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白銀の竜は調律師を離さない  作者: 絹ごし春雨


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2/2

後編


 塔が崩れた。


 セラフィオンの足元から、細いひびが音もなく走った。


石片が落ち、壁が軋む。

それでもフィーネは倒れない。


しっかりと握られた手に、繋ぎ止められていた。


セラフィオンの指が、逃がさぬように絡んでいる。

その温度が脈の奥まで届いて、フィーネの胸が震えた。


破片が弾けるように飛び散る。

鋭い石の欠片が、刃のように宙を走る。


けれど――


フィーネの周囲だけ、風が巻いていた。

透明な壁に守られているみたいに、破片が触れずに弾かれていく。


(……守られている?)


理解よりも早く、感じた。


セラフィオンの力だ。

彼が無意識に広げた竜の結界。


その中心に、自分がいる。


崩壊の轟音の中で、世界の終わりかのような中心で、彼の手だけは、静かだった。離すつもりなど、欠片もない。それがフィーネを縫い止める。


「フィーネ、こちらへ」


瓦解する床を踏み越えて、セラフィオンは彼女を引き寄せた。

倒れゆく塔の中央へ。

まだ立っている唯一の場所へ。


胸に抱き寄せられ、息が詰まる。

だがその温もりは、恐怖ではなく――甘い。


……どうして。どうして、こんなに。


 塔が沈み、階層が砕け落ちる。

天井が裂け、青白い光が降り注ぐ。


セラフィオンは瞬きもせず、ただ彼女を守るように立っていた。

腕の力は迷いも揺らぎもない。

まるで“世界が敵になっても、この人だけは失わない”と言っているみたいに。


「怖れなくていい。私がいる」


落ちていく塔の中、

その声は、まるで奇跡のように静かだった。


フィーネの胸の奥が、きゅっと狭まる。

涙が、また溢れそうになる。


(……どうしてあなたは、こんなにも優しいの)


世界が砕ける音の中で、

二人だけが――静かに繋がっていた。



 塔が完全に沈黙したあと、風だけが残った。

崩壊の余韻を払うように、セラフィオンの指がそっと離れる。


ほんの一拍。

彼の瞳が揺れ、次の瞬間には、白い光が脈打つ。


竜の姿へと還る気配――

その変化は爆ぜるようでいて、どこか祈りめいていた。


光が収まったとき、そこには巨大な白銀の竜がいた。

翼をひらくたび、風が柔らかく反転し、砂埃が遠くへ流れていく。


……綺麗。


胸の奥がぎゅっとなる。

恐れではない。

別れの気配を、身体が勝手に感じ取ってしまうだけ。


竜は静かに伏せ、フィーネの前に喉元を差し出した。

乗れ、と言うように。


「……はい」


指先がかすかに震えていた。

それでもフィーネは、その白銀の鱗に触れ、そっとまたがる。

温かい。心臓の音が、竜の背骨を伝ってくる。


次の瞬間、地面が遠ざかった。

翼が夜気を切り裂き、国境へ向けてまっすぐ飛ぶ。


高さが増すごとに、胸の奥が締めつけられる。

風が痛いほど冷たく感じるのは、涙のせいだとわかっていた。


セラフィオンの意識が、背中越しに寄り添ってくる。

“怖くないか”

そんな静かな問い。


……怖くありません。あなたがいるから。


だけど声にはできなかった。


やがて国境線が見えた。

黒い山脈が長く伸び、深い谷が境界のように開いている。

そこを越えれば、もう戻れない。


フィーネは、そっと竜の首に触れた。


「……ここからは、私は行けません」


言った瞬間、自分の声が小さく震えたのがわかった。


「セラフィオン様。あなたは、行って。私は……国に逆らう者になります。あなたの竜としての立場を奪ってしまう。一緒にはいられません」


言葉にするたび、胸の奥で何かが剥がれていく。


「だから……ここまでで、十分です。あなたに――ここまで連れてきてもらえたから」


風が止まったように感じた。


セラフィオンの巨大な身体が、わずかにこわばる。

竜の心臓の鼓動が早くなるのが、身体越しに伝わった。


フィーネは、微笑んだ。

消えてしまいそうな、細い笑みで。


「ありがとう、セラフィオン様。

私……あなたを調律できて、あなたに会えて、幸せでした」


風が頬を撫で、涙を攫っていく。


国境はすぐそこにあった。



 セラフィオンは返事の代わりに、翼を大きく傾けた。

風が巻き上がり、森の樹々がざわめく。


次の瞬間、竜は国境を越えず、反対に降下した。


「……え?」


フィーネが息を飲む間に、白銀の巨体は森の奥の小さな丘へ着陸する。

静かな場所だった。人の気配も、国の境界のざらつきもない。


大きな影がきしむように折れ、白い光が差し込む。


竜の姿が、ほどけるように人型へ還っていく。

光が消えたとき、そこに立っているのは――

息を荒げ、何かを押し殺したままのセラフィオンだった。


そして、落とされた言葉はーー


「……行かせない」


その声音は怒りでも命令でもなかった。

胸の奥を焼くような、切実なひとこと。


「セラフィオン様……?」


フィーネの声は細く揺れ、困惑と痛みに染まっていた。



セラフィオンは一歩、彼女に近づいた。

足音が、草を柔らかく押し沈める。


「私が……何のために、ここまで来たと思う?」


淡い風がふたりの間を抜ける。


フィーネは、自由になるためでは、と言おうとして、

しかし彼の目を見た瞬間、喉が震えて声が出なくなった。


愛しいものを見る目。

手放す気など欠片もない目。

執着と懇願、そして仄暗い覚悟が混ざった、深い深い眼差し。


どこにも逃げ場がない。真っ直ぐな瞳。


セラフィオンは一度、ゆっくりと息を吸い込む。




「私は――お前に愛を告げるために来た」


空気が震える。

フィーネの胸の奥が、痛いほど熱くなる。


セラフィオンは彼女の手を取った。

その手は、離す気などどこにもない。


「フィーネ。私と生きろ」


森の静けさの中、彼の声だけが確かな現実だった。


「……生きてくれ。

お前をひとりで死なせるために、私は逃れたのではない」


その言葉は祈りであり、命令であり、告白だった。


そしてフィーネは――息さえ忘れて、彼を見つめ返した。



 フィーネの心が泣いている。それは、痛みではなくーー歓喜だった。


調律によって深く繋がった心が、今、確かに満たされる瞬間。彼女は理解する。



もう、戻れない。彼女もまた彼を愛していることに気づいてしまったから。




 国境を越えた先の草原は、季節の色を抱いてゆっくり揺れていた。

遠くには小さな町の灯り。近くには、静かな風と、ふたり分の足音だけ。


「ここ、綺麗……」

フィーネが呟くと、隣を歩くセラフィオンは小さく笑った。


「お前がそう言う場所は、たいてい私も気に入る」


「ふふ。それ、ちょっと嬉しいかも」


 夕暮れの名残が空に残り、草の緑を薄く染めている。

竜で飛ぶ旅も速くて楽しかったけれど、こうして並んで歩くのも悪くない。

歩幅が合わないと心配されるけれど、彼はいつのまにか、ちょうどいい速度で歩いてくれるようになった。


「セラ、今日の宿はどこにする?」

「川の近くに、小さな村がある。湯が出るらしい」


「……湯! ……ねぇ」


「なんだ」

最近、彼はよくこうして笑う。

以前はもっと硬い、触れたら壊れそうなほど真っ直ぐな瞳をしていたのに。


「……一緒に入る?」

頬を染めて顰めた声で言うと、セラフィオンは息を呑んだ。

「……いいのか?」


「……それ、照れてる?」


「照れていない」


ほんの少しだけ早足になったのが、答えのようで。

フィーネはこっそり笑いながら、その背に追いついた。頬は赤いままで。


風がふたりの間を抜けていく。

ふわりと髪が揺れ、その端をセラフィオンが何気なく指でそっと払った。


「……あ」

「前が見えないだろう。そのまま歩くと転ぶ」


「うん、ありがとう。……ねえ、セラ」

「なんだ」


「こうやって旅ができて、よかった」


「……ああ。私もそう思う」


言葉は短いのに、胸の奥がじんわりと満たされる。

恋とか愛とか、言葉にしなくても、分かってしまうくらい近くて、あたたかい時間。


あなたと一緒にいられてよかった、が胸に積もっていく。


草原の向こうで、町の灯りがだんだんと近づいてくる。

フィーネはその光を見つめながら、小さく笑った。


「明日はどこへ行く?」

「北の湖もいい。陽が昇ると、水が金色になるらしい」

「見たい、それ」


「じゃあ、連れていく」


約束の言い方が、いつだって自然で優しい。

それだけで胸が温かくなる。


ふたりの影が寄り添うように伸びる。

世界は広くて、まだ知らない景色ばかりでーー

でも、隣に彼がいるというだけで、どこへでも行ける気がした。


これから先の時間がどんなものでも、きっと大丈夫。


夜の風に吹かれながら、ふたりは並んで、ゆっくりと灯りの中へ歩いていく。それは明日も、明後日も。明日もここへーーその約束が形を変えていく幸せを噛み締めながら。

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