(元)オネエ淫魔、少女の正体を知る。
食事を終えた二人は、再びエイスがアリスを抱き上げるスタイルで食堂を出た。
ふらふらと楽しげに身体を揺らすアリスを見て、彼は頬を緩める。
騒がしいと感じるほどに賑やかな街並みの中で、その二人だけ纏っている空気がとてもゆったりと穏やかだった。
「アリス、良い宿分かるのです!あっち!」
「あぁ」
アリスの力で案内された宿は、あまり高過ぎず汚過ぎない普通の宿だった。
女将の対応も至って普通で……比較するのも悪いが、さっきの街の宿と比べると大違いだ。
運良く最後の一室を借りることができたエイス達は、借りた部屋に向かう。
ベッドは一つ、テーブルとイス……そしてお風呂が備え付けられたいた。
お風呂付きながら、ここの宿代は安いと言えるだろう。
エイスはにっこりと笑いながら、アリスの頭を撫でた。
「良い宿だな。教えてくれてありがとう」
「ふふんっ!エイスのためならアリスはすーっごく頑張るのです!」
「そうか……。オレのために頑張ってくれたんだな?ありがとう、アリス」
エイスは優しく微笑みながら、彼女の額にキスをする。
アリスは「うきゃ〜」と嬉しそうに頬を赤くした。
「エイス、エイス!」
「ん?なんだ?」
「お願いがあるのです!」
「………ん?」
「エイスの血、アリスに下さい!」
アリスに会う前のエイスなら、どういう意味だと深く考えていただろう。
彼女には話していないが……エイスは淫魔族であり、《破滅の邪竜》の眷属なのだ。
その血はただの淫魔族よりも強い魔力を有している。
使い用によっては、強力な呪いの媒介にすることも。
人工生物の素材にすらなる。
だからこそ、普通ならばその願いにエイスは何をするつもりなのだと疑いをかけていただろう。
しかし、今の彼はそんなことを考えられない。
今のエイスはアリスに関してだけは、無条件で受け入れてしまっているから。
アリスに対して疑う、拒否するなどといったことを考えつきもしなくなっていたのだから。
「分かった」
エイスは人差し指の爪を鋭く伸ばし、手の平に傷をつける。
ツゥーッ……と溢れる血。
アリスはその手を取って、チュッ……と手の平にキスをした。
「…………アリスっ……!?」
「……んっ」
その瞬間、アリスの背から美しい純白の翼が出現する。
金色の光を放つそれは、まさに天使族が有する翼。
その姿を見て……エイスは目を見開く。
「…………アリス……」
まさか、アリスが天使族だったなんて。
自分と相反する立ち位置に存在する種族だなんて思いもしなかった。
(あぁ……それなら……アリスから美味しい匂いがするのも、当たり前じゃないか……)
清廉なるモノを穢すことは、何よりも得難い力となる。
アリスから美味しい匂いがしたのは、当たり前だったのだ。
彼女は天使族。
穢れなき、天の使い。
その無垢な精気は、とても美味しいに違いない。
エイスはごくりっと喉を鳴らす。
しかし、次の瞬間……彼は絶句した。
その翼が……根元から黒く染まっていったのだから。
「なっ!?」
「くっ……はっ……!」
アリスは自身の小さな身体を抱え、小さく呻く。
黒に抗うように純白が煌めく。
それは互いに衝突し、鬩ぎ合い……そして、混ざり合う。
……最後は、根元は黒いままで他の部分は僅かな白を帯びた灰色へと変わっていた。
「…………はぁ……はぁ……はぁ……」
荒い呼吸を整えて、アリスは自分の背に生えた穢れた翼を見つめる。
そして、満足そうに微笑んだら。
「うん。これでエイスとずぅーっと一緒なのです!」
アリスはニコニコと笑うが、この状況が笑える状況でないことを、エイスが一番理解していた。
長い永い時を生きてきたエイスだからこそ、他種族のことも知っていた。
流石に、その方法は知らなかったが……天使族において、その純白の翼が穢れることを、〝堕天〟というのだと。
天使族に反するもの、《堕天使》と呼ばれる存在になったのだと……エイスは理解する。
「アリスっ!お前、なんでっ……!?」
「だって、清廉なるモノに属する天使族のままじゃ、淫魔族であるエイスと一緒にいられないのですよ?」
「なっ!?」
「エイスと一緒にいるためなのです」
エイスは言葉を失くす。
確かに淫魔族と天使族……その立ち位置は真逆、対立する存在とも言えるだろう。
前者は破滅を司る存在に仕え、後者は秩序を司る存在に仕えているのだとされている。
その立ち位置にいる限り、共にいることはできないだろう。
だから、アリスはその境界を越えるために堕天した。
エイスの──邪竜の眷属の血を飲んだ以上、その身はエイス達側に近しい存在になってしまった。
逆を返せば、闇寄りの存在になったがゆえに、アリスはエイスと共にいれるようになったともいう。
しかし、彼と共にいるために堕天するなど……アリスにはリスクしかないように思えてならなかった。
「アリス……天使族は空に自分達の理想郷を作っていたよな?」
「う?そーですよ?」
「そこに入る権利は、穢れなき翼を持つことだよな?」
「はい」
空中都市はまさしく、天使族達が暮らす楽園なのだ。
だが、堕天してしまうとそこに行くことはできなくなる。
加えて、彼は秩序を愛する、規律を重んじる。
堕天して、世界に混沌を齎す存在になったら……身内の恥として、殺されてしまうかもしれないのだ。
だからこそ、堕天というのはメリットがないように思えて仕方なかった。
「でも、アリスは元々そこに行ったことがないのです。ううん、許されてもいないのですよ」
「…………は?」
「アリスは、天使族と人間のハーフなのですから、仕方ないのです」
エイスはそれを聞いて再び絶句した。
天使族は秩序や規律を重んじるのに加えて、その血を尊ぶ傾向がある。
つまり異なる種族の血が混ざることを良しとしない。
だからこそ、ハーフという存在がいるモノなら彼らは全力で排除するはずで。
ゆえに、天使族の混血は存在しないはずだった。
「…………ま、さか……」
「エイスにはちゃんと詳しく話してなかったのです。アリスの事情を教えておくのですよ」
アリスは語る。
彼女の身を取り巻く……現実を。
アリスという存在は、特例中の特例で。
上位天使である熾天使……天使族の姫君が産んだ子供だ。
相手はハイドラ王国の王子。
二人は若かった。
ゆえに間違いを犯した。
王子には既に正妃が、姫君には婚約者がいたが……二人は愛を育んでしまった。
そうして産まれたのが……天使族と人間のハーフだった。
血を尊ぶ天使族としては、アリスは直ぐに殺処分とするはずだった。
しかし、彼女の親が互いに王族であることと、姫君の懇願と、姫君自らが空中都市に幽閉されることを代償にすると申し出たことで……アリスは、王子の住むハイドラ王国で生きていくことになったのだとか。
しかし、アリスは自らの母親に会えなくなるだけでなく……父親に会うことすら許されなかった。
それはそうだろう。
王子には既に妃がいたため……アリスという存在は、不義の子として邪魔でしかなかったのだ。
親である王子と姫君にとっては大切だった命は、周りにとっては邪魔でしかなかったのだ。
よって、アリスは王子の住む王城の、離れの塔に秘匿されるようにして一人で暮らしていたのだが……。
そんなある日──。
王子の正妃となった女性は、王子の母親である王妃の言葉でアリスの存在を知る。
そして……アリスに日常的に暴力を振るうようになった。
自分が信じていた夫が他所の女に産ませた子供など、憎しみの対象でしかなかっただろう。
自分の子供よりも歳上ということは、自分の子供が産まれる前にその不義があったということで。
正妃からしてみたら、アリスは邪魔者でしかなかったのだろう。
正妃は夫である王子への怨みを、アリスにぶつけ……そうして、最終的に彼女に捨てられ……アリスは、エイスと出会ったのだ。
「アリスは産まれた時から不義の子で、両親に会ったことがないのです。だから、名前がなかったのです。そして、アリスは邪魔な存在。忌み嫌われる者なのです。ゆえに、正妃様から〝忌み子〟と呼ばれていたのです」
「…………………」
エイスは予想よりもヘヴィーな過去に、言葉を失う。
アリスはそのハイドラ王国でしか生きてはいけない。
なら、それ以外の場所にいる時点で……あの街にいた時点で、アリスは天使族に殺される定めだったのだろう。
「だから、今更堕天したところで変わらないのです。それどころか、天使族の探索に反応しなくなるのです」
「探索に……?」
「はいです!天使族の探索は、精度が高いけど範囲が狭くて……種族の魔力反応を頼りに探すので、同族を見つける性能だけはピカイチなのです!」
………つまり、堕天というのはアリスが外の世界で生きていくには都合が良いということで。
エイスはその説明を受けてやっと、安堵の溜息を溢せた。
「…………なら……アリスが堕天することに……デメリットはないと?」
「はいです!それどころかエイスとずっーと一緒にいれるので、メリットしかないのです!」
「……そう、なんだ。それなら、いいんだ。アリスが生き辛くなるかと思って心配になってただけだから……」
そう……結局のところ、心配してたのはそこなのだ。
堕天使は、天使から追われる身となる。
元同族から敵と見なされる。
まだ幼いアリスがそんな目に遭ったら大変だと思ったから……不安になった。
だが、元々天使であった時からリスクしかないのなら……逆に見つかりにくくなった方がいいだろう。
「アリス」
「はいです」
「オレと一緒にいる?」
「いるために堕天したのですよ?アリスのこと、見捨てるつもりなんです?」
アリスは泣きそうな顔でエイスを見つめる。
エイスは優しく微笑み……少女の頭を撫でた。
「お前がオレを見捨てない限り、オレは側にいるよ」
「なら、ずっと一緒です!アリスは、エイスが見捨てない限り、ずーっとエイスのモノなのですっ!」
「………っ!」
そう言われたエイスは目を見開き、固まる。
アリスはそんな彼に気づき、首を傾げる。
「エイス……?」
「アリスは……オレのモノ?」
「………そうですよ?だって、エイスがアリスを見つけたのです。拾ったからには最後まで責任を取るのですよ?」
アリスは嬉しそうに、無邪気に微笑む。
その言葉を告げられたエイスは……泣きそうな顔で微笑む。
「アリスはオレの……オレだけのモノ……」
それはなんて魅力的で、なんて幸せなのだろうか。
自分だけのモノ。
自分だけが大切にできるモノ。
大切なモノを持たない、孤独なエイスにとってそれは彼の心を魅了して止まない宝石──。
「アリス……オレの、アリス」
「エイス!」
アリスは幸せそうに彼に抱きつく。
抱きつかれたエイスもとても嬉しそうで……。
だから、気づかなかったのだ。
抱きついたアリスが、その少女の見た目に似合わぬ……大人びた、恍惚とした笑みを浮かべていることに………。