第0話
「うっそ〜! 真凜ちゃんまた新しいバッグ〜!?」
「え、見せて見せて! えっ、エルメス!? やば〜!」
ランチタイムの丸の内、カフェでスマホをいじりながら、自撮りを決めた私は、あざとい笑顔で後輩たちの反応を受け止めた。
ここは私の舞台だ。
綾瀬真凜。某大手IT企業の広報として働く29歳、独身。Instagramのフォロワーは3.6万人。見た目は元アナウンサー系、しゃべりは甘め。
でも私の正体は、誰にも言えない。
――空手全国大会6連覇の、ゴリゴリ武闘派女子だったなんて、誰が思うだろう。
そんな過去は、上京と同時に捨てた。いや、捨てたかった。
高校時代、告白した男の子に言われた一言は一生忘れられない。
「お前みたいな空手ゴリラ、無理だわ」
その瞬間、私は“本当の自分”を捨てた。"ありのままの自分"を受け入れてくれる人なんていないんだ。
それ以来、私は“可愛い”を研究し続けた。甘え方、媚び方、あざといしぐさ。
努力して、今の“モテる自分”を手に入れた。そう思っていた。
その男と出会ったのは、インフルエンサー仲間の麻衣の紹介だった。
名前は…なんだったっけ。今思い出すだけで吐き気がする。
爽やかな起業家で、実家は世田谷の地主。オーダースーツにロレックス、イケメンで、気取らない優しさを見せる完璧な男。
「真凜って、本当は繊細で寂しがり屋なんじゃない?」
――なぜか、過去まで見透かされてる気がした。
何度かデートを重ねるうちに、私は“ありのままの自分”でいることに、少しずつ慣れていった。
そしてあの日。夜景がきらめくレストランで、彼はこう言った。
「僕のそばで、そのままの君でいてほしい。結婚、しよう」
心臓が跳ねた。忘れていたはずのあの言葉に、心が揺さぶられた。
でもその直後だった。
「実は、会社の設備投資で資金繰りが厳しくて……もしよかったら、1000万円だけ貸してもらえないかな?」
……え? となったけど。
「結婚したら全部返すよ。信じてほしい。僕たち、家族になるんだよ?」
その言葉に、私は完全に落ちた。
コツコツ貯めた貯金を、翌日すべて振り込んだ。
バカだった。ほんと、笑えるくらい。
その日を最後に、彼からのLINEも通話も、すべての連絡が途絶えた。
「典型的な結婚詐欺ですね。東京近辺で活動してる詐欺グループです」
警察の男性が事務的に言った。
その詐欺グループは、ターゲットの過去を洗い出し、弱みやトラウマを突いて信頼を積み上げるのが特徴で、既に十数件の被害報告があるが、金はほぼ戻っていないそうだ。
「…全部ウソだったんですか、あの“ありのままの君でいて”って…」
私が呟くと、警察官は押し黙っていた。
夜、久しぶりに祖父の遺影に線香をあげた。
ロシア人の祖父、ニコライ・アヤセ。
私が1歳のときに両親が亡くなり、引き取ってくれた。日本語がヘタで、怖くて、でも…本当はとても優しい人だった。私が空手をする姿をいつもニコニコ見守ってくれる優しい人。空手は別に好きじゃなかったけど、祖父が喜んでくれる姿を見ると…どうしようもなく嬉しかった。
「いいか真凜、"ソビエト空手"はお前の身に本当の危険が迫った時以外は使ってはいけないヨ。これは人を簡単に壊してしまうカラね」
だから私は祖父の教えを守り、大会では決してソビエト空手の技は使わなかった。
祖父が言っていた。
"ソビエト空手"は危険すぎる…と。
ソビエトの地下社会で独自に発展した空手"ソビエト空手"は、本来の空手の目的である「自己防衛」ではなく、あくまで敵を破壊することを目的としていると。その結果、ソビエトでは1981年に空手が公式に禁止となったほどで、違法に空手を教えた場合、刑務所に入れられることすらあったという。
そんな忌まわしき格闘技、ソビエト空手。私はずっと、それを忘れたふりをして生きてきた。
けど今、確信した。
もう“ありのままの私”を否定するような奴に、人生を壊されてたまるか。
私はヒールを脱ぎ、夜の街に出た。
自分の金と人生を踏みにじったあいつを、必ず見つけ出す。
そして――ぶっ潰す。
闇の中で、私の拳が静かに鳴った。
――これは、空手を捨てた女が、もう一度拳を握る物語。
(つづく)