小さな薔薇のハンカチ~心の中で、そっと好きでいればいい~
同じサークルのナナに、
三角関係の相談で呼びだされた。
強い日差しの中、早足で歩いたせいで、
こめかみに、虫が這うように汗が流れた。
あわててバッグをかき回したけれど、
お守りのように入れていた、
薔薇の刺繍入りのハンカチしか見つけられなかった。
しかたなく、綺麗なレースの縁取りに、
ファンデーションがつかないよう気にしながら、
そっと汗をぬぐう。
『リトル・ルル』というカフェ、ここだ。
「遅い。おそいよー、真緒!」
「ゴメン。ちょっと出がけに用事ができて……」
口の中でもごもごと、ナナに言い訳しながら、
船橋がまだ来ていないことと、
修羅場を演じている相手の女の子に見覚えがないことを、
素早く確認する。
ああ、ナナはもう泣いちゃってるのか。
弱ったな。
正面に座ってナナを睨みつけている相手の女の子も、
目が真っ赤だ。
あたしたちより一つ年上の三年生だと聞いていたけれど、
なんだか幼く見える。
ちょうどよく影をつくってくれる街路樹があるけど――
こういうとき、ほんとは、
カフェの外席より店内のほうがいい。
エアコンが効いているし、
なにより屋外のまばゆい太陽の光は、
すさんだ気持ちの女の子たちの肌荒れが、
ばっちり見えちゃう。
なんだか、とっても気の毒なんだよ。
細くて重い金属の椅子を
ギーギーと音を立てて引き、
なんとかテーブルにつく。
ウェイターに、
早く行って欲しくて、
急いでアイスコーヒーを頼んだ。
「メニューも見んと頼むんやなぁ…」
注文をとった背の高い関西弁のウェイターは、
なぜか不満そうだ。
華奢なあごをつき出してじろじろと、
あたしの顔を見ていく。
たぶん、あたしのことを修羅場に現れた、
『第三の女』だと思ってるんだろうなぁ。
バカだぁ。あたしティッシュまで忘れてる。
もっとも、他人の三角関係に首つっこむほうが、
よっぽど、大バカだけどね。
このあたりは、どこへ行っても同じ顔に当たる。
大学の周りは狭い。
⸻
そう、あのときのあたしも、
バカなことをした。
大学1年の秋、あたしはつきあっていた彼に、
校門の前で派手な蹴りを入れた。
発端はなんてことない話だった。
TVで格闘技を観たあと、
中学生の弟とふざけて真似して遊んでいた
――という話を、彼にした時のこと。
日頃からあたしのことを
『運動神経、悪すぎ〜』とからかっていた彼が、
「そんなの、簡単によけられるし」なんて、
得意げに言い出した。
じゃあ、受けてみなよってことで、
あたしが試しに回し蹴りをしてみたら……
彼の方が運動神経が悪かったみたいで、
見事に当たってしまった。
そして、彼がたまたまふらついて、
たまたま校門の鉄柵に顔面をぶつけた、
結果、
鼻血で血まみれになって、
ちょっとした騒ぎになった。
「手加減するだろう、普通」
そう言って、
急に心の狭さを発揮したこの一言が、
どうやら彼にとって、
ほぼ別れの言葉だったらしい。
そのあとすぐに、
彼がほかの女の子と
浮気していたことが発覚したけど――
わたしにとって彼の"浮気"が、
彼にとってはすでに"心変わり"になっていた。
結局は、
回し蹴りが決定打でふられたってことだ。
あたしは、彼とつきあっていた期間より、
ずっと長い間泣き暮らした。
しかも、
「彼氏に回し蹴りを食らわした女」と、
武勇伝が広まってしまったせいで、
入学以来、
ちらほら来ていた
男子からの『つきあおう』という告白も、
デートの誘いも、ぴたりとなくなった。
だあれも慰めてもくれない、
男っ気のない生活が、
二年の夏休みももう終わりなのに、
まだ、続いている。
ただ、
女の子からの相談だけは妙に増えた。
ふざけてやったあの回し蹴りが、
何を勘違いしたのか、
すっかり彼の浮気男への、
"制裁"ってことになっちゃってて、
やたら強い女って盛られてる。
「なんとかしてぇ~」と、
主に恋愛のことで泣きつかれるんだけど、
なぜか、
女の子の相談って断れない……
八方美人の自分に嫌気がさす。
今日、ナナに呼び出されたのも、
男女の揉め事だ。
同じサークルの、
ちょいイケメンの船橋が手あたり次第に、
いろんな女の子と親しくしていることを知らないのは、
ナナをはじめとする、
"そばにいるだけで彼女のつもり"の女子たちだけだ。
『船橋ガールズ』とこっそり影で呼ばれてる。
あたしの彼の浮気を、
「知ってたんだけど、口止めされてて言えなかったのぉ」と、
申し訳ないのか、
笑ってるのかわからない口調で
告白したのは――
あのときはナナの方だから、女同士って、皮肉だ。
別にあたしは仕切り好きでもないし、
こうして女同士の修羅場に顔を出したって、
ただ、なだめるだけで、ほとんど役に立たない。
自分でもほんとお人好しだよ……
うんざりしながら、
あたしはナナと三年生女子の罵り合いを横目に、
手に握ってる、お姉さんがくれた薔薇のハンカチを見つめた。
⸻
先月、赤ちゃんを連れてお姉さんが家に来た。
もう何年も――それこそ家の敷居をまたいでいなかった、
あたしより5つ年上の姉は、
お父さんが仕事から帰ってくる前に、
そそくさと隣町へ帰っていった。
赤ちゃんの悠介はあたしの初の甥っ子だ。
「真緒ちゃん、悠介にお洋服ありがとうね」
そう言って、お姉さんは荒れた手で、
このハンカチを差し出した。
少しやつれた顔に、そっと笑みを浮かべながら。
「綺麗でしょ。わたしにはもう必要ないから。
真緒ちゃんみたいな若い女の子に、
使ってもらったほうがいいと思うの」
繊細なレース。控えめな、小さな薔薇の刺繍。
お姉さんがずっと大事に持っていたものだって、
すぐにわかった。
⸻
暑い。
薔薇のハンカチで何度も汗を拭く。
船橋は、まだ来ない。
「シンちゃん、どうしたんだろう……」
「シンちゃんと、連絡とれない」
"シンちゃん"と呼んでいるのか……
船橋の彼女だと主張しているふたりは、イラついた様子だ。
そんなの、
船橋が逃げてるに決まってるじゃん。
そう思うけど、女の子たちが怖くて、
口には出せない。
「何かあったのかも……」
「シンちゃん、急に具合が悪くなったとか……」
口々に、なぜか船橋の心配をし始める彼女たち。
あたしには意味がわからない。
あんたたち、泣いてたよね?
「もう、彼の家に行くしかない」
ナナが言った。
ああ、めんどくさい……
泣きたいのは、あたしの方だよ。
「ねえ、ふたりとも。ナイフとか、
その……そういうのは持ってないよね?」
三年生らしき女の子は、
生真面目にこくんと頷いた。
目の真剣さが怖い。
……本当に凶器とか持ってないよね?
――――
船橋の家はこの近所らしいけど、
ふたりとも行くのは初めてだという。
3人で、炎天下の中を歩きながら、
あたしはずっと嫌な予感がしていた。
――大きな一軒家の門の前で、足を止める。
嫌な予感が……当たった。
「船橋って、実家に住んでるじゃん!」
てっきり、船橋はワンルームで1人暮らしだと思いこんでいた。
⸻
「ちょっと待って!
実家に突撃はやめようよ……」
あたしの制止なんて、
まったく聞こえていないらしい。
三年生の女子が、
インターホンに向かって話しかけた。
「はい?」男性の声。
「シンちゃん、リサです!」
三年生女子はリサという名前みたいだ。
……ドアが開いた。
でも、出てきたのは、
"シンちゃん"じゃなかった。
白いシャツを着た、
すらりとした大人の男の人だった。
「シンジ……
弟は、朝から出かけてるけど。
とりあえず、上がって涼んだらいいよ」
汗だくのあたし達に、
涼やかな声で言った。
あたしは、
ただぽかんと、
その人を見つめていた。
(あの人だ。あの人だ!)
どうしよう……
心臓が、
喉から飛び出してきそう。
やさしい顔をしている。
前に会ったときも、そう思った。
この人は、きっとあたしのことなんて、
覚えていないだろうけど。
まさか……船橋のお兄さんだったなんて。
気づかなかった。
ぜんぜん、似てないじゃない。
⸻
船橋のお兄さんは、
あたしたちをエアコンの効いた
広い居間へと案内してくれた。
室内には、
優しくショパンのノクターンが流れている。
「わぁ……なんか、サロンみたい」
けれど、皆、
緊張して笑顔がどこかぎこちない。
あたしたちは遠慮がちに、
ソファに腰を下ろした。
汗が引くのを見計らって、
お兄さんは銀のポットで紅茶を淹れてくれた。
「シンちゃんがわたしの部屋で入れてくれる
お茶と同じ味……」
「シンちゃんが私の部屋でよく聴いてる音楽だわ……」
シンちゃんの"彼女たち"は、お互い牽制しながらも、
少し落ち着きを取り戻したようだった。
でも、あたしの心臓は相変わらずドキドキしている。
「船橋」って、名字だったんだ――
悠也さん。
悠也さんは、
黒光りするグランドピアノに
寄りかかるように立っている。
長い前髪が、昼の光に茶色く透ける。
──ピアノなんて、久しぶりに見た。
お姉さんが家を出ていく前、
ピアノの音が家の中に流れていた頃があった。
お姉さんもショパンが好きだった。
――――
わたしのお姉さんは異母姉だ。
お姉さんのお母さんは、
ママがあたしを妊娠したから出ていった。
お姉さんを置いて。
そのあとママが、お父さんと結婚した。
お姉さんのお母さんを追い出したのは、
あたし。
小さい頃から、ずっと、そう思ってる。
ごめんね。お姉さん。
いまも、ずっと思ってるよ……
お姉さんはいつも静かで、
ひっそりと窓辺の椅子に座って、
家族の団らんの輪に入ってこなかった。
でも、あたしや弟にはやさしかった。
泣きたいくらい、やさしかった。
どんな寂しさや辛さを、その細い身体に
どれほど隠していたのか
……ほんとうにどんな気持ちでいたのか
わかったのは、お姉さんが高校を辞めて
17歳で家を出ていったときだった。
「好きな人と暮らしているの。
ピアノ教室で、
子供の頃から一緒だった人なの」
――その冬、病院から電話があった。
お腹の赤ちゃんが亡くなって、
お姉さんも危ないって。
病院の廊下で出会ったあの人。
痩せてて、さらさらした髪の男の人が、
あたしに言った。
「真緒ちゃんかな?
里緒の妹さんだね」
「お姉さんを、
死なせないで」
彼は膝をついて、
優しい顔であたしの目を見た。
「大丈夫だよ……」
――悠也さん。
ピアノ教室で、お姉さんと一緒だった、
お姉さんの恋人。
……そのあと、お姉さんは悠也さんと別れた。
でも、家には戻ってこなかった。
お父さんは怒ったままだ。
ずっと、いまも。
――――
「あの……ピアノ、弾くんですか?」
あたしがそう訊くと、
悠也さんは少し笑って、
あたしの目を見た。
……その目が、
遠い記憶のどこかと重なる気がして、
あたしは視線をそらした。
「僕はもうずいぶん前にやめちゃったけど……
シンジは、たまに弾いてるよ」
お姉さんと、
同じピアノ教室に通っていた悠也さん。
その頃、どんな風に弾いていたんだろう――
そう思うだけで、胸が少し熱くなる。
「真緒、なんとか言ってよ、この女に!」
呼ばれて、
現実に引き戻される。
ナナと三年生の女の子が、
また言い争いを始めている。
あたしが、
立ち上がった拍子に、
ポケットからハンカチがふわりと落ちた。
まるで自分の意思で、
飛び出したみたいに。
――元の持ち主のもとへ帰ろうとするみたいに。
「君……真緒さんっていうの?」
悠也さんがハンカチを拾い上げ、そう尋ねた。
骨張った指が、薔薇の刺繍をそっとなぞった。
ほんの少しだけ、手が止まる。
その仕草を、
あたしは見てはいけなかった―
そんな気がした。
あたしは頷いて、
彼の瞳をまっすぐ見つめながら答えた。
「これ、"幸せのハンカチ"なんです。
持ってると、幸せになれるって…」
「……君にこれをくれた人は、幸せなんだね」
――この恋を忘れていない……
悠也さんの声は、
そう告げているようだった。
美しいハンカチは、
彼がお姉ちゃんに贈ったものだった。
お姉ちゃんの伏せたまつげ。
痩せた肩。
その姿が浮かんで、胸がちくりと痛んだけど……
言葉はすらすらと出た。
「はい。とっても幸せです。
かわいい赤ちゃんと一緒にいます」
悠也さんは、
今はもう昔ほど長くない
茶色くて綺麗な髪を、
しなやかな指でかきあげた。
「そうなんだね……」
その仕草も、
ほっとしたような、
少し寂しそうな横顔も、
あたしは――お姉ちゃんの代わりに、
一生覚えていようと思った。
⸻
「あんたのお兄さん、本当に素敵な人だよね」
一週間後、あたしは、
なぜか、元凶の船橋と並んで座っていた。
三角関係は、結局うやむやのまま。
「ごめんってことで、奢るから一杯つきあえよ」
船橋が授業のあと、そう声をかけてきた。
気乗りはしなかったけど、なんとなく、
悠也さんの話が聞けたら──
なんて考えて、行くことにした。
待ち合わせは、大学そばの繁華街にある居酒屋。
洒落てる感じじゃないけど、学生にはちょうどいい。
「なんだよ、真緒も兄貴のファンかよ……
あいつ、昔は親に心配かけて泣かせてたんだよ。
今じゃつまんないリーマンだけどさ」
「アメリカ赴任、だっけ……
今はもう、遠いんだね」
「は?遠いか?
アメリカなんてひとっ飛びだろ」
……でも、あたしには、遠いよ。
悠也さんはやっぱり、
遠い人だ。
やだな……これって……失恋?
失恋みたいな感じ?
しんみりしかけたところに、
船橋が立ち上がる。
「もう一軒、行こう」
そんなに高くない赤ワインを、
ふたりですでに二本空けてた。
船橋はすっかり、
酔っばらいの赤ら顔になっていて、
顔だけが取り柄なのに、
台無しだ。
「えっ、まだ飲むの?」
船橋は、やたら腕を回してきたり、
顔を触ってきたりと、絡んでくる。
店を出ると、
彼は案の定ホテル街のほうへ足を向けた。
「ちょっと待って、どこ行く気?」
「いいじゃん、別に……
さっきの続き、ちゃんと話そうよ」
「そっちは、イヤだってば!」
必死で押し返すが、
船橋は酔った間抜け面で
へらへら笑っていても、
意外と力が強い。
そのとき、
背後から声が飛んできた。
「……痴話喧嘩なん?」
振り返ると、
白いシャツの上から居酒屋のエプロンを
さらりと掛けた男が、
にこやかに覗き込んできた。
「違いますっ!」すかさず、言う。
ずうずうしい船橋が、
「しっしっ」と手を振る。
「どないする? 助けたろか?」
その人が、軽い口調で言う。
「はい、助けて! 助けてください!」
「オーケー」
そう言って、
彼は船橋の肩をがしっとつかみ、
ぐいと引き離してくれた。
船橋は「なんだよ」と、
文句を言いかけたけど、
もう完全に足元がふらふらだった。
そのまま、
あたしの手を取って、
男は明るい通りのほうへと連れ出してくれた。
細身なのに街の明かりで、
筋肉のラインがほんのり見える。
「……ありがとうございました」
「どいたしまして。
酔っぱらいの相手は慣れてんねん。
今もバイト中やったからさ」
柔らかく笑っているのを見て、
なんだか少し安心した。
ん?
バイト中?
それに関西弁…
そう思って、まじまじと顔を見る。
「……あれ?
カフェで、バイトしてるよね?
リトル・ルルで」
──そうだ。
この人、あの日カフェで、
女の子同士が揉めてたとき、
こっちをじろじろ見てたウェイターだ。
背が高く、
ラフなジーンズにエプロン姿が妙に馴染んでいた。
「ああ、日曜だけな。
覚えてくれとったんやなぁ。
普段はさっきの居酒屋のホールやってるねん」
ウェイター君が居酒屋にいたのは、
気づかなかった。
「すごいタイミングで、助けられちゃったね」
「偶然……ってほどでもないかもな。
あんたら、
めっちゃ呑んでたから気になってな。
ちょうど休憩はいったから、見に来たんや」
もしかして、
心配して追いかけて来てくれた?
急にお酒が回ったような気がして顔が火照る。
「だけど、あんた酒強いねんな。
あっちの方がふらふらやん」
彼はちょっと笑って、
カフェのショップカードをあたしに手渡した。
「うちのカフェ、コーヒーより紅茶がうまいねん。
おすすめはな、ロイヤルガーデンティー。
二日酔いでもスッと飲めるで、来てな」
「……ありがとう」
知ってるお店なのに、
カードをくれるなんて。
なんだか、ちょっと不思議だった。
夜風がそっと頬を撫で、街灯の明かりが
ふたりの影を長く伸ばしていた。
「ていうか、
あの男と付き合ってたわけちゃうねんな」
「彼なんて……もう、
ずーっといない」
思わせぶりなこと、
自分で言って、ちょっとドキドキした。
「……ああ、あの噂の、
流血跳び蹴り事件以来?」
驚いて顔を上げると、
彼はふっと笑って言った。
「俺、あんたと同じ大学やで。
ウワサほど強い女ちゃうんやな」
──跳び蹴りじゃなくて、
回し蹴りだし。
「俺もバイトばっかでな。
先月、フラれてもうてん」
タクシーのドアが閉まる寸前、
彼は白い歯を見せて笑った。
ウェイター君の姿が小さくなっていくのを、
あたしはずっと見つめていた。
彼は、いつまでも手を振っていた。
⸻
*
薔薇のハンカチが、
バッグの中で小さくつぶやいた。
──心の中で、そっと好きでいればいいんだ。
その声は、
ハンカチの深いところに、
静かに刻まれている。
かつての持ち主が、
今の持ち主の姉が、
何度も、
自分に向かって囁いていた言葉を。
"あの人には、たくさんの可能性がある。
素敵な未来もある。
だけどそこには、私はいない。
私の居場所は、彼の隣にはなかった。
私がいることで起きる、いさかい。
気まずさ。
──そういうものには、小さい頃から慣れている。
さようなら。大切な人たち。
……さようなら、悠也さん。
私は、私の居場所を探しに行こう。
だからせめて、心の中でだけなら
──あの人のこと、好きでいてもいいよね。
一緒にいられなくても、
せめて、心だけは、
そっとそばにいてもいいよね……"
彼女は涙を流さなかった。
たくさんの想いを吸い取った
薔薇のハンカチだけど、
涙を拭く出番は、
とうとう来なかった。
そしてハンカチのささやきは、
新しい持ち主の真緒には必要なかった。
今度の持ち主には、
姉のような秘めた想いなんて縁がない。
ハンカチは、
キャミソールと一緒に
洗濯ネットに入れられ、
洗濯機の中を
不機嫌にぐるぐる回っていた。
洗濯機のランプには
「手洗い」の文字が光っていたけれど、
前の持ち主のように、
ほんとうに手で洗ってはくれない。
想いのこもった特別なハンカチは、
少しずつ、ただのハンカチになっていく。
想いは水に溶け、遠くへ流れていく。
どんどん、
どんどん、
薄まって、
忘却という──海のむこうへ。
⸻
真緒はふと思った。
あのウェイターくんの名前、
聞いてなかったな。
もしかしたら、
電車の中で会うかもしれない。
大学の廊下ですれ違うかもしれない。
でも、偶然を待つより、
今日は日曜日だし──
もらったカードに、
光が小さく反射する。
「リトル・ルルに、一人で行ってみよう」
今回はアイスコーヒーじゃなく、
おすすめしてくれた、
ロイヤルガーデンティー
……頼んでみようかな。
今日も、暑くなりそうだ。
真緒は照りつける太陽に手をかざしてみた。
けれどその手は、
彼女の顔に、ちっとも影を作らなかった。
――END――




