第4話 ナイリザ
駐在員事務所の中に入ると、カビと埃の匂いが鼻を突く。
この建物内にあるのは、数台のノートPCとプリンター、乱雑に積まれた帳簿類、そして旧式の耐火金庫だけ。
隣の空き地には泥だらけのハイラックス(ミドルサイズピックアップ)が停まっている。
それが、この事務所が管理する資産の全てだった。
「ここは君の城だ。好きにしてもらって構わないぞ」
宇田川次長はハンカチで鼻を覆いながら、室内をぐるりと見渡した。
その様子からは、このレベル2最前線の事務所にはさほど足を踏み入れてこなかったように見える。
「君がここにいて、PCを起動させ、ドキュメントの作成やら表計算やらをするだけで大いに意味がある。我が社にとっても、日本にとってもな」
言い方は直截だが、事実でもあるだろう。
俺がこの事務所にいるだけで、「アンカー効果」とやらが発生する。日本の物理法則を持ち込む中継器になる。
各社官公庁まとめて一定数がこのレベル2に常駐することで、相乗効果で、このレベル2における電力が、通信網が、つまりは経済活動が維持されるのだ。
宇田川次長に続いて階段を上る。
2階の明かりが漏れた部屋のドアを開けると、中は手狭な個人事務所といった趣だった。
壁側にはファイルキャビネット、複合機、ロッカーが並び、フロアにはいかにもなスチールデスクとオフィスチェアが数セット。
部屋の端はパーテーションで区切られ、申し訳程度のソファとテーブルの応接セットが置かれていた。
天井には白色LEDの蛍光灯がぶら下がり、エアコンがうなりをあげて雨季の湿度と戦っている。
ふと、部屋の奥のデスクから、気怠げなため息と、ガラスが割れるような音がした。
見ると、ひとりの女が、デスクに突っ伏して舌打ちをしていた。
床にはワンカップらしきガラスの破片と透明な液が飛び散り、むっとするようなアルコールの臭いが立ち上る。
「△××、○×!」
女が一言二言の帝国語を呟くが、最新型のイヤーバッズは反応しなかった。
おそらく何か品のない悪態をついているのだろう。
どういうわけかここ数日は翻訳不能のスラングに遭遇する機会が多い。
女はブラウスの上から事務用のベストを着け、スカートを履いた、どこにでもいる一般職の事務員の装いだった。
しかし、ブロンドの髪をアップにして露出した耳の先端は尖っており、明らかに現地人――エルフであるとわかる。
おそらく年齢も見た目のとおりではあるまい。
女が顔を上げた。
野暮ったいセルフレームの眼鏡をかけ、若干トウが経った雰囲気は、三十代も中ごろに見える。
美しい女、ではあるのだろう。
尖った耳の先まで紅潮させ、酒臭い息をまき散らしていなければ。
「おや、加藤君はこの『備品』が気に入ったようだね。結構、結構」
俺の視線を追った宇田川次長が、ひどく無神経な声で笑った。
「実はこいつはちょっとした出物なんだよ」
声量を落とすそぶりすら見せず、まるで女など存在しないかのように、日本語で話を続けた。
現地人に日本語は理解できないと思っての放言だろうが、侮蔑や嘲弄のニュアンスはトーンで伝わる。あまり隠すつもりもないのかもしれない。
物扱いをされた女は、日本語の会話を訝しんだり、曖昧な追従の笑みを浮かべたりするでもなく、虚空を見るような眼で宇田川を見上げていた。
「なにしろ、今は亡き双陽神聖帝国の宮廷魔術師で筆頭だったらしいぞ。今はわが社の契約社員だがね。
経理については、これに任せておいて問題ない。
言うことを聞かせるのは簡単だし、元は高貴な身分なら妙な病気もないだろう。
まあ、現地妻にのめりこむと変異が進むらしいから、ほどほどに。自己責任で」
下劣だとは思ったが、表情には出さず、後半は聞こえないふりをした。
そこで宇田川次長は、初めて女の方に顔を向けた。
「彼が後任のカトウだ。彼の命令に従え」
帝国語でただそれだけを告げる。
そして女の応答は待たず、振り返り、俺の肩をたたいて言った。
「繰り返しになるが、君の仕事を説明しておこう。
この事務所の維持と、採掘サイトの管理。あるいは、オフィスから現地人との折衝などの依頼もあるかもしれない。
しかし、一番重要なのは『ここにいる』ことだ。
それさえ確実に遂行してくれるなら、多少のことには目をつぶろう」
「承知しました」
俺の回答に満足したようにうなずいた宇田川次長に、行きの足だった社用車のキーを渡す。
宇田川次長はキーを受け取ると、俺の肩を軽く叩いて言った。
「せっかくの異世界だ。楽しみたまえ」
そして、足早に階段を降りていった。
背中を見送ったあと、ほどなく、階下で社用車のエンジン音が鳴る。
あまりにもあっさりとした引継だった。
気を取り直し、室内を振り返る。
そこで、最初に翻訳不能の悪態をついて以後、ひたすら無言を貫いていた女と目が合った。
「ん、んん」
俺はわざとらしく咳ばらいをした。
ヒアリングはイヤーバッズ頼みでも、スピーキングは自前というのが現地でのビジネスのスタンダードだ。
会話のテンポを崩さないためだ。
高度な翻訳が必要な発言は、そもそもする必要がない。
「やり直せ」
「支払わない」
「解約だ」
力関係に物を言わせ、一方的な指示ないし命令をするだけであれば、語彙力は不要だ。
しかし、削りに削られたビジネス用定型文集には、新任の挨拶の例文はなかった。
俺は少し迷った後、知っている単語を総動員して、帝国語で女に話しかけた。
「あー、初めての挨拶です。私が加藤……」
「頭が痛くなるから、そんなへたくそな帝国語を聞かせないで。日本語で結構よ」
女は、頬杖をついたまま流暢な日本語で遮った。
「あと、宮廷魔術師だったころの序列は筆頭じゃなくて『三席』ですから。そこ、間違えないでくれる?」
イヤーバッズの自動翻訳ではない。彼女自身が日本語を喋っているのだ。
喋れるがヒアリングができない人間など存在しない。先ほどの宇田川の話はすべて筒抜けだったということだ。そして、その事実を俺に突き付けている。警告か、矜持か。
「……失礼した。俺は加藤だ」
「さっき聞いたわ。ナイリザよ。よろしく、新しいお飾りの所長さん」
* * *
その後、ナイリザとの間に会話は一切生まれなかった。
あの宇田川次長の強烈な失言のあとでは、何を取り繕っても空しい。
俺はこの職場で唯一の同僚とのコミュニケーションを、明日以後の課題フォルダに放り込むと、黙々とPCを起動させた。
まさか本当に『ここにいる』だけで許されることはあるまい。
引き継いだデータのチェックだけでも大変な作業だった。
主に採掘サイト絡みの資料に目を通していると、月次の産量推移のシートに、「utagawa:産量の低下?」というコメントを見つけた。
宇田川次長が残したその不吉なコメントに、思わずシートを凝視する。
確かに微減が続いているようにも見えなくもないが、そもそも月ごとの個別事情がわからない。
例えば前々月の産量が大きく低下したのはなぜなのか。
ケイブ・シャークにでも襲われたのか、労働争議でも起きたのか。
そこすらわからない俺が月平均を見比べたとて、意味がないようにも思える。
いずれにせよ、この限られたデータだけで結論を出すことは困難だ。
だが、本当にミスリルの産量が低下していたらどうなるか。
現地でのミスリル採掘事業は、ヤシマの新規分野の異界事業の中でも、本業に近い位置づけだ。
レベル1のオフィスでは、得体の知れない事業が数多企画されては消えていくのを目の当たりにした。
あのうち、一部が物になったとしても、異界進出来一貫して継続しているミスリル関連の取引規模を超えることはあるまい。
まずは、低下傾向に裏付けはあるか、それは将来も継続するのか。
いずれにせよ調査も確認も必要だ。
前任者が大きな爆弾を残していったことには違いがない。
とはいえ、これも今考えても仕方がないことだ。
俺はもう一度、脳内の明日以後の課題フォルダを呼び出し、「産量の低下?」のメモをそこに放り込んだ。
幸い、明日は採掘サイトで顔わせの予定だった。否応なしに現場を見ることになる。
そうしていくつかの処理を終えたところで、窓の外が暗くなっていることに気づいた。
顔を上げると、ナイリザの姿はなくなっていた。
そういえば、夕方の五時くらいに「あー」とか「うー」とか文句のような唸り声を上げながら、上着を羽織って千鳥足で出て行ったような気がする。
あれは退勤だったのかもしれない。
そろそろ今日の報告書だけ作成して終わりにしよう。
そう思って引き継ぎデータを開いたところで、フォーマットがないことに気づく。
宇田川次長は報告を受ける側の人間であり、しかも多忙だった。
おそらく報告書を作成したことはなかったのだろう。
諦めて、白紙のWordファイルを開く。
まずはタイトルが必要だ。
何も考えず、適当に表題をタイピングしていく。
「異世界出張記録」
変換を確定させた瞬間、乾いた笑いが漏れた。
まるで出来の悪いライトノベルのタイトルだ。
それに、「出張」とは、帰りの切符を持っている者だけが口にできる言葉だろう。
最初にゲートを潜ったときは、「長期出張」だと言われていた。
ひょっとしたら、このレべル2赴任も「長期出張」で処理されているのかもしれない。
しかし、それは本社の誰かの都合でしかない。
人事の帳尻合わせのための建前だ。
俺はバックスペースキーを押し、その表題を消去した。
そして、淡々と打ち直す。
『引継業務完了報告書』
これでいい。
日本の、当たり前の業務と変わらない顔で、当たり前に済ませる。
それ以外は求められていない。
そのまま、引継の内容を、簡潔に、当たり障りない表現で打ち込んでいく。
本文は数行で終わったが、構うことはない。
誰も読みはしないだろう。
「……業務完了」
誰に聞かせるでもなく呟き、エンターキーを叩いた。




