腐らし
引っ越したばかりのボロマンションは、思ったより静かで、隣の部屋の物音もほとんど聞こえない。築40年、家賃3万2千円。安さだけで選んだが、内装もそこそこ綺麗にリフォームされていて、まあ悪くないと思っていた。
その男に会うまでは。
最初に見たのは、入居三日目の夜だった。
スーパーの袋を片手にエレベーターの前で待っていると、横に背中を丸めたおじさんが立った。
小太りで、髪は脂で固まっている。目の焦点が合っていない。
ドアが開き、二人で中に乗り込んだ瞬間、鼻を突く悪臭に息が止まった。
ゴミ収集車が夏の午後に撒き散らす匂いをさらに腐らせたような、胃の奥から込み上げるほどの臭い。
「……くさっ」思わず小さく漏らすと、おじさんがニヤリと笑った。
「兄ちゃん、どこの部屋? 俺は401。……おんなじ階じゃん」
笑ったとき、唇の端に黒いカスのようなものが付いていた。
会話はそれだけで、エレベーターが開くとおじさんはふらつきながら降りていった。
ドアが閉じ、密室から解放された瞬間、僕は思わず深呼吸をした。
けれど、服にも髪にも臭いが染み付いていて、その夜は吐き気が収まらなかった。
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それから数日、エレベーターでおじさんと鉢合わせることが増えた。
なぜかいつも同じタイミングになる。
おじさんは妙に話しかけてくる。
「引っ越しは大変だったろ?」
「夜、変な音聞こえないか?」
「一人暮らし、寂しくない?」
話すたびに、あの悪臭が体にまとわりつく。
嫌で仕方なかったが、無視することもできなかった。
笑顔は人懐っこく、声は妙に優しい。
気を許した覚えはないのに、ふとした拍子に「じゃあまたね」と言葉を返してしまう。
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そして、事件は一週間後に起きた。
夜、インスタントラーメンを作っていると、ドアの向こうからコンコンと控えめなノック音。
時計を見ると23時過ぎ。
「……どちら様ですか?」
「俺だよ、401の」
声を聞いた瞬間、胃の奥がぎゅっと縮んだ。
「ちょっと……話そうと思って」
ドアの隙間から、あの匂いがふわりと流れ込んできた。
「今ちょっと立て込んでて……」と答えると、
「なあ、入れてくれよ。兄ちゃんの部屋、見たいんだ」
ドアノブがガチャリと回った。
鍵はかけていたはずなのに、金属がきしむ音が続く。
「……開けてよ」
声が低く、ねっとりと変わっていた。
鼻を刺す臭いは、もう玄関だけでなく部屋全体に満ちている気がした。
僕は咄嗟にスマホを掴み、110番にかけようとした。
そのとき、ノックがぴたりと止まった。
静寂の中、ドアの向こうでスースーと呼吸音がする。
長い、湿った吐息。
……やがて足音が遠ざかった。
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安心したのも束の間、スマホの画面に新着メッセージが届いた。
見覚えのない番号から。
《兄ちゃん、なんで出てくれないの? 俺、外で待ってるから》
恐怖で指先が震える中、玄関の覗き穴を覗いた。
廊下の電灯に照らされ、おじさんが真っ直ぐこちらを見上げていた。
笑顔のまま、口を開け、舌をだらりと垂らしながら。
次の瞬間、レンズ越しに嗅覚が麻痺するほどの臭いが押し寄せたような錯覚がした。
僕はその夜、一睡もできなかった。
朝になっても、外からはまだ、かすかに腐った匂いが漂っていた。
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あの夜から三日間、僕はエレベーターを使わず階段を使い、帰宅時間もずらした。
幸い、おじさんと顔を合わせることはなかった。
部屋の前にも異臭は漂わず、少しずつ安心を取り戻していた——そのはずだった。
四日目の夜、コンビニ帰りにマンションの階段を上っていると、廊下の奥で人影が動いた。
暗がりから、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
白いレジ袋を提げ、にやけた顔——401号室のおじさんだ。
「兄ちゃん、やっと会えたなあ」
息と一緒に、あの臭いが襲ってくる。
前より強烈だ。まるで生ごみの山に顔を突っ込んだような……いや、それ以上に甘ったるく、喉に絡みつくような匂い。
「最近、避けてたろ?」
おじさんは笑いながら、袋の口をゆるめた。
暗い中でもわかる。中身は黒い液で濡れた何か……白く細長いものが混じっている。
骨、だろうか。
僕は思わず後ずさったが、廊下は狭く、背後は自分の部屋のドアだ。
鍵を開けようとポケットに手を入れると、おじさんが一歩近づく。
「入れてよ。兄ちゃんと一緒に食べたくて、持ってきたんだ」
袋の口が完全に開き、異臭が濃密に広がった。
視界が滲む。足がすくむ。
おじさんはもう、玄関マットの上に片足を乗せていた。
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気がつくと、僕は部屋の中に倒れ込んでいた。
玄関のドアは閉まっているが、鍵はかかっていない。
あの異臭は……どこからか漂い続けている。
ふと部屋の隅に目をやると、買った覚えのない白いレジ袋が置いてあった。
口は閉じられているが、底から黒い液が滲んで畳に染みを作っている。
袋越しに、何か柔らかいものをつまむような形が浮かび上がっていた。
スマホが震えた。
通知は一件、差出人不明。
《気に入ってくれてよかった。これからは毎日持ってくるから》
その瞬間、袋の中で「ぐちゃり」と何かが沈む音がした。
そして——壁の向こうから、あのスースーとした呼吸音が聞こえてきた。
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【人怖】隣の部屋の奴が異常に臭い【助けて】
1 名前:1 ◆kusoSmell. 投稿日:2025/08/08(金) 19:54:12.11 ID:XnNq0aR0
大学進学で越してきたばっかなんだけど、隣の401のおっさんがやばい。
マンションのエレベーター乗るたび、ゴミ箱の中みたいな匂いが充満する。
今日なんか部屋の前に白いレジ袋置いてあって、中から黒い液が…
マジで怖い。どうすればいい?
2 名前:名無しさん@霊体験中 投稿日:2025/08/08(金) 19:55:01.67 ID:hanakuso
通報しろ。
3 名前:名無しさん@霊体験中 投稿日:2025/08/08(金) 19:55:48.91 ID:yabaiSmell
とりあえず写真うp。
4 名前:1 ◆kusoSmell. 投稿日:2025/08/08(金) 19:57:15.33 ID:XnNq0aR0
(画像リンク)※袋の底から黒いシミ
開けてないけど、多分生ごみじゃない。甘ったるくて鼻に残る匂い。
5 名前:名無しさん@霊体験中 投稿日:2025/08/08(金) 19:58:30.22 ID:hanazono
それ腐乱臭じゃ…?
6 名前:名無しさん@霊体験中 投稿日:2025/08/08(金) 19:59:55.19 ID:snakeSend
近場だからスネークしてやるわ。場所kwsk。
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(20:23)スネークID:SnakeOQ
7 名前:SnakeOQ ◆sneK. 投稿日:2025/08/08(金) 20:23:41.11 ID:snakeSend
到着。築40年以上のボロマンション。廊下暗い。すでに臭い。
8 名前:SnakeOQ ◆sneK. 投稿日:2025/08/08(金) 20:25:02.87 ID:snakeSend
4階来た。402号室の前に例の袋ある。底から液垂れてる。
触らんほうがいいな。
9 名前:名無しさん@霊体験中 投稿日:2025/08/08(金) 20:25:45.91 ID:yabaiSmell
ドアチャイム鳴らしてみろ。
10 名前:SnakeOQ ◆sneK. 投稿日:2025/08/08(金) 20:27:09.66 ID:snakeSend
鳴らしてないのに401号室のドアが少し開いた。
中暗くて顔見えんけど、なんか覗いてる。動かない。
11 名前:名無しさん@霊体験中 投稿日:2025/08/08(金) 20:27:50.16 ID:ko6so
撤退しろ。ガチでやばい奴。
12 名前:SnakeOQ ◆sneK. 投稿日:2025/08/08(金) 20:28:31.11 ID:snakeSend
……あ、出てきた。
小太りで髪ベタベタ。手に袋持ってる。
袋の口から、白い指みたいなものがぶら下がってる。
13 名前:SnakeOQ ◆sneK. 投稿日:2025/08/08(金) 20:29:22.77 ID:snakeSend
「兄ちゃん……来てくれたんだな」って笑ってる。
臭いが強すぎて吐きそう。
階段で降りる。
14 名前:SnakeOQ ◆sneK. 投稿日:2025/08/08(金) 20:30:19.90 ID:snakeSend
……え?
階段下の踊り場にも同じ顔の奴が立ってる。
上にも下にもいる。袋持ってニヤニヤしてる。
15 名前:名無しさん@霊体験中 投稿日:2025/08/08(金) 20:30:51.41 ID:yabaiSmell
どういうことだよ。ドッペルゲンガー?
16 名前:SnakeOQ ◆sneK. 投稿日:2025/08/08(金) 20:31:27.84 ID:snakeSend
動けない。臭いで頭が……視界が……
——この書き込みを最後に、1もSnakeOQも現れなかった。