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第3話 駐在員事務所

 翌日は、朝から雨が降りしきる嫌な天気だった。

 雨季特有のむせ返るような空気の重さがただただ不快だ。


 合同宿舎の自室で、俺は黙々と出発の準備を整えていた。

 ボストンバッグに詰め込んだ手荷物は、我ながら驚くほど少ない。数日分の着替えと、洗面用具、それに胃薬。

 レベル2での「常駐」が始まろうとしているのに、まるで一泊二日の国内出張のような身軽さだった。


 ふと、殺風景な机の上に視線を落とす。


 そこには、異世界行きが決まったときに支給された『異界特区渡航予定者向け 異世界安全講習ハンドブック』が置かれていた。

 何度も読み返したせいで、表紙はすっかりへたっている。


 手に取り、パラパラとページをめくると、「はじめに:選ばれた皆さまへ」という仰々しい見出しが目に飛び込んできた。


 地球からこの世界へのゲートを潜り、現地での活動が許されるのは、世界間の格差に対する高い耐性が確認された者だけだ。

 だが、「選ばれた」という昂揚感は記憶にない。

 むしろ、振り分けられた、レーンに乗せられたという直感があった。

 定期健康診断のあと、人事部に呼び出されていくつかの書類にサインをさせられ、親会社の人間との面談が組まれた。

 いわく、異世界への切符を手にできる得難い体質が判明した、ぜひ親会社に転籍してプロジェクトに参加して欲しい、と。


 筑波の山奥に異世界へのゲートが開いた。ニュースで流れたのは随分昔のことだ。当時、多くの人間は熱狂した。

 しかし、二年経ち三年経ち、時折CGのような動画が流れてくるばかりで、魔法が普及することも、動物園にドラゴンが迎えられることもなく時が過ぎた。

 多くの人間の中では、自分の生活には無縁の、文字通り遠い世界の出来事として、海外の紛争や宇宙開発のニュースと同じようなカテゴリに整理され終わっていた。


 そこに行け、という。

 元の勤務先に特に愛着はなかった。かといって、親会社への転籍にも魅力は感じなかった。

 だが、提示された手当は破格だった。全力で抗う気が失せる程度には。


 いくつかの付箋が貼られたページで手が止まる。


「異なる世界の技術・物質が持ち込まれたことで……生じる矛盾を……世界が解消しようとする働き」

「長時間の暴露を継続した場合……人体の……不可逆的な変異が起こる」

「皆さまの一人一人が……『生きた中継器』なのです」


 無味乾燥な言葉の中に混じる不穏な匂いの一か所一か所に付箋が貼られていた。

 いつかはレベル2への常駐が命じられることを、心のどこかで予期していたのかもしれない。


 多くの政府のガイドラインや解説がそうであるように、

 どれだけ目を皿のようにして見返したところで、ハンドブックの中に答えは書いていない。


 最後の方のページで付箋だけでなく、赤のボールペンでアンダーラインが引かれた箇所があった。

 自分で引いたのか、研修のときに引かされたのか、思い出せない。


「ステージ3:現地化(不可逆期)」

「完全にオーク、エルフ、ドワーフなどの現地種族へと変異」

「ゲートの使用は認められません」


 無機質な明朝体で(つづ)られていた。

 認められないとはどういうことか。

 日本へのゲートを潜れなくなった後、どうなるのか。

 昨夜壁越しに聞こえた声が、ふと耳の奥に蘇る。


 俺はハンドブックを閉じ、バッグには入れず、そのまま机の上に残して部屋を出た。


 * * *


 オフィスに出社すると既に始業間近の活況があった。

 世界中どこに行っても、日本人は始業時刻を守る。別の世界であってもそれは変わらない。

 俺もその一員だ。


 レベル1のオフィスは、ヤシマ・コーポレーション金属資源部門異界資源事業室直下の地域統括拠点だ。

 手狭なワンフロアをさらに小さくパーテーションで区切り、百人弱の人員がひしめき合う。


 フロアを行き交うのは20代を中心とした若い担当者が多い。

 長くても1年で入れ替わるバックオフィス人員は、本社でも花形部署だと聞いたことがある。

 「回転要員」特有の、どこか浮き足立った空気が漂っている。


 フロアの端にあるホワイトボードに目をやると、俺の欄にはただ「出張」とだけ記載されていた。


「あ、加藤さん。おはようございます!」


 不意に、若い女性社員が小走りで近づいてきた。総務か経理の担当だろう。


「その荷物、また出張ですか?本当にお疲れ様です!」


 無邪気な労いの言葉だった。

 その直後、彼女の背後で先輩らしき社員がそっと袖を引いて何かを耳打ちしたようだった。

 すれ違った後、彼女は一度だけこちらを振り返り、そのまま足早に立ち去っていた。


 無理もない。帰還不能のリスクが跳ね上がる「レベル2常駐」を命じられた人間など、このオフィスでは完全に()れ物扱いだ。


「行こうか、加藤君」


 背後から声をかけられ振り返ると、宇田川次長が立っていた。


 次長に付き従ってオフィスを通り抜ける。

 行き交う従業員たちは、宇田川次長が通れば道を開けて会釈する。


 彼はこのオフィスの統括責任者だ。

 出世街道に乗っている、と言っていいのだろう。

 だが、責任者である以上、現場に欠員が出れば、40代半ばの次長自らがレベル2に出張ってでも、その穴を埋めなければならない。

 少なくとも次の人間が見つかるまでは。


 * * *


 レベル1の検問を抜けると、ほどなくしてアスファルトは途切れ、レベル2の泥濘んだ馬車道に切り替わる。

 雨がフロントガラスを叩く中、社用車を走らせる。


三島みしまくんは自主退職。簗瀬やなせくんは休職」


 後部座席で腕を組みながら、宇田川次長が唐突に口を開いた。


「運用課長も駐在員も空席のままだ。統括責任者である私が、レベル2の駐在員事務所や採掘サイトの面倒まで見るのは、流石に限界でね」


 宇田川次長はバックミラー越しに俺を見た。


「君に一部の決裁権を下ろす。そのための『課長代理』の肩書きだ。部下をつけてあげられないのは心苦しいがね」


「……承知しています」


「加藤君。レベル2の駐在員事務所に駐在するということは、あの無法地帯でヤシマの顔になるということだ。現地人から見たら、日本の商社マンなんて王侯貴族と同じだ」


 フロントガラス越しの景色は、既に地球のそれとは大きく逸脱していた。

 捻じれた巨大なシダ植物のような灌木(かんぼく)のシルエットが、雨霞(あまがすみ)の中に浮かび上がる。


「私はね。君を評価しているんだよ」


 宇田川次長の声が、車内の雨音に混じる。


「君と一緒に転移した同期は、今何人残ってる? 適合できない人間はメンタルをやられるし、適合し過ぎる人間は変異しかねない。

 しかし、君の耐性評価は1年経っても極めて優良だ。不思議だね。最初の検査の数値は、誰も似たり寄ったりなのに」


 次長はふっと息をつき、バックミラーから顔を逸らした。

 窓の外を眺めているように見えるが、今さら現地の悪趣味な植生に興味を持ったわけではないだろう。


「不適合も過適合もしない。君は『アンカー』として非常に優秀だ。それはレベル2の最前線では一番の強みになる」


 いつの間にか道は石畳に切り替わり、かつて存在した帝国の、首都であった街並みが眼前に迫ってきた。

 レベル1のオフィス群から目と鼻の先だが、景色はまるで違う。


 第一波の自衛隊が「偶発的接触」の際に放った砲撃で大破し、修復の予定もない外壁。

 崩れた隙間からのぞく、漆喰(しっくい)と木の薄汚れた建物群。

 遠く街の中心部、丘の上に立つ花崗岩の城は、辛うじて往時の威容をとどめつつも、まるでミニチュアのようにも見える。


 やがて車の速度を落とし、街門を(くぐ)った。


 帝都の三つの大門のうち、レベル1側の東門を抜けた先が日本租界だ。

 現地様式の漆喰壁とプレハブが入り乱れるモザイクのような街並み。

 ビニール傘を差したビジネスマン。

 頭の上に籠を乗せ、酸性雨に塗れた果実を売り歩くゴブリン。

 通行人たちの間を縫うように徐行して事務所に向かう。


 初めて行く場所だが、現在位置が瞬間移動を続けるナビをもってしても迷うような距離ではない。

 ヤシマの駐在員事務所は、門の近く、つまりはレベル1に近い一等地にある。


 角を右折したところ、ナビのルートの終点にある二階建ての建物が見えた。

 どこにでもある現地風の様式の建物だ。外観上階数がよくわからないつくりも現地風といえる。

 しかし、無人のはずの建物の、二階らしき窓のブラインドの隙間からは、白色LEDの光が漏れていた。


「現地スタッフでもいるんですかね」


「うん? ああ」


 俺の問いに、宇田川次長は二階を見上げながらつぶやいた。


「そうだな。『例の』がいたか」



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