第七話 「アデル渓谷への道」
夜明け前の街は、まだ眠りの中にあった。
石畳の路地に靄が漂い、かすかな馬蹄の音が遠くから近づいてくる。
宿の前に停められた四輪馬車のそばで、ルナたち三姉妹は装備を整えていた。
ルナは腰の剣を確かめ、背負い袋の紐をきつく締め直す。
フィオナは矢筒を背に、弓の弦を指で弾き、その張り具合を確認していた。
ミリアは両手で小さな革袋を抱え、魔法触媒である銀砂石の感触を確かめる。
「準備はいいか?」
声をかけてきたのはカインだった。黒い外套に銀の留め具、腰には細身の剣。
その背後には、〈銀翼団〉の団員と思しき二人の男が立っている。鎧は軽装だが、腰や背には実戦向きの武器が揃っていた。
「こっちはいつでも」ルナが短く答える。
「よし。じゃあ出るぞ。アデル渓谷までは三日ほどだが……道は荒れる」
馬車の御者台には団員の一人が座り、もう一人は馬で先導する。
三姉妹は後方の警戒役として、馬車の周囲を歩く形で進むことになった。
街門を抜けると、朝の光が山の端から差し込み、霧の中に黄金の帯を作った。
街道はしばらく平坦だが、やがて丘陵地帯に入り、木々が視界を狭めてくる。
昼過ぎ、最初の休憩を取ったとき、フィオナがカインに尋ねた。
「なあ、その“重要人物”って、結局誰なんだ? 護送対象ってやつ」
カインは水筒を口に運び、少し考えてから答えた。
「……正直に言うと、俺も詳細は知らされていない。知っているのは“王都にとって反乱鎮圧の切り札になる人物”ってことだけだ」
「切り札、ねえ……」フィオナは訝しげに目を細める。
ルナはそのやり取りを黙って聞いていたが、やがて口を開いた。
「もし敵が仕掛けてきたら、どう動くつもり?」
「そのときは俺と団員が前に出る。君たちは護送対象を守ることに専念してくれ」
ルナは短くうなずく。「了解」
二日目の朝。
天候は曇天、風が強まり、時折、森の木々がざわめく。
ミリアは小声で呟いた。
「なんだか……空気が重い」
ルナも同感だった。森の匂いが微かに土臭く、鳥の鳴き声が消えている。
午後、街道が渓谷沿いの細道に差し掛かった。右は切り立った岩壁、左は深い谷。
視界は悪く、馬車は速度を落として進む。
そのとき――ルナの耳が、かすかな金属音を捉えた。
「止まれ!」
ルナの声と同時に、前方の団員が馬を引き止める。
次の瞬間、岩壁の上から矢の雨が降り注いだ。
「伏兵だ!」フィオナが弓を構え、矢をつがえる。
矢が車輪に突き刺さり、木片が飛び散った。団員の一人が盾で馬車を守り、カインが鋭く叫ぶ。
「護送対象を車内から出すな! 三姉妹は左側を固めろ!」
ルナは剣を抜き、迫りくる敵影を視認する。岩壁の陰から現れたのは、赤と黒の革鎧を着た十数人の男たち――全員が顔を布で覆い、無言で迫ってくる。
「数が多い……!」ミリアが呟き、詠唱を始めた。
彼女の手元で銀砂石が淡く光り、圧縮された風の弾丸が生まれる。
「《エア・バースト》!」
放たれた魔弾が敵の足元の土を爆ぜさせ、二人を吹き飛ばす。
その隙を突き、フィオナが矢を放つ。一本、二本、三本――矢は正確に敵の肩や膝を射抜き、前進を阻む。
ルナは前に出て、接近してきた敵と剣を交えた。金属がぶつかる高い音。
敵の剣を弾き、体を半回転させて反撃――一人の武器を叩き落とし、膝裏に蹴りを入れる。
「右も押されてるぞ!」フィオナが叫ぶ。
見ると、カインが三人を相手に斬り結びながら後退していた。
ルナは短く息を吐き、妹たちに叫ぶ。
「フィオナ、援護! ミリア、もう一発!」
ミリアが再び魔弾を放ち、敵の列を崩す。
フィオナの矢がその隙間を正確に抜け、先頭の男の兜を吹き飛ばした。
戦いは数分で終わった。
残った敵は撤退し、谷間に消える。
ルナは剣を納め、周囲を警戒しながらカインに声をかけた。
「大丈夫か?」
「ああ……だが、これは偵察じゃない。完全に待ち伏せだった」
カインの顔は険しい。
「ってことは……護送対象の情報が漏れてる」フィオナが呟く。
「その可能性が高いな」
カインは馬車を見やり、低い声で続けた。
「今夜は予定を変える。谷間の中継地まで行かず、この近くの廃砦に泊まる。敵の再襲撃に備える」
ルナはうなずき、妹たちを促して馬車の護衛に戻った。
風がさらに強まり、遠くで雷鳴が小さく響く。
アデル渓谷まで、まだ半分――。
そして三姉妹は、この依頼が想像以上に危険なものであることを、ようやく肌で理解し始めていた。