戻り、棚から背の高いグラスを取り出した。
そこへ氷を入れ、緑色のシロップと炭酸水を注ぐ。その上に、スプーンですくったバニラアイスを浮かせ、赤いチェリーを添えた。
それを紗季の前へ置く。
「これは?」
「サービスです」
「頼んでないですけど」
「ええ。嫌いなら下げます」
紗季はグラスを見つめた。
炭酸の泡が、アイスの縁で細かく弾けている。
「……うちの店にもあるんです。こういうクリームソーダ」
宗一は続きを待った。
「祖父の店、昔からほとんどメニューが変わってなくて。クリームソーダもずっとこれなんです。バニラアイスと、赤いチェリー。昔ながらのやつ」
紗季は一口飲んだ。
「でも、うちのはもっと雑ですよ。アイスもよく傾いてるし、シロップも日によって濃さが違うし」
「嫌でしたか?」
「逆です。今日はどんなのかなって、子どものころはそれが楽しみでした」
そこからは、宗一が尋ねなくても話が続いた。
学校帰りに祖父の店へ寄り、店の隅で宿題をしたこと。暇な日は余ったプリンをもらったこと。小さいころから顔を知っている常連客がいること。
「だから、好きなんです。あの店」
紗季は少し黙った。
「でも、好きだから残せるって話でもないんですよね」
常連客は減っている。設備も古い。売上も良くない。
祖父自身も、今まで閉めるきっかけがなかったから続けていただけだと言っているらしい。
「私が継いだところで、今のままなら多分変わらないです。だから、少しでも変えられないかなって思って」
メモ帳へ目を落とす。
「メニューとか、見せ方とか。若い人にも来てもらえるように」
宗一は少し間を置いた。
「では、内定をもらった会社に就職すればいいんじゃないですか」
紗季が顔を上げる。
「……簡単に言いますね」
「継ぐ理由より、閉める理由の方が多そうですから」
紗季はクリームソーダへ目を落とした。
「でも、今のままだから駄目なだけかもしれないし」
宗一は何も言わない。
「メニューだって、もう少し変えられると思うんです。祖父は嫌がるかもしれないけど」
「でも、昔から来てくれてる人には、変えない方がいいのかもしれないし」
「でも、新しい人が来なかったら、それこそ続かないし」
紗季はしばらくグラスの中の泡を見つめていたが、やがて顔を上げた。
「……それでも、私、一回やってみたいんです」
宗一は頷いた。
「もう一回、祖父と話してみます」
それ以上、宗一は何も言わなかった。
しばらくして、紗季は会計を済ませて店を出ていった。
ドアベルが鳴り、その背中が朝の日差しの中へ消えていく。
宗一は眼鏡の脇で揺れる石に触れた。
だが、もう一度覗くことはしなかった。
少なくとも今は、見る必要はないように思えた。
*
それから、しばらくして。
森川紗季は、喫茶店のシャッターを押し上げた。
店が見違えるほど変わったわけではない。
古い椅子も、長年使われてきたカウンターも残っている。朝の店内には、昔と変わらない珈琲の匂いが漂っていた。
それでも、変えたところはある。
入口の看板を見やすくし、ランチにいくつか新しいメニューを加えた。店の写真を撮って、SNSにも載せるようになった。
最初はほとんど反応がなかった。
少しずつ、以前は見なかった客が来るようになった。
昔からの常連客の隣で、若い客がプリンを食べている。
繁盛している、と言えるほどではない。
それでも以前とは、少しだけ風向きが違っていた。
「クリームソーダ一つ」
声が飛んでくる。
「はい」
紗季は背の高いグラスに炭酸水を注ぎ、バニラアイスを載せた。
少し傾いた。
直そうとして、手を止める。
まあ、いいか。
紗季はそのまま赤いチェリーを添えた。
「お待たせしました」
*
その日の夜。
久世宗一は、営業を終えた店の鏡の前に立っていた。
眼鏡の脇から垂れた細いチェーンをつまみ、その先の石を鏡の中の自分へ重ねる。
石の縁で、視界がわずかに歪む。
五十を少し過ぎた男が映っている。
それだけだった。
宗一はしばらく鏡を見つめてから、石を離した。
今日も、何も見えなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
少しでも心に残るものがありましたら、評価やブックマークをいただけると励みになります。




