第八話 「廃砦の夜」
日が傾き、アデル渓谷の空が紫とオレンジのグラデーションに染まる頃、一行は街道から外れた森の奥深くへと進んでいた。
カインが地図で指し示したのは、岩山に寄り添うようにして建つ、古びた石造りの砦だった。塔は崩れ、城壁は蔦に覆われ、いかにも廃墟然としている。
「……こんな場所、本当にあるのね」フィオナが呟く。
「ああ。王都の騎士団が昔、山賊討伐の拠点として使っていたらしい。今は誰も近寄らない」
カインはそう言いながら、手際よく馬車を砦の壁に隠し、馬の気配を消すために手綱を壁に結びつけた。
砦の内部は、外観から想像するよりも保存状態が良かった。屋根こそ一部が吹き飛んでいたが、広間には焚き火の跡があり、壁には苔むした装飾が残っている。
一行は広間の隅に荷物を置き、ミリアが薬草と布を取り出して負傷した団員の手当を始めた。
先ほどの戦闘で、矢を受けた団員の一人は肩を負傷していたのだ。
「痛くないか?」ミリアが恐る恐る聞く。
「……ああ、平気だ。大したことない」団員は額に汗を浮かべながらも、気丈に答える。
ミリアは薬草をすり潰した軟膏を患部に丁寧に塗り、手早く布で縛った。
ルナはカインの隣で、護送されている馬車の扉に視線を向けていた。
「……中の人物は無事なの?」
「ああ。だが、かなり怯えているようだ」カインは馬車を軽く叩きながら答える。「無理もない。こんな危険な目に遭わせているんだからな」
ルナは黙ってうなずき、焚き火に薪をくべる。燃え盛る炎が、広間に暖かな光と影を投げかけた。
夜が更け、見張りはカインとルナに交代した。
夜空には満月が輝き、砦の崩れた塔から冷たい風が吹き込む。
ルナは焚き火のそばに座り、物思いにふけっていた。
「……まさか、王都の仕事でこんなに大変なことになるとは思わなかったわ」
隣に座ったカインが苦笑する。
「すまないな。君たちを巻き込んでしまって」
「いいえ。私たち自身で選んだ道よ。それに、この経験はきっと将来、役に立つわ」
ルナの視線は遠く、故郷の村を越えて、王都を見据えているかのようだった。
「ルナは、何を考えているんだ?」
「いつか、私たちが貧しい村を救う立場に立つ、その時のために、あらゆることを吸収しておきたいの」
カインはルナの答えに感心したように、目を丸くした。
「君は本当に、その若さで……すごいな」
「……あなたは?」ルナが問い返す。「なぜ、〈銀翼団〉に?」
カインは少し考え、遠い目をした。
「俺も、王都の貴族たちの汚いやり方を見てきた。正しい者が報われない、そんな世界を変えたかったんだ。……この護送任務は、そのための第一歩なんだ」
ルナとカインの間に、わずかな連帯感が生まれた。
その時――。
砦の外から、かすかな物音が聞こえた。
ルナとカインは同時に身を固める。
「……何の音?」
「おそらく、動物の類だろう」
カインはそう言ったが、彼の目は油断なく入り口を睨んでいる。
しかし、その音は次第に大きくなり、複数の足音へと変わっていった。
「……動物じゃない。人間だ!」ルナが叫ぶ。
砦の入り口から、三つの影がヌッと現れた。
そこに立っていたのは――〈赤牙の槍〉のリーダー、ダリオと仲間たちだった。
「おいおい、こんな場所でキャンプとは、いい趣味してるじゃねぇか」
ダリオが下卑た笑いを浮かべる。
ルナは即座にフィオナとミリアを揺り起こした。
「フィオ! ミリア! 起きなさい!」
眠りから覚めたフィオナは、目覚めざまに大剣を手に取り、状況を把握する。
「な、なんでこいつらがここに!?」
ダリオは、楽しそうに笑いながら言った。
「俺たちが仕掛けた罠に引っかかった獲物を、見逃すわけにはいかねぇだろ?」
カインが剣を抜き、ダリオの前に立つ。
「貴様ら……反乱貴族派の連中だな」
「へへっ、さあな。だが、お前たちの荷物の中身は知ってるぜ」
ダリオの言葉に、カインは顔色を変えた。
「なぜ、そのことを……!」
「王都には、俺たちを雇ってくれる金持ちはいくらでもいるのさ。金は、全てを解決してくれるんだよ」
ダリオは馬車のほうを指差す。
「あの馬車を渡せ。そうすれば、お前らの命は見逃してやるぜ」
ルナは冷静に状況を分析する。
敵はダリオたちの他に数名。合計で五名。対してこちらは、カインと負傷した団員、そして三姉妹。
負傷者を出している分、こちらが不利だ。
「ミリア、援護! フィオ、馬車の前に!」
ルナが指示を飛ばし、自身も剣を抜いて構える。
「……悪いけど、私たちには譲れないものがあるの」
ルナの言葉に、ダリオは鼻で笑った。
「そうかよ……残念だなぁ。じゃあ、力ずくで奪わせてもらうぜ!」
ダリオの号令とともに、仲間たちが一斉に襲いかかってきた。
戦闘が始まった。
カインは二人の男を相手に、剣の腕前で圧倒していく。
フィオナは馬車の前で大剣を振り回し、迫りくる敵を近付けさせない。
そしてミリアは、砦の壁に隠れながら弓を放ち、敵の注意を逸らす。
ルナは魔法の詠唱を始める。青白い光が掌に集まり、氷の槍が形を成していく。
「〈アイス・ランス〉!」
放たれた氷の槍が、ダリオの肩をかすめ、壁に突き刺さる。
ダリオは舌打ちをした。
「ちっ……邪魔な魔法使いめ!」
ダリオはルナに狙いを定め、一気に距離を詰めてくる。
ルナは剣を抜き、ダリオの槍と剣を交える。金属がぶつかり合い、火花が散った。
ルナは剣術の心得もあるが、ダリオの力には劣る。
しかし、彼女の目的は時間稼ぎだった。
「ミリア! もう一発!」
ルナの合図に、ミリアが素早く弓を引き絞る。
その矢は、ダリオの横にいた仲間の腕を射抜いた。
「ぐあぁ!」
仲間が倒れた隙を突き、フィオナが反撃に転じる。
戦いは熾烈を極めた。
しかし、多勢に無勢。やがて、カインとフィオナの動きが鈍り始めた。
「くそ……!」
フィオナが槍の一撃を受け、体勢を崩す。
その隙に、ダリオが馬車の扉に手をかけようとした、その時だった。
ルナの背後から、凍てつくような冷気が吹き荒れる。
「……やめなさい」
ルナの声に、ダリオは思わず振り返る。
ルナの掌には、先ほどよりも巨大で、禍々しい氷の塊が生成されていた。
「……なんだ、その魔法は!?」
ルナは無言で、その氷塊をダリオに向けて放つ。
「〈フリーズ・バースト〉!」
氷塊がダリオの足元で炸裂し、あたり一帯が凍り付く。
ダリオはかろうじて身をかわしたが、足が滑り、地面に尻餅をついた。
「ちっ……覚えとけ!」
ダリオはそう言い残し、残りの仲間たちを連れて砦から撤退していった。
荒い息を整えながら、三姉妹とカインは夜空を見上げた。
満月が、彼らの奮闘を静かに見守っている。
「……助かったよ、ルナ」カインがルナに感謝の言葉を述べる。「まさか、あんな魔法まで使えるとは」
「あれは、村にいた頃から練習していたものよ。……まだ制御は難しいけど」
ルナはそう言いながら、疲れたように座り込んだ。
ミリアがルナに駆け寄り、肩を抱く。
「ルナ姉、無理しすぎだよ……」
フィオナも大剣を地面に突き刺し、悔しそうに歯を食いしばっていた。
「くそっ……やっぱり、もっと強くならないと」
その夜、三姉妹は自分たちの未熟さと、敵の狡猾さを改めて痛感した。
しかし、同時に、自分たちが力を合わせれば、どんな困難も乗り越えられるという、確かな手応えを感じていた。
――そして、馬車の扉の向こうでは、護送対象の人物が、静かにその様子を見守っていたことを、彼女たちはまだ知らない。




