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白銀の竜は調律師を離さない  作者: 絹ごし春雨


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前編

 それは、盟約だった。


まだ人と竜が、

互いを理解しようとしていた頃の——

ほんの短い春のような時代。


力ある者と弱き者が手を取り合う。

そのために、竜は人型を選んだ。

声を持ち、言葉を持ち、

人間の目線に降り立った。


ほんの少しでも、世界を共に見られるように。


だが、季節は変わる。

盟約はやがて“都合のよい枷”となり、

王国は竜の力を当たり前のように求め、

その存在を“資源”へと変えてしまった。


長い長い歳月の中で、

記憶はひび割れ、

色を失い、

温かかったはずの日々さえ

霧の向こう側に消えていく。


いつからだろう。

竜は“守る理由”さえ失った。


契約はもう切れている。

とっくに、その鎖は力を持たない。


だが竜は動かなかった。

動く理由がなかった。


生きるという行為が、ただ疲れてしまった。

息をして、世界を見て、

人の儚さに触れては喪失を繰り返すことに、

終わりのない倦怠が積もっていった。


閉じ込められているのではない。

閉じ込められていれば楽だっただけだ。


そして、何もしないという選択は、

彼にとって唯一残された静けさだった。



 薄青の魔術灯が揺れずに立っている。

ここは、500年続く、竜の残響を整える、静謐な部屋。


その中心に、今日もルベリアが立っていた。フィーネはそれを扉の外で控えて待っていた。


いつもの位置。

いつもの魔術具。

いつもの時間。




 ルベリアは晶石の上に手をかざす。

緊張も期待もない。

ただ、“また今日もやるだけ”。


「……今日も行きますよ。面倒くさいなぁ」



調律とは本来、竜の沈黙と魔の呼吸に耳を澄ませる作業。

だが彼女は、手慣れた家事を片づけるように魔力を流した。


その魔力は、

形は正しいのに、

心の形はどこにもない。



晶石がぐっと冷えた。


魔術具は決して暴走しない。

だが、微かに、

「受け取らない」

という意思を示す。光が鈍く明滅する。


ルベリアは気づかない。


惰性のまま調律を終えようとする。


「……はい、終わり。これぐらいで──」


その瞬間。


塔の奥に眠る竜の意識が、

ゆっくりと、浮上した。



 龍は揺蕩っていた。

長い眠りの底。


魔力の波は常に聞こえている。

今日の調律の音も、何度も聞いたはずのもの。


──けれど。


今日は“空虚”だった。


《……無礼だ》


怒号ではない。

ただ、静かに沈んだ声。


竜は“心を置き去りにした調律”を嫌う。傲慢だ。

命の音を“作業”にされることほど、侮辱はない。


その拒絶が塔中に響いて──

魔術具がすべて沈黙した。


部屋の温度がひとつ落ちた。



 扉の外で控えていたフィーネは、

背筋に淡い冷気が走り、顔を上げた。


「……今の、音……?」


竜の“呼吸”が途絶えた。


いつもは微かに振動している魔術具の音が、

完全に消えていた。


たった一つの惰性が、



ルベリアは沈黙した魔術具を前に、首を傾げる。


「……あれ? 今日は調子悪い?」


自分が心を込めなかったことなど、気づきもしない。


塔の中は静か。

派手な爆発も悲鳴もない。


ただ──

音が、世界ごと止まっていた。


それは、竜が「拒絶した」という印。



 塔の調律具が完全に沈黙している。

音のない部屋は、息をひそめた湖の底のよう。


フィーネは喉の奥がきゅっと細くなるのを感じた。


――こんな静けさ、今まで一度もなかった。


彼女はルベリアに声をかけようとしたが、

先輩は魔術具の不調に首を傾げるだけで、危機を察していない。


その温度差が、余計に胸をざわつかせる。


塔の底が呼んでいる。


理由は説明できない。

ただ、心がそちらへ引きずられていく。


フィーネは気づけば、足を地下への階段へ向けていた。



 階段を降りきると、古い石の匂いが鼻をかすめた。


鉄格子の前に立つと、

ひんやりとした空気が、指先の温度をそっと奪っていく。


奥の闇が、わずかに揺れる。


息を呑んだフィーネの胸がドクンと跳ねた。


「……目覚めてる……?」


自分でも気づかないほど小さな声。けれど、その一滴の音に、闇が反応する。


淡い白い光が、地下室の奥でふっと灯る。


セラフィオンの瞳だ。


彼は人の姿を取っていたが、人ではなかった。

沈んだ湖面のような、冷たくはないが温かくもない光。


その視線が、ただ静かにフィーネを捉えている。


足が震えた。


本来なら、竜は恐ろしいもののはず。


でも目の前にいるのは……


“静寂”。


感情が削ぎ落とされた、底の底の意識だけがそこにあった。


フィーネは鉄格子に近づき、細い隙間に手を伸ばす。


その向こう側の空気は、

霧をすくうように無色で、

でも確かに“存在の重み”だけがある。


「……大丈夫、ですか……?」


声は震えていたが、

不思議と逃げようとは思わなかった。


セラフィオンの瞳に、

ひび割れた光がかすかに揺れる。


「あの……手を」


「私に調律させてください」


自分でも突拍子もないことを言っているとは思う。不興を買えば殺されてしまうかもと。


でも、

「あなたは…体調が、悪そうだから」


フィーネの心配そうな瞳に揺れる瞳を見つめ返し、一拍の間。その後、セラフィオンは手をゆっくり鉄格子の間に伸ばした。



 鉄格子の向こうで差し出された少女の手は、どこか澄んでいて心配の匂いだけがした。魔力を纏っていなくても好ましい気配。


《──なぜ、逃げない》


竜は心で問う。


恐怖している。震えている。それは間違いない。

けれど、少女は逃げなかった。


心を置き去りにした調律の音を拒絶した。人間の醜悪さ。透けて見えるやってやっているという傲慢さ。だが今、目の前にあるのは その対極をしていた。


久しく忘れていた。人が手を取り合えるものであったという感覚。


セラフィオンの胸に

ぽたり、と音のようなものが落ちた。


それは怒りでも拒絶でもない。

“あったはずなのに忘れていた感情“を揺らす。


白い霧のように感じていた指先を、鉄格子の隙間へとゆっくり伸ばす。




触れてみたいと思ったから。



 鉄格子の隙間から伸ばされたセラフィオンの手に、フィーネの呼吸がひゅっと細くなる。まさか応えてくれるなんて。


触れていいのだろうか。

この人に私が触れても赦されるのだろうか。


けれど――。


その指先は、確かに“求めて”いた。



ただ、そこに手を置いてほしいと

ひどく静かな声で言われたような気がした。


恐れからでもなく、敬意からでもなく、フィーネはそっと、自分の掌を重ねる。


フィーネの胸に音が鳴る。


か細いけれど、確かに存在を告げる音。手がじんわりとあたたかくなり、竜へと伝わる。


……あ。


これはたぶん、セラフィオンの心臓の音。そして、これは自分の鼓動の音。


竜の鼓動はもっと荒々しいものだと思っていた。

けれど、そこにあったのは湖底に落ちる小石のような、ごく小さな波紋で。フィーネの胸が切なさに胸を掴まれたようにきゅっと苦しくなる。


フィーネの指先に、淡く冷たい力が触れる。


痛みも痺れもない。

ただ、深い深い水の底に触れたような感覚。


「……お加減は、良くなりましたか?」


自分でも驚くほど柔らかい声が出た。


セラフィオンの瞳に揺れた光が、かすかに近づく。


揺らぎ。

それは、言葉になる前の感情の気配。


《──人よ。なぜ、お前は》


問いかけが、音にならないまま落ちてくる。




「調律を、続けますね」


囁いた瞬間、

セラフィオンの指先がほんのわずか、フィーネの掌を押し返した。



――戸惑っているかのような。


そんな微細な反応ですら、フィーネには伝わった。


だから彼女は、近づいた。


掌をそっと包み込むように角度を変え、

魔力ではなく、ただ、体温を静かに流し込む。


自分の鼓動が、鉄格子の向こうへゆっくり落ちていくように、

フィーネの鼓動が、セラフィオンの静寂に沈み重なっていく。


それは、


閉ざされていた竜の胸に、

かすかな亀裂が入った瞬間。


痛みではなく――

“感情が息を吹き返す音”。



鉄格子越しの手の温度が、じわりと胸の奥へ染みていく。


人間の体温など、本来ならば竜にとって“風の触れた跡”。

けれど今、セラフィオンの内側では、ひどく小さくて、ひどく柔らかいものが蠢いている。


《──なぜ、離れない》


それは疑問ではなく、戸惑いの色。


人は竜に触れれば怯える。

竜が触れ返せば、なおのこと逃げる。

それが自然で、それが正しいはずだった。


なのに、この少女は――。


押し返したはずの指先に、

もう一度そっと重ねてくる。


拒まれたと受け取らなかった。

むしろ、傷つけぬようにさらに丁寧に触れてくる。


まるで、壊れものを扱うように。


セラフィオンの胸の奥で、静かな“痛み”が走る。


それは怪我でも衰えでもなく。

ただ、ずっと使われていなかった何処かが、

ようやく息を吹き返そうとした時の痛み。


《……人よ。お前のその音は、なぜ私を癒す?》


少女の鼓動が、鉄格子を越えて響く。

弱い。そして儚い。けれど迷いはない。


その音が、己の静寂に触れるたび、

湖底に沈んでいた水がふわりと掻き乱されていく。


セラフィオンは、気づかぬうちに、一歩だけ前へ進んでいた。


鉄格子に近づきすぎれば、相手を威圧してしまう。

竜として長く刻まれてきた戒めがある。


それでも――止まれなかった。


少女の手のひらから伝わる温度が、

まるで“呼ばれている”ように思えたのだ。


「……あなたは、苦しそう」


フィーネの声が、乾いた空気のなかに小さく落ちる。


その言葉は、

セラフィオンの胸の亀裂にすっと入り込んでくる。


眉根を寄せ、まるで同じ人間を心配するような、ただ真っ直ぐな言葉。


竜は、ゆっくりと目を伏せた。


初めてだった。

今は衝動がある。


自分以外の存在に、

「触れたい」。


《人よ……》


言葉にならない囁きが、胸の奥でかすかに震える。


フィーネの体温は、なおも彼の静寂に沈み、

じんわりと広がっている。



“もう二度と動かないと思っていた心臓が、

ゆっくりと形を取り戻していく。


セラフィオンは、自分の中で何が起きているのか理解できず、

ただただ、少女の小さな鼓動に耳を澄ませ続けた。



 フィーネの鼓動が、波紋のように広がってゆく。


それは人間の命の音にすぎない。けれど、

セラフィオンの胸の奥では、まるで

“失われた何かを探し当てた”かのように

静かに、しかしはっきりと響いていた。


手のひらに落ちる温度は弱い。

竜の持つ熱に比べれば、あまりにも儚い。


だが――。


その儚さが、なぜか胸に刺さる。


《……私は、これを失いたくないと思う》


胸の亀裂から、熱がじわりと滲む。

生まれたばかりで頼りない、小さな熱。


少女の手が、そっと包むように触れている。

壊さないように。怯えさせないように。

それでも離さないという意志だけは揺れていない。


セラフィオンの指先が、かすかに動いた。


ほんのわずか。

呼吸にも満たない揺れ。


その動きにフィーネがわずかに息をのむ気配がして、

セラフィオンは動きを止めかけ――

けれど、


鉄格子越しに触れたまま、

ゆっくりと、恐る恐る、

少女の指に自分の指を絡める。


握る、というほど強くはなく。

ただ、“返す”。優しい動きだった。


触れられた温度に、

自分も触れ返すという、ごく小さな選択。



フィーネが小さく震える。

それは恐怖ではなく、驚きと――安堵の気配。


竜の胸に、またひとつ波が落ちる。


《……人よ。お前は、なぜ》


そこまで問えば、

その先に続く言葉は言葉にならず、静寂に溶けた。人を美しく感じること。遥か彼方に捨て去った感情が芽吹く音がする。


握り返した手は温かく、

その温度が自分の内側の冷たさを、

ほんの少しだけ溶かした気がした。


触れ返すことが、

こんなにも“痛いのに、満たされる”ことだと知る前には戻れそうになかった。





 翌日の調律の時間。

いつもと同じはずの塔の空気が、どこか張りつめていた。


魔術具の灯りは一応ともっている。

しかし──振動がない。


まるで石のように、沈黙している。


(……やっぱり。昨日から、竜の“音”が戻っていない)


隣でルベリアは、

ぱっと見には昨日と何も変わらない顔で魔術具に手をかざす。


だが。


(気づいている……)


フィーネには分かった。

先輩は魔術具の異変を、誤魔化そうとしている。


光の強さをごく自然に調整し、

振動の欠落を気づかれぬようさらりと流している。


半歩の隠蔽。

けれど、それは確かに“隠している”動きだった。


理由も見えている。


――昨日の沈黙は、調律の失敗。

竜が拒絶した。

その事実を報告すれば、評価は落ちる。


だから隠す。


フィーネは胸の底がひんやりと冷たくなった。


(……どうして、そんなことを)


竜の声が沈むということは、

竜の“心”が閉ざされたということ。


本来なら重大な異変として上層部に報告すべきなのに、

ルベリアはあくまで自分の名誉を守るためにそれを伏せた。


「今日も私がやるから。フィーネ、見ていて」


いつもの調子。

自信に満ち、揺らぎもない。


だが、魔力が晶石に触れても、

竜の気配は返ってこない。


呼んでも呼んでも、沈黙。


フィーネの胸は重くなる。


(……昨日、私が触れた時だけは)


鉄格子の向こうの、ひび割れた沈黙が、

確かに揺れたのだ。


その記憶が、胸をかすかに熱くする。


視界の端で、ルベリアがわずかに焦りを滲ませるのも見えた。

それでも彼女は認めない。


「今日は……ちょっと調子が悪いのかも。ね、また後で」


笑って誤魔化す声が、どこか乾いて聞こえた。


フィーネは小さく頷き、

しかし胸の奥で決意が固まっていくのを感じた。


(……もう一度、行かないと)


竜の沈黙を、このままにしてはいけない。


あのひとを、

あの静かな瞳を、

あの“触れ返してくれた手”を、

あのままにしておくことはできない。


調律後の片付けを終えるふりをしながら、

フィーネはそっと視線を階段の方へ向ける。


塔の地下が、静かに呼んでいる。


――そんな気がして。


 夕刻。

塔に人の気配が薄くなった頃、

フィーネは小さく息を吸い、階段を降りる。


足音は控えめに。

でも、急いでしまう。


「大丈夫……かしら?」


昨日、触れた時。

セラフィオンは拒まず、

むしろ手を返してくれた。


その感触が、まだ掌に残っている気がする。


鉄格子の前に立つと、

薄闇が静かに揺れた。


「……来てしまいました」


声は震えていた。

でも、それを止める気にはなれなかった。


鉄格子の向こうで、白い光がゆっくり開く。

セラフィオンの目が、

わずかに細められたように見えた。


冷たくない沈黙。

呼吸のように揺れる静謐。


フィーネは鉄格子にそっと手を置き、

ほんの少し迷ってから、囁く。


「……もう一度、手を、お貸しくださいませんか?

 あなたの“音”が、聞きたくて」


その瞬間。


闇の中で、静かに何かが動いた。


触れてもいい、というように。


セラフィオンの手が、再び隙間へ伸びる。


迷いながら。

けれど、確かに“求める”動きで。


フィーネの胸に、小さな熱が灯る。


静かに揺れる、昨日と同じ音。

でも昨日より少しだけ近い。


フィーネは手を、胸元に迎え入れるように大切に抱え、調律の音を紡いだ。



二人の音が共鳴していく。

誰にも明け渡したことのない心の内をそっと預ける感覚。覗き込まれている。暴かれるほど、奥底まで。


フィーネは心の深いところが繋がったと感じた。


思わず、ほぅ、と息を吐く。

セラフィオンも穏やかな顔で、フィーネを見つめている。


鉄格子の向こうで竜の喉がわずかに震える。


「明日も……ここへ」


低く、胸に迫るような穏やかな男性の声。


それは、竜が封じてしまった人間の言葉だった。フィーネを呼ぶためだけに紡がれた、音。胸が震えた。


「必ず……きます」

フィーネは安心させるように、深く頷いた。



部屋に戻ると、胸の奥で揺れていたざわめきが、

まるで甘い香りに包まれるように広がっていった。

指先に残る余韻は、怖れではなく、静かに酔わせるような熱。


鉄格子越しのあの気配――

あれほど孤独で、あれほど深い存在が、確かに自分の方へ触れ返してくれた。

その事実が、胸の内側を柔らかく満たしていく。


理由なんて、きっと要らない。

ただ“繋がった”という感覚だけが、甘い陶酔のようにふわりと身体を満たしている。


「……また、会いたい」


ひとりごとのはずなのに、

恋に落ちた人の声に似ていて、

自分で自分を抱きしめる。頬が自然と染まった。


怖さは、不思議とどこにもなかった。むしろその予感のぬくもりに沈んでいくように、ただ、安心に包まれている。


フィーネは胸元で両手を重ね、

溢れそうな想いをそっと抱きしめた。






 夜の塔は、沈黙している。

だが、その沈黙の底に、さきほど触れた“音”だけが微かに残り、反響していた。


少女の指先。

震えていたはずなのに、触れ返してきたときだけ、迷いがなかった。

まるで――求めていたみたいに。


《……なぜだ》


竜は長い呼吸を吐く。

胸の奥をかすかに掠める温度が、うまく名付けられない。


冷たくも、熱くもなかった胸に

灯された、小さな灯火(ともしび)


久しく忘れていた。

人の“音”が、自分に寄ってくるという感覚。


そして――

鉄格子の向こうから届いたあの囁き。


「……また、会いたい」


思い出しただけで、胸に波紋が落ちる。重たく、沈み、けれど痛くない。むしろ、戸惑うほど静かに心の奥を温めていく。


《あれは……呼ばれた、のか》


呼ばれたことなど、とうの昔に失ったものだと思っていた。

名を呼ばれることも。

心に触れられることも。


少女の手は、細く、弱いはずなのに。

拒絶した鋼よりも、深く、深く入りこんでくる。


忘れていた感覚を、揺らす。


《……明日も、来るだろうか》


独り言のように思った瞬間、

胸の奥でひどく静かな痛みに似た甘い予感が動いた。


期待――

そんな名の感情を、竜が抱いているなど。

滑稽だ。

だが否定はできない。


沈黙の中で目を閉じる。


少女の音だけが、暗闇の底でゆっくりと灯る。セラフィオンの目には見えていた。






 王国は、今日もゆるぎない勝利の光に包まれている――

そう、誰もが信じていた。


城下の広場では兵士が槍を掲げ、

酒場では未来の戦利品の話が笑い声とともに溢れ、

議会の高官たちは隣国の地図を広げながら、

自国の軍勢が進むべき“正しい道”を議論している。


その根拠は、ただひとつ。


竜がいるから。


古来、この国は竜の“音”に守られてきた。

竜の加護は王国の盾であり、矛であり、

不可侵の証であった。


ゆえに――

竜が沈黙しているなど、誰一人として気づかない。


塔の最深部で起きている亀裂は、

まだ世界の表層には届いていない。


だが、亀裂は静かに広がっていた。






 夕刻の塔は、いつもより少しだけ冷えていた。

調律を終えて自室に戻ると、机の上に一通の封書が置かれていた。

見覚えのある紋章――王国軍務省。


胸が、かすかに沈む。


嫌な予感は、まるで最初からそこにいたみたいに

静かに足元へまとわりついてくる。


封を切いたとき、世界がひと呼吸分止まった。


『徴兵令 ――一ヶ月後、国境線に配属』


文字は淡々と、黒々と、抗いようもなくそこにあった。


(……そんな、)


声は出なかった。

けれど胸の中では叫びのようなものが小さく弾ける。


調律士は、有事には兵として動員される。

規則だ。

ずっと分かっていたはずなのに――。


(……まだ、会いたい人がいるのに)


鉄格子越しの白い光。

触れ返してくれた手。

囁くように落ちてきた「明日も……ここへ」という声。


あれは、今日のことだった。


なのに。


指先が震えた。

封書が揺れ、文字が滲む。


(……明日はせめて、彼のそばへ)


言えば、あの目が曇る。

あの静かな沈黙が悲しみに変わる。

けれど、不誠実なことは、したくない。


胸の奥に灯った小さな火は、

怖いほどやわらかく揺れた。


(――一ヶ月しかない)


一ヶ月後には、もう塔にいることはできない。

再び会える保証なんて、どこにもない。


違う。

もっと正確に言えば――


“明日もここへ”に、

私の明日が続く保証なんて、どこにもない。


フィーネは机に封書を伏せ、

胸元を押さえて深く息を吸った。


繋がれたばかりの心が、

別れの影に怯え、弱い悲鳴を上げている。


それでも。


(……明日は、行く)


泣きたくなるほど短い時間しか残されていなくても。

嘘になってしまう未来しか見えなくても。


あの人が待ってくれているのなら――

せめて明日だけは裏切らない。


静かに目を閉じると、

暗闇の中に浮かぶ白い光が、そっと胸を照らした。






 調律前の竜は、いつもなら深く、静かに眠っている。

大地そのものが寝息を立てるような、ゆるぎない呼吸。

それが今日は――

ほんのひと拍、遅れた。




揺らぎ、と呼ぶにはあまりにも微細。

気のせいと言われれば、そうなのかもしれない。

だがセラフィオンは、音の欠片を逃さないように。


気のせいだと思いたい。けれど、フィーネが揺れている。


深く繋がったセラフィオンにはフィーネの揺らぎが伝わってしまう。


竜が少しでも沈黙に傾けば、

王国は、たやすく傾く。




……今日も、来るだろうか。


そんな不安をごまかすように、

セラフィオンは、あの小さな足音を待っていた。


扉が開く。

光が射す。

その中に、フィーネがいた。


顔を上げた瞬間、胸の奥がふわりと温かくなる。

――いつものことだ。人にはいつか終わりが来る。

慣れてはいけないと分かっているのに、慣れてしまう。


「……こんにちは、セラフィオン様」


「来てくれて、嬉しく思う」


声に出したのは、それだけ。

でも本当は、もっといろいろ伝えたかった。

真実も、予感も、不安も。

ただ彼女を曇らせるような言葉だけは、呑み込んだ。


フィーネは光をまとっていた。

いつもよりほんの少しだけ、影が濃かった気もする。だが――

その理由を探ろうとする自分を、セラフィオンはそっと制した。


彼女が来てくれた。

それだけで、私には十分だ。


音に触れる彼女の手は、今日はどこか震えていた。

疲れか、緊張か、あるいは――何かを隠している震えか。


……聞くべきか?


喉まで出かかった問いを、私はまた飲み込む。

心に踏み込みすぎることは、彼女の重荷になる。一歩踏み出すには、あまりにも勇気が足りなかった。



「調律を、お願いしても?」


「……はい。もちろん」


少しだけ間があった。

けれど、その返事は澄んでいた。


セラフィオンの胸の奥に、あたたかいものが静かに落ちていく。

理由のわからない胸騒ぎと、

理由のわからない安堵とが、ゆっくり溶け合うように。


調律が始まると、塔の空気は深い湖の底みたいに澄んだ。

竜の息が落ち着く。

先ほどの揺らぎが幻だったかのように、静かに整っていく。


ただ、フィーネの横顔だけが――

ほんのわずかに遠ざかる。


彼女は今日、なぜか光の中にいない。


まるで、闇を見つめているかのように。


胸の奥が、かすかに痛んだ。

理由はわからない。

ただ、別れの影の端が手を伸ばしている。

そんな冷たさだけが残った。


……気のせいだ。


そう思いたかった。


調律が終わり、フィーネが静かに頭を下げる。


「……明日も、来てもいいですか」


その声は、ほんの少しだけ脆かった。けれど私は、その揺れを穏やかな笑みで受け止める。


「もちろん。明日も、待っているよ」


そう言った瞬間、

胸の奥で何かがきゅっと縮む。


なぜだろう。

まるで――

“明日が来ない”と誰かに囁かれたような感覚。


フィーネの微笑みはかすかに震えていた。

それでも彼女は光を残して去ろうとする。


「待っている」


ぎゅっと手を包み込み、一度引き止める。彼女が消えてしまわぬように。

「……はい」


フィーネは泣きそうに顔を歪め、頷いた。


扉が閉まる。


静寂。


そしてやっと、私は気づく。


――ああ、これは。

胸騒ぎではない。

名もなき不安でもない。


これは、

世界がひび割れる前の、前兆の音だ。



私の心はそれを聞いてしまった。


それでも、祈るように呟く。


「……明日も、来てほしい」


それ以外の望みを、口にする術を、私はまだ知らないのだから。





 塔の扉がきしむ。

昨日と同じ音なのに、今日は胸の奥をひどく掻きむしった。


光が差し込み、その中にフィーネが立っている。

変わらない姿のはずなのに、どこか――淡く、輪郭が遠い。


「……おはようございます、セラフィオン様」


「来てくれて、嬉しく思う」


本当に。

彼女がここにいるだけで、世界が正しく呼吸を取り戻す。


だが、その呼吸の奥にわずかな歪みがあることを、

セラフィオンは昨日の続きのように感じ取ってしまう。


理由を問えば、きっと触れてはならない場所に届いてしまう。



「調律を……お願いしても?」


「……はい」


フィーネの声は、薄い布越しに聞いているみたいに柔らかかった。

その柔らかさが胸の端をひどく締めつける。


彼女の指先が竜の核へ触れる。

その瞬間、微かな揺らぎが走った。


――昨日よりも深い。


だがフィーネの呼吸は静かで、震えは手首の内側にだけ潜んでいる。

隠そうとしている。

悟られぬよう、丁寧に、丁寧に。


調律の音が塔に満ちていく。

優しく、ふるえる風のように。

まるで“別れ”を悟らせないために包み込むような、柔らかい旋律だった。


(……フィーネ。なぜ、そんな音を)


竜の揺らぎが整うほどに、

セラフィオンの胸には別の不協和音が鳴る。


音の純度が高い。

けれどその奥に、言葉にならない哀しさがある。


“届かない場所へ向かう人の音”。


それを知ってしまうからこそ、

セラフィオンは呼吸を深くしてしまう。


調律が終わる。

塔の空気がひときわ澄み、

竜の息は静かに満ちていく。


フィーネはそっと手を離し、

ふっと消えてしまいそうな笑みを浮かべた。


「……あの」


声は、小さな羽が落ちるみたいに軽かった。

そして、かすかに震えていた。


「旅に出るのです、セラフィオン様。……遠くに」


胸の奥で、何かが凍りつく。


喜ぶべき旅ではない。

祝うための言い方ではない。


“戻らない場所”へ向かう者の声だった。


セラフィオンは一歩、彼女に近づく。

けれど触れられない。一歩の距離が、あまりにも遠い。


「……遠く、とは」


問いはそこで止まった。

それ以上訊いてしまえば、

彼女の決意を無理やり引き剥がすことになる。


フィーネは微笑む。

震えを隠すための、小さな光。


「大丈夫です。……きっと、大丈夫」


その言葉だけが、まるで別れの挨拶みたいに落ちていく。


扉の方へ歩き出すその背中は、

いつもより細くて、揺らいでいて、

薄い霧の向こうにあるみたいに遠かった。


「フィーネ」


セラフィオンは思わず呼び止めた。


……もう、良い。


ーー王国を、見限る。

彼女を選ばぬ世界など、壊れてしまえばいい。


手を伸ばせば届くはずなのに――

伸ばせば、壊してしまう気がした。


フィーネが不思議そうに首を傾げて立ち止まる。


「私がここを出ることができると言ったら、お前はどうする?」


セラフィオンはいつになく真剣に呼ぶ。


「フィーネ、こちらへ」


その声は静かだった。けれどその向こうで何かが確実に軋んでいる。


セラフィオンは彼女の手を取り、

包み込むように両手で握った。

まるで、離せば消えてしまうものを押し止めるように。離さないとでもいうかのように。


「私は、心を預けている」


フィーネは息を呑む。涙が溢れた。それはまるで告白のような。


熱い瞳、深い信頼、愛の言葉のようだった。


「私と共に来い」


フィーネは息を呑み、

その意味を理解した瞬間、肩がふっと震えた。


涙が、一粒、こぼれる。



その瞬間、塔が崩れた。


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