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『英雄』シリーズ

夜明け前に死んでしまった英雄と 奥方様と妹

作者: 松ぼっくり

この小説は時代劇にあまり馴染みがない方でも読んでいただけるように、なるべく今風の言葉づかいで書いてあります。


人物の呼び方も『受領名ずりょうめい』を使わずに教科書に載っているような名称を使用しています。


違和感があるかも知れませんがご了承ください。


基本は史実ですが想像が加わっています。ファンタジー要素はありません。

〜プロローグ『奥方様』から『妹』に届いた手紙〜



 天保10年、韮山に住む義姉から手紙が届いた。

 渡辺崋山(わたなべかざん)という田原藩の家老が、蘭学を嫌う者達に『蘭学者達の元締め』として(おとしい)れられて、ほぼ無実なのに牢屋に繋がれてしまったそうだ。

 このとき韮山代官である兄も関係者として厳しい取り調べを受け、老中・水野忠邦(みずのただくに)様のとりなしがなければ危ないところだったと、十二代将軍・家慶(いえよし)様お付きの御小姓(おこしょう)で兄の友人でもある権太泰従(ごんたやすより)様が教えて下さった。

 地獄の沙汰(さた)も金次第で、牢屋の番人に賄賂(わいろ)を渡せば牢屋での生活も少しばかり良くなるらしい。渡辺崋山殿を師と仰ぐ兄は何とか金銭援助をしたいが、多額の借金を抱える我が家の懐事情(ふところじじょう)では難しい。

 健気な義姉は、自分の嫁入り道具などの私財を売って崋山殿への援助にしたいと考えているらしい。大奥に勤める私の伝手(つて)で良い買い取り先を紹介して欲しいと(つづ)られている。

「義姉上様、申し訳ありません…。」

 義姉は我が江川(えがわ)家が、かつて主君と仰いだ北条早雲(ほうじょうそううん)公の流れを()む名家のお姫様だった。人にかしずかれて大切に育てられた方だったのに、借金を抱える我が家に嫁いでからは、下女に任せるはずの料理や掃除も担っている。

 かたや、そんな貧乏な旗本の妹に過ぎない私は絢爛豪華(けんらんごうか)なここ大奥で、中臈(ちゅうろう)として華やかな衣装を着て不自由なく過ごしている。

 義姉の願いは承ったが、この国の未来を憂慮(ゆうりょ)して清貧(せいひん)に生きている二人のために、私にも何かできることはないだろうか…。



〜『大塩平八郎の手紙』〜

 大坂で大事件を起こし指名手配中の『大塩平八郎』が幕府老中・大久保忠真と脇坂安董に宛てて送った手紙が天保八年三月四日、韮山代官所の管轄である三島・塚原新田にて盗難にあい、ばらばらに散らばった状態で発見され代官所内は騒然となった。

 何十枚と書き連ねられた手紙は江川家の手代によって全て回収され、韮山代官・江川太郎左衛門英龍の元に届けられた。

 英龍は強い意志を感じる大きな目に高い鼻という端正な顔立ちと六尺に迫る長身、神道無念流剣術免許皆伝の偉丈夫ぶりゆえ、性格は温厚なのに対峙したものを緊張させてしまう。みるみる強張っていく英龍の顔を見て、手代達の背筋に冷や汗が流れた。

(これは…老中や奉行の不正無尽の告発と林大学頭(昌平坂学問所の学長)に大塩が大金を融通した証文だと…?なぜ大坂の与力の隠居に過ぎない大塩が幕府首脳陣の秘密を握っている?)

「殿様、いかがいたしましょうか?」

「これをそのまま上申したら揉み消されるに決まっている。これが万が一天下に必要となる時が来るやも知れぬ。全て書き写せ。」

 英龍の鶴の一声で韮山代官所の役人達は総出で『大塩建議書』の書写に取り掛かった。


〜江川太郎左衛門英龍の『忍』の時代〜

 天保という時代は江川太郎左衛門英龍にとって、母の遺言である『忍』を体現したような、苦難に耐える日々であった。

天保元年に母・久子が亡くなると、翌天保二年は家中で『乱心事件』があり、天保四年は飢饉に襲われた。

 天保五年に父が亡くなり三十四歳で家督を継ぐと、天保七年は冷害により再び飢饉に陥った。

 天保八年は二月に『大塩平八郎の乱』が起こり、四月には蘭学の師・幡崎鼎が長崎で捕縛されてしまった。

 天保九年は懇意にしていた直心影流(じきしんかげりゅう)の剣術師範・井上伝兵衛(いのうえでんべえ)が何者かに殺され、兄・伝兵衛を殺害した容疑者を追って長崎まで行こうとしていた弟の熊倉伝之丞(くまくらでんのじょう)もまた、小倉(こくら)で容疑者と接触したとの手紙を息子に送った後、消息不明になった。

 天保十年は異国船に対抗すべく江戸湾を中心とした御備場(おそなえば)(砲撃用の砲台と歩兵の駐屯所)を見分する大役を、蘭学嫌いで渡辺崋山や高野長英(たかのちょうえい)を敵視している鳥居耀蔵(とりいようぞう)と競い合う形で任されてしまい遺恨が残った。それが遠因となり『蛮社の獄』で渡辺崋山、高野長英らが捕らえられ、英龍も厳しい取り調べを受け、蘭学に通ずる者達は戦々恐々となった。

 しかしその翌年の天保十一年、『アヘン戦争』が勃発。ようやくこの国の危機を肌で感じた政界は大混乱となった。

 今こそ西洋式の軍事力を取り入れるべきと、天保十二年五月にこの国で唯一の西洋式砲術家・高島秋帆(たかしましゅうはん)を長崎から招き弟子入りし、武蔵国(むさしのくに)徳丸原(とくまるがはら)(東京都板橋区高島平)で日本初となる西洋式砲術の公開演習を行う手筈を整えて成功させた。

 この年の閏正月には院政を敷いていた前将軍・家斉(いえなり)が歿しており、水野忠邦が『天保の改革』に舵を切った。しかし改革を強行するために鳥居を敵陣への刺客として重用して厳しい取り締まりや反対派閥の弱味を握って陥れたりと後ろ暗い手を使ったため、反発も多く失敗に終わった。

 天保十三年には高島秋帆が長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として逮捕・投獄され、さらに罪状に『謀反』の疑いが加えられた。

 天保十四年閏九月、天保の改革が失敗すると鳥居は水野を裏切り、反水野派の老中・土井利位(どいとしつら)に機密情報を流し水野は老中を罷免された。

 その年末、オランダ国王ウィレムⅡ世が内密に『開国勧告(かいこくかんこく)』をしてきた。イギリス・フランスの次の狙いは日本だと。イギリス等が攻めてくる前に長い付き合いの日蘭で条約を結ぼうと、旧知の仲の日本に対し大変好意的な内容であった。しかし水野を追い出した後の首脳陣には外交の危機を乗り越える気概と手腕を持つものが居らず、オランダには返事をしなかった。

 天保十五年六月にはオランダが、今度は軍艦を派遣して正式に一か月後に『国書』を届けると言ってきた。弱り切った老中首座・土居はとうとう水野の再出馬を決めた。失脚からわずか一年で不本意にも復活させられた水野は、自分を裏切って土井に寝返った鳥居を許すつもりはない。

 ようやく事態は動き出すかに見えたが、鳥居はまだ水野に対して脅迫の『切り札』を持っている。


 西洋式砲術の師、高島秋帆が逮捕されてから二年が経った。時は天保十五年、英龍は四十四歳になっていた。高島の逮捕は鳥居耀蔵の仕業であるが、なまじ『謀反』という死罪に当たる重い疑いをかけたせいで、信憑性に欠けるとして評定所も迂闊に判決を下せずにいる。

 英龍は頭の中で事件を整理する。

(今一番大切な事は高島秋帆先生を劣悪な環境からお救いすること。どんなに潔白を訴えようと、一度逮捕された以上無罪放免は有り得ない。可能な限り軽微な刑で済ませるよう、落としどころを探らなければ…。次に鳥居とその手下・本庄をお縄にかけること。失脚だけで終わらせてなるものか。)

 英龍は気持ちを奮い立たせ、遠山景元の家に向かった。


〜遠山景元の反撃の狼煙〜

 水野の天保の改革の奢侈禁止令(しゃしきんしれい)に真っ向から反発した遠山は現在、北町奉行の任を解かれ大目付という閑職に追いやられている。しかし己の信念を一切曲げず水野にも鳥居にも屈せず水面下で反撃の準備をしていた。

 遠山と勝海舟(かつかいしゅう)の父・勝小吉(かつこきち)や、英龍の盟友である川路聖謨(かわじとしあきら)は直心影流の同門で、天保九年に井上伝兵衛を殺害した犯人とその裏にいる黒幕の追跡を続けていた。英龍は神道無念流(しんとうむねんりゅう)で流派が違うが、二つの流派は他流試合などの交流が盛んで英龍も亡き井上伝兵衛には良くしてもらっていた恩義がある。

 「遠山様、例の『呪詛事件』の被害者の修験者達は確かに拙者がある場所にて匿っておりますが…。」

 英龍を呼び出した遠山の意図は、かつて鳥居が起訴した『呪詛事件(教光院(きょうこういん)事件)』のことについて聞くことだったらしい。 

 『教光院事件』とは、十一代将軍徳川家斉の寵臣として天保の三侫人(さんねいじん)と呼ばれた者の一人、水野忠篤(みずのただあつ)を断罪するために、水野の部下である南町奉行の鳥居が捏造した事件である。

 鳥居は天保十三年、配下の本庄茂平次(ほんじょうもへいじ)を教光院に送り込み、水野忠篤が水野忠邦を呪詛しようと、教光院の修験者・了善(りょうぜん)に依頼して了善が呪詛を実行したとでっちあげた。

この『呪詛事件』という冤罪事件に鳥居耀蔵本人と手下の本庄茂平次が関わっている疑いありと見た英龍は、呪詛を引き受けたとでっちあげられて有罪にされた修験者・了善が鳥居らに口封じのために暗殺されないよう、密かに匿っていた。

「助かったぜ、本庄が絡んでいるものはどんな些細な情報でも必要なんだ。」

「大変失礼ながら遠山様は今…。」

「分かってる、今はもう町奉行じゃねえ。だが俺も勝小吉達もまだ井上先生を殺した奴をしょっぴくことを諦めちゃいねえ。先生の弟、伝之丞が追っていたのは手紙に書いてあったとおり本庄茂平次に間違いねえ。井上先生殺害後、奴は鳥居のもとに逃げ込みやがって手が出せなかった。本庄が鳥居の命令で高島秋帆を捕まえる下調べのために長崎に行った好機を、逆に伝之丞殺害に繋げてしまったことも無念だった。しかし本庄はなぜ井上先生を殺したと思う?」

「…?井上先生は本庄に目をかけていたと聞きましたが、何か知られてはならない秘密を先生に知られたとかでしょうか?」

「ここからはあくまで推測だ。証拠はねえ。だが状況からあながち間違いではないと思っている。

井上先生は本庄がついた、長崎在住の直心影流の師範・尾関三九郎(おぜきさんくろう)に紹介されたとの嘘を信じて、尾関に『本庄を紹介いただいた通り門人にした』と手紙を出した。ところが尾関は本庄の素行の悪さをよく知っていたから『紹介などしていない、本庄にはお気を付けください』と返信してきた。

 本庄に不信感を抱いた先生は弟子に本庄の様子を探らせた。弟子はある日、本庄が『訳あり』そうな男に酒を奢って、その男から『元はある代官の手代』『持っている情報は命に関わるほど重大な秘密』という情報を聞き出していた。と先生に報告した。」

「…代官の元手代、重大な秘密…。」

英龍はなぜ遠山が自分を呼び出したか、本題はこちらにあったことを理解した。今はもう遠く感じる昔、父が(しょう)を、自分が笛を、『訳ありの男』が篳篥(ひちりき)を合わせて演奏したことを思い出す。

「その『訳ありの男』に心当たりはあるな?」

「…はい。以前拙者の元で手代をしていた町田亘(まちだわたる)だと思います。」

「そうだ。その町田はお前んとこの手代の仕事を自ら辞めたあと、借金を重ねて貧民街に逃げ込んだ。偶然にも同じ裏長屋に本庄が住んでいた。」

「まさか町田から『あの手紙』の秘密が鳥居に流れるとは…面目次第もありません。」

「お前が責任を感じることはねえ、あくまでばらした奴が悪いのさ。お前も他の家臣達も立派に秘密を守り通してるじゃねえか。その秘密はほぼ全ての幕府高官達の命運を握っているだろうからな。」

「遠山様はその秘密の見当もついておられるのですね。」

「まあな、あの手紙が三島で見つかった時は天地がひっくり返ったかのように大騒ぎしたのに、見つかった後は内容について一切漏れてこなかったからな。こりゃそうとうヤバいネタだろうと普通は気づくぜ。上の連中も隠すのが下手くそだな。ともあれこれでほとんどの事件が繋がった。」

 遠山はふー…、とひと息ついた。頭の中で整理しているようで時々間を空けながら少しずつ言葉を紡いでいく。

「まず、長崎でさんざん悪事をやらかして町年寄である高島秋帆に叱責された本庄が江戸に来たのは天保八年。江戸に来た奴は直心影流のわずかな伝手を使って、鳥居の屋敷に出稽古する井上先生の道場に弟子入りした。その年の内に幡崎鼎は長崎で捕縛された。江戸に出てきた本庄が『幡崎鼎はシーボルトの小間使いだった』という情報を鳥居に取り入るために使い、鳥居は蘭学者弾圧の手始めとして長崎に刺客を送った。高野長英さえ気づかなかった幡崎の正体を見破った本庄は、その情報で鳥居に取り入ることに成功したんだ。」

 徳川御三家である水戸藩の庇護を受けていた幡崎先生があれほど急に捕縛されたのはこんな裏があったのかと、英龍も遠山の推理話に納得がいった。

 幡崎鼎はシーボルトの小間使いに過ぎなかったが、講義や書物を盗み見ただけで蘭学を吸収し、高野長英が認める程の知見を持っていた。

「江戸に出てきたばかりの本庄は貧民街に住み着いた。そこで『妙に字が巧みな訳ありの男』に出会う。」

「はい、町田は特に役所用の書が巧みで書役として重宝していました。」

「鳥居は使いみちはあっても信用ならない本庄を、手中に置くように見せかけて他の者に見張らせていた。ある日、本庄が『訳ありの男』と話し込んでいた。鳥居の配下はその訳ありの男の顔を見たことがあった。その男の正体にアタリをつけた鳥居は『ある手紙』の秘密を知っているかもしれないとにらみ、本庄に聞き出すように指示したんだ。」

「拙者が書き写させた『大塩平八郎の手紙』のことですね。町田は確かに韮山で『大塩平八郎の手紙』の書写を担当していました。」

「鳥居はお前の家と浅からぬ縁があるからな、本庄を見張っていた鳥居の配下はお前のところに居た町田の顔を覚えていたようだ。」

 鳥居耀蔵の父である大学頭・林述斎(はやしじゅっさい)は幼少時に英龍の母・久子の父である安藤如淡(あんどうにょたん)(あんどうにょたん)から講義を受けていたため、林家と江川家は家族ぐるみの付き合いがあった。

「鳥居が本庄に命じたのは『町田から大塩平八郎の手紙の詳細を聞き出せ』ということですね。そして本庄を怪しんでいた井上先生の弟子は、本庄が町田に酒を飲ませ情報を引き出そうとしていた場面を目撃して先生に知らせた。」

「井上先生はお前とも懇意にしていたからな、折を見て本庄を問い詰めたんだろう。『江川の家の者に何をした』と。おそらくその時にはすでに町田は殺されていたんだろうな。先生の弟子が『先生に報告した直後、町田が行方不明になった』と先生に伝えた、と証言している。」

「町田殺害を勘づかれた本庄は井上先生を闇討ちし、発覚を恐れて鳥居のもとに逃げ込んだということですね。」

「鳥居は自分が命じたことだから本庄を庇った。だが、井上先生の弟子は先生の弟・伝之丞に本庄がやったに違いないと告げた。」

「遠山様もそのお弟子からお聞きになったのですか?」

「俺や勝みたいなろくでなしはな、鼻が利くんだよ。裏がある人間てのがだいたい分かる。お前や井上先生の様に簡単には人を信じねえ。井上先生の葬儀で大げさな泣き芝居をしている奴がいたから目を付けていた。証言を聞いて確信に変わったが、証拠がなかった。」

「今は証拠があると?」

「推測だ、と言っただろ。証拠があったらとっくに奴をしょっぴいてるさ。お前を呼んだのも、ここまで話したら何か町田について俺の知らない話があるかもなと思ったからだ。どうだ、何でもいい。何か思い当たることはないか?」

「すみませんが今すぐには思い当たりません。ただ、もし今後も捜査するなら、うちの柏木総蔵(かしわぎそうぞう)を連れて行ってください。」

「分かった。こっちは勝に行かせる。」

「よろしくお願いいたします。大塩の捜査資料は信憑性があるものでした。大塩が『老中や奉行の誰かと繋がっており、出世を夢見る余地があった』というのも事実です。これを鳥居に掴まれたと…。」

 ここまで言ってから英龍ははっとする。急いで川路聖謨に聞かねばならないことができた。

「は~、なるほどねえ。上の連中は大塩を利用した挙げ句、出世を望んでいた大塩を切り捨てた。大塩は逆上して『乱』を起こしたが失敗して死亡。鳥居は町田から得た『大塩の手紙』の情報を元に大塩と繋がっていた連中の弱味を握って陥れてきたってことか。話が繋がってきたな。しかし上の汚職まみれの連中といい大塩といい、皆何でそこまでしてわざわざ出世なんざしたがるかねえ、俺はさっさと隠居して悠々自適に暮らしたいがねえ。」

 ぼやく遠山の横顔を見ながら、英龍は(無理だろうな)と思った。

 この前代未聞の内憂外患の難局に幕府が有効な手を打てずに民の不信を買っている中、遠山のような人気のある幕臣は大変貴重な存在だ。若い頃『遊び人金さん』として江戸の町に溶け込んでいたから、民を見守る目には他の幕僚にはない温かさがこもっている。その威風堂々とした佇まいも漠然とした不安を掻き消してくれるのだろう。

 英龍も遠山との会話でこの複雑に絡み合った数々の難題が少し綻んだことで、長く続いた重苦しい靄の先から僅かに光が差し込んできたような心地がした。しかし、

「遠山様、本庄は鳥居の配下、政治絡みです。裁くには鳥居の罪を明らかにし、その罪状と判決に合わせなければならないでしょうが…。新しい奉行の方にどのようにお伝えなさるのですか?」

 遠山はニヤリと口の端を上げ、

「確かに本庄は町田と井上先生のことはともかく、他にもゴロゴロ政治絡みの余罪があるからな。まあ、そこんとこは考えておく。なあ江川、俺はもう一度町奉行になるぜ。この事件だけは絶対に自分で裁いてみせる。」


〜不正無尽〜

 川路聖謨は文政十年、寺社奉行(じしゃぶぎょう)吟味物調役(ぎんみものしらべやく)当分助(とうぶんすけ)となり、大坂東町奉行所与力・大塩平八郎と対面した。

 大塩はこの時すでに陽明学者として名を馳せており、同僚の与力達や商人・豪農を門人に抱え、大坂で一大勢力を築いていた。

 その大塩が「水野忠邦様のお耳に入れたいことがある」と、大坂で行われている『不正無尽』を調べ挙げた証拠だという書類を掲げ、当時寺社奉行だった水野忠邦へ目通りを願った。川路は自分よりさらに上役の水野に取り入ろうとする大塩の腹の中に出世の野心を感じ取り、

「まずは拙者から水野様に貴殿の人となりをお伝えしておきましょう。」

とはぐらかした。

 川路の実父は豊後国日田(ぶんごのくにひだ)(大分県日田市)の代官の手代で、武士階級ですらなかったが二百両という大枚で『御家人株』を買って武士階級となった。川路家の養子になった聖謨は勘定奉行の下級吏員資格試験である筆算吟味に合格したのち、才覚と人望で出世を重ねて下級武士の羨望を浴びていた。

 自分の才覚を信じて疑わない大塩が、川路が出世できるなら自分にもできるはず、と出世を願ったであろうことは容易に想像できた。

 川路は直属の上司である水野に大塩が調べ挙げたという『不正無尽』のことを相談した。老中、奉行、大名だけでなく公家まで名前が挙がっていることを伝えると、事を重く見た水野は、

「わし一人では抱えきれぬ。大久保様に判断していただこう。」

と老中・大久保忠真と同僚の寺社奉行・脇坂安董を巻き込んだ。

後日、大久保と脇坂は川路の仲介のもと、密かに大塩と接触し、『不正無尽』の調査を命じた。老中から直々に依頼されたという自信が、大塩に立身出世を期待させてしまった。

 しかし、大塩が三年かけて調べ挙げた『不正無尽』は、法に引っ掛かるギリギリのものであり、また告発された者は幕府重臣から格式高い公家まで含め百四十人を超えており、余りの事の大きさにとても表沙汰にはできない。

 さらに悪い事に大塩は、捜査を命じておきながら自らも不正無尽に手を出した老中・大久保と寺社奉行・水野をあえて報告内容から外していた。これは正義より大久保、水野に取り入ることを選んでいる証拠である。

 川路は大塩に影響力が大き過ぎて使い所を間違えば大変なことになると、遠回しに『不採用』を告げたが、素晴らしい功績だと信じて疑わない大塩は諦めなかった。そしていつまでも出世の声が掛からない大塩は水野らに捨てられたことを悟り…。

 大塩が兵を挙げて討たんとした大坂東町奉行・跡部 良弼(あとべよしすけ)は水野忠邦の実弟である。

 大塩は乱が鎮圧されると逃亡した。武士が崇高な主張を訴える一番有効な手は『命を賭す』である。自らの命を省みない潔さこそが武士が尊ばれる所以であるはずなのに、大塩は一ヶ月も逃げていた。これは明確に味方を見捨てても自分は助かりたいという意志である。では大塩は生き延びて何をするつもりだったのか。

 

〜『三すくみ』が崩れた先は〜

 遠山と話をした翌日、気持ちが急って仕方がない英龍は川路にどうしてもと面会をねだった。

 「単刀直入にお聞きしたい。大塩は水戸様と繋がりがあったのだろうか?」

「ははっ、まさに単刀直入ですな。|水戸斉昭《みとなりあ様と直接の関わりがあったかどうかは分かりませんが、水戸藩と関わりがあったかことは事実でしょう。水戸の藩士が幡崎先生を連れて大坂に行ったことがあるそうです、幡崎先生は江戸に出る前は大坂で蘭学の塾を開いていたので、大塩と知り合いだった可能性も大いにあります。幡崎先生に大塩との縁を取り持ってもらったのでしょうな。」

「水戸藩は大塩に会ってどうするつもりだったのでしょうか?」

「それはやはり『廻米』でしょうなあ。あれだけの飢饉のあとですから。大塩が大坂奉行を「大坂市民を飢え死にさせるつもりか」と糾弾した時と時期は異なりますが、その糾弾した相手と同じようなことを大塩自身がしていたということになりましょうな。米を余所に売ること自体は別に犯罪ではないのですから。」

「まさか幡崎先生にまで繋がるとは…。」

「水戸藩は昌平坂学問所の佐藤一斎(さとういっさい)先生とも関わりがありますからな。」

「大塩も佐藤先生と懇意で、その伝手で林大学頭は大塩に千両もの金の調達を依頼した、と。」

 英龍は川路には『大塩の手紙』の全ての内容を伝えてある。

「大坂の与力に過ぎない大塩が林大学頭や水戸藩に金銭面で融通を利かせる…。大塩は大坂の政治の腐敗を訴えておりましたが、自身も豪商と深い関係で大金を動かす伝手を持っていた。拙者も大坂にて大塩が大きな顔をしているところを見ています。」

「水戸も林大学頭も『大塩の手紙』の宛先だった。特に大学頭は危なかった。息子の鳥居が政敵である拙者に泣きつくほどに。やむを得ず大学頭宛の手紙の存在そのものを隠蔽しました。」

「大塩が生き延びて向かおうとした先はおそらく水戸。大塩の最初の算段では、乱の混乱に乗じて水戸に亡命し、水戸を動かして不正に手を染めた幕府の高官達を刷新するつもりだった。水戸様は正義感の大変強いお方ですからな。不正をした老中や奉行本人に宛てて手紙を出したのは、正義感を振りかざした大塩らしい『最後通牒』のつもりだったのでしょうな。」

 しかし疑問がある。

「大塩は水戸様が受け入れてくれるという、何か確信になるものがあったのだろうか?」

「確信があったというより、もはや他にすがるものがなかったんでしょうな。かくいう拙者も大塩を見捨てた一人ですが。」

 川路は自嘲を多分に含んだ苦笑いを浮かべた。

「鳥居の切り札は町田から聞き出した大塩の手紙に書かれた水野様の不正無尽の証拠。奴の事だから独自の捜査を加えて言い逃れできない程のウラを取っているはず。」

「おそらく水野様お一人の罪では済まされない程の、少なくともお家断絶以上の罪を問える切り札でしょうな。水野様は、前将軍とその側近達によるやりたい放題な政治を一刀両断する権力を手に入れるためとはいえ、それだけのことをしました。」

 水野忠邦はこの時代にはまだ少なかった『日本の西洋軍事化』『開国』の必要性を理解した貴重な重鎮だった。しかし前将軍・家斉が生きているうちは頭を押さえつけられ、思うような政治改革ができなかった。   

 やがて川路は決意を秘めた眼を英龍に向けた。

「これまで『蘭学を憎悪する保守派の鳥居』と『国力をあげ開国をして国を栄えさせる水野』と『最初だけ蘭学に頼り国力をあげた上で攘夷をする水戸』の『三すくみ』でした。しかし鳥居が『大塩の手紙』という切り札を手に入れたことで力の均衡が崩れた。

 鳥居は『不正無尽』の証拠を楯に水野様を陥れ、水戸が大塩から『廻米』を得たという証拠によって水戸の斉昭様を強請ることも可能になった。水戸の弱みを御三家の尾張や紀州に流せば、家定様の次の『将軍後継者』問題にも及びましょう。蘭学嫌いの鳥居が台頭すれば、再び蘭学の弾圧も起こるはず。江川殿、貴殿が一番の『標的』になるのは目に見えている。蘭学の『最後の砦』の貴殿を葬ればこの国の蘭学の息の根を絶やすことができますからな。」

 英龍自身は命など惜しくもないが、蘭学で得た知識・技術やオランダとの信頼関係を失うわけにはいかない。

「ここまでこじれた事態に決着を着けるにはもう一つの権力の協力を頼むしかありません。」

「…『大奥』を巻き込め、と?」

「そうです。」

「…妹を使えと…。そういうことですか?」

「はい。この問題にはこの国に住む総ての民の命運がかかっている。このまま我々が鳥居に屈したら、女・子供・民衆みな道連れで西洋の圧倒的な軍事力に大敗するでしょう。なに、鳥居のように人道に背くような悪事を働くわけではありません。あくまで武士道を少し反れるだけ。奴らと同じところまで堕ちるわけではありません。」

「…鳥居を糾弾できたとして、水野様の罪も公になります。水野様はそれでよろしいのでしょうか?」

 前将軍・家斉は特定できるだけで十六人の妻妾を持ち五十三人の子女を儲けた好色家で、大奥には千五百人もの人が居住していたという。民の窮状を見て見ぬふりをし、気に入った者達ばかり側に置き、贅沢の限りを尽くしたせいで幕府の財政は破綻した。

 家斉が亡くなるや水野忠邦は先述の『呪詛事件』の水野忠篤を含む有害な側近達を罷免し、大奥の贅沢を戒めようとした。しかし大奥から激しい抵抗に遇い失敗に終わっている。今、大奥に協力を求めたとしたら、憎き水野を糾弾する口実とされてしまう。水野は再び引きずり降ろされてしまうだろう。

「水野様はもう鳥居と刺し違える覚悟ができておりますよ。これは水野様ご本人から江川殿への伝言です。」

(…。)

 妹『たい』の人生を狂わせかねないこの提案に、英龍はどうしても頷くことができなかった。


〜町田の遺した手紙〜

 小柄で痩せ型、色白で眉目秀麗な美青年・柏木総蔵と不良旗本の見本のような勝小吉が相談している。

「まずはもう一度、町田と本庄が住んでいた裏長屋の家主(身元引受人)を訪ねたいのですがよろしいでしょうか?」

「分かった、早速行こう。」

 勝と柏木、直心影流の数人は下谷山崎町(しややまざきちょう)に向かった。

「悪いが今一度、町田が失踪した日のことをよく思い出してくれないか。」

「そう言われましても…、正法寺(しょうほうじ)に墓参りに行くとか言って出かけたという以上は分かりません。」

「正法寺は何度も調べたんだが…、やはりそれ以上は知らないか。」

「ん?正法寺?違うよ、本法寺(ほんぽうじ)だよ、確か」

 勝と家主の会話を聞いて、長屋の住人の老婆が口を挟んできた。

「本法寺?ほんとかね、たきさん」

「ああそうだよ、確か昔お世話になった方の墓参りに行くって南東の方角に行ったよ」

「本法寺…。」

 柏木総蔵の目の色が変わった。

 家主も戸惑いを隠せない。

「しかし本法寺は江川様の菩提寺じゃないか、江川様から逃げ回っていたはずの町田様がわざわさ見つかる危険をおかして江川様ゆかりの墓参りに行くのかい?それに町田様の『お世話になった方』って言えば…。」

 総蔵を見る家主の目が気まずそうに逸らされた。


「『塔』の周りを探してください。見つけて欲しいものならそれほど深くは埋めていないはずだ。」

「なあ総蔵、なぜ『墓』じゃなく『塔』なんだ?一体何があるってんだ?」

「何があるかは分かりませんが、何かあるならここだと思います。」

「何の答えにもなってねえな。」

 勝は呆れているが、総蔵にだって何があるかなど分からない。ただ、町田が『世話になった人』に何かを託すならこの塔だと思った。 この塔には『とある事件』で亡くなった者達が合葬されている。

「箱がありました!!」部下の言葉に勝と総蔵の全身の血がざわりとが沸き立った。

 何の変哲もない、飾り気のない木箱に油紙で厳重に護られた紙が入れられていた。

  勝が(頼む、何でもいいから手掛かりになるものを書き残していてくれ!)と祈りながら畳まれた紙を開く。字が巧かったというのは本当らしい。手紙には流麗な字で『白』『黒』という字と『数字』がひたすら繰り返されている。

「これは…碁の手控えか?」

「碁…?」

勝の呟きに総蔵は答えない。答えられないほど心の中は激しく動揺していた。


〜妹『たい』〜

 英龍には妹が二人いる。末の妹・たいは今、大奥に出仕して将軍世子(しょうぐんせいし)家定(いえさだ)御簾中(ごれんじゅう)(将軍世子の正室の呼び名)である鷹司任子(たかつかさあつこ)に中臈格として仕えている。

 たいには顔半分に疱瘡(ほうそう)の痕がある。たいの穏やかな性格と深い教養は中臈格として申し分なく、顔の痕ゆえ見初められることがないからこそ愛憎うごめく大奥で絶大な信頼を得ていた。

 (上様は穏やかな御方だから大丈夫だと思いたいが、たいが咎められることも大いにあり得る。母上が生きておられたら、たいを巻き込むことを許さないだろうな。不甲斐ないと叱られるはずだ。)

 母の法事に向かう英龍の心はどうしようもなく沈んでいた。


〜兄と妹の共闘〜

  天保十五年七月十五日、浅草本法寺にて母の十三回忌の法要を終えた後、屋敷に帰宅するや、兄は人払いした上で私に頭を下げた。

「高島先生をお救いするにはもはやこの手しかない。この手紙に高島先生を陥れた者達の悪行の全てを書いてある。上様にご覧いただけるよう、大奥の信頼できる御年寄に渡してほしい。幕府の高官の名もある。くれぐれも内密にしてほしい。」

 兄の悲痛な面持ちはきっと、私の心配をしてくださっているからだろう。でも、武士としての誇りを曲げて私に頭を下げる兄の苦しみを少しでも肩代わりすることができるなら私は嬉しい。

「どうか頭を上げてください。兄上様が私に頭を下げなければならないこととはきっと、志高い方々のお力だけではどうにもならぬ、この国の一大事なのでしょう。大丈夫です、私も江川の家の者。やれる限りやってみましょう。」

 私が明るい声でそう言っても、兄はせんぶり茶を飲んだかのように渋りきった顔をしていた。

 兄が残る部屋を辞したあと、私は久しぶりの里帰りでようやく会えた義姉と膝を並べて茶をすすった。

「大塩が富士宮に居るという噂を聞いた殿様が変装して内密調査に行っている間、私は家の者に殿様の不在を気づかれないように毎食ご飯を二人分食べていたのよ。日頃から粗食に慣れているから、たくさん食べるのはつらかったわ。でもちゃんとお役目は果たしたわよ、家の者をだまし通したわ。」

 と義姉は明るく言っているが、なかなかに肝の据わった話である。

 義姉が我が家に輿入れした日、楚々として美しく優しそうな方で、この方ならきっと兄を幸せにしてくれるだろうと思った。

 私はいわゆる『お兄ちゃん子』だった。顔に痕を持つ私の行く末を心配してくれた兄はお稽古ごとには厳しかったが、普段はとても可愛がってくれた。

 兄にも義姉にも幸せになってほしかった。質素な着物をまとい手も荒れてずいぶん逞しい性格になった義姉を見ると、思わず謝罪の言葉がこぼれ出た。苦労をかけて申し訳ない、と。

 すると義姉はくすくすと口を袖で押さえて笑った。

「殿様と同じことをおっしゃるのね、さすが兄妹ね。心配してくださるのは嬉しいわ、でも大丈夫よ。殿様は人を見た目で判断する方ではないから、私が年を経て多少くたびれてしまっても、変わらずに妻として大切にしてくださっているのが分かるから。あかぎれがあるこの手のことも、『家庭に尽くしてくれる尊い手だ』と褒めてくださったの。殿様は『世直し大明神』とまで言われてたくさんの人に慕われていて…。尊敬できる方の妻になることができて私は充分幸せですよ。」

 何だかのろけられてしまったが、義姉が幸せなようで安心した。

 兄は「今は皆が苦しい時、上に立つ者が率先して辛苦を味わわなければ民の心は救われまい」と、常日頃から誰よりも質素倹約を心掛けている。着物は自分で当て布で補修して、箸なども自作して長いこと使っている。

 使用人が少ないから庭の草も伸び放題、義姉は自ら畑を耕して野菜を作っている。障子が破れたら反古紙(ほごし)を貼っている。畳も何年も替えていないため、着物や足袋にくずが付いて払うのにひと苦労だ。

 心では贅沢に慣れることなく清貧に暮らそうと思っていても、大奥というこの国で一番華やかな場所に居るうちに、私もずいぶん贅沢に染まってしまっていたらしい。兄や義姉の、ギリギリまで身を削っている本気の倹約を目にして己を恥じた。

「殿様はご自分では気づいておられないけれど、感情がお顔に出るのよね。おたい様にお会いになる前、眉間に深いシワを寄せてずいぶん悩んでいるご様子だったのよ、おたい様に何か無茶なお願い事でもあったのかしら?」

私が黙ってしまうと、

「殿様は高島先生に、崋山先生や幡崎先生を重ねてしまっているわ。今度こそは救い出してみせると意気込んでも空回りしてしまって、うまくいかなくてずいぶん悩んでおられたの。」

 高島先生を救い出せなければ、兄は一生自分を赦せず苦しみ続けるだろう。兄の叫びを上様に一番印象深く渡すには…。私が上様に直接手紙を渡そう。『妹が命を賭して訴えた』と、うまく美談にしてしまえば兄の望みはきっと叶うだろう。そう思っていたのに義姉は一枚上手だった。

「殿様は心配で仕方ないようだけれど、私は大丈夫だと思っているわ。おたい様はあなた様に何かあったら殿様がますます自分を許せず、自分を責めて一生苦しみ続けると分かっているでしょう?無茶をしなくてもいいのよ。殿様にたくさんの味方がおられるように、優しくて誠実なあなた様にもきっと味方がいるはずよ。どうかお一人で背負わないでね。」

と、やんわりと釘を刺された。玉砕覚悟では駄目らしい。確かに兄をこれ以上苦しめるわけにはいかない。

 

  私などに全幅の信頼を寄せてくださっている、将軍世子家定様のご正室であられる鷹司任子様はこの頃、重圧に耐えかねて体調を崩している。

 私は直属の上司である御年寄の梅丘様に相談した。梅丘様は口を引き結んでしばらく考えたあと、

「上様にそなた一人でこの手紙を渡す前に、よくぞ私に打ち明けてくれました。これはそなた一人で背負うものではありません。そなたに万が一のことがあれば、心労を重ねている任子様をさらに悲しませ苦しめてしまうでしょう。そなたという『大黒柱』を失うわけにはいきません。御小姓の権太ごんた様にもよく相談して段取りを決めましょう。」

 とおっしゃった。梅丘様と権田様の相談により、上様と任子様がお会いする時に任子様からお渡しいただこうということになった。病に苦しむ嫁の願いを上様が無下になさることはあるまいと。

 

 天保十年の暮れ、秋頃から床に伏せている任子様を(しゅうと)である上様が見舞いに来られる日が決まった。(これは千載一遇の好機ね、これを逃したら後がない…。御簾中(ごれんじゅう)様には利用する形になって申し訳ないけれど…。)

 意を決して任子(あつこ)様に声を掛ける。

御簾中(ごれんじゅう)様、実は折り入ってお頼み申し上げたいことが…。」

 私の緊張を察してくださった任子様は微笑みを浮かべながら首を横に振った。最後まで言わせないのは私を無礼者にさせないためのご配慮である。 病で苦しみながらも深い情けをかけてくださるこの方を巻き込むことに胸が痛む。

「その手に持っている手紙のことかしら、それを上様にお渡ししたいの?いいでしょう、引き受けましょう。私には政治の難しいことは分からないけれど、いつも誰よりも謙虚なそなたがそこまで覚悟を決めたことなら、さぞ大事な手紙なのでしょう。そなたの今までの忠義に報いることができるなら本望よ。」

 まずは任子様に受け入れていただけて良かった。義姉が言うように、一人で突き進まず人を頼って正解だった。

 顔に疱瘡の痕があり夫も子もない私は、実家で兄や義姉に一生世話になるのが申し訳なくて大奥に勤めることを決めた。自分の身一つ、どうとなってもよいと思っていた。でも気づけば、こんなにも私に心を寄せて慕ってくれる方々がいたんだと、目が熱くなった。

 お優しい上様も世の中が混乱していることに心痛めておられると権田様よりお聞きしたから、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせて上様の御成りを待つ。


~将軍・家慶~

 将軍・家慶が任子の部屋にやってきた。息子・家定と任子が頭を下げて迎える。

「楽にしてよい、今日は見舞いだからな。体調はいかがか?」

「ご心配いただきありがたく存じます。皆が心の籠った世話をしてくれるお陰でいくらか元気が戻ってまいりました。」

 元気になったと言いながら任子の顔色は優れない。すっかり痩せ細ってしまい、床につけた両手は震えている。

 家慶はその震える手の中に書状が伏せられているのを見つけた。

「その書状は余に宛てたものか?見せてみよ、見舞いの席で咎めたりはしない。安心せよ。」

 任子がほっとした表情を浮かべ書状をそっと家慶に渡す。痩せた小さな手から受け取った書状を開いた家慶はその内容の深刻さに驚愕した。

(これは…無実の者を『謀反』で裁く?重臣達の『不正無尽』?水戸と大罪人である大塩との癒着?)

 家慶は思わず怒りの声を上げそうになったが、手紙の下から任子の震える細い指が垣間見え、どうにかとどまった。任子を怖がらせてはいけない。手紙をそっと懐にしまい任子に再び向き合うと、家定が任子の肩を不器用に抱いている。

 家定には障害があり、人に心を開くことがほとんどない。血筋だけなら次代の将軍だが子も望めない。それでも家定(むすこ)任子(つま)を大切に慈しんでいる。家慶は眼に熱いものが込み上げてくるのをぐっと堪えた。

「この手紙、しかと受け取った。これをそなたに託した者を咎めたりもしない、安心せよ。そしてこれを書いた者とこの場に用意した者に、『よく知らせてくれた。感謝する』と伝えて欲しい。今日はもう疲れたであろう、ゆっくり休んでくれ。家定、妻を大切にするのだぞ。」

と言い残すと、家慶は任子のため、滋養ある食事や薬を惜しむことのないようにと医者に指図してから帰っていった。

 こうして英龍の書いた手紙は、無事に将軍の手に渡った。


「この手紙に書かれている全ての事件のウラを取れ。」

 夜、人払いをした家慶は小姓・権太泰従に静かに告げた。将軍に付く小姓は政治絡みの発言はご法度であるから、権太泰従は友人・江川英龍や川路聖謨が苦しんでいても上様にお伝えすることが出来なかった。ようやく事態を動かすことができる、と泰従は友人達の策の成功を心の中でそっと喜んだ。


  家慶は深い悔恨の中にいた。水野忠邦に『天保の改革』の許可を出したのは自分である。

  父やその側近、寵愛を受けた側室達は贅を尽くし、飢饉にも外国船の脅威にも何ら対策をしなかった。

『田や沼や 濁れた御世をあらためて 清く澄ませよ 白河の水』

田沼意次(たぬまおきつぐ)の残した『濁れ(腐敗)』を白河(松平定信)の『清流』で洗い流して欲しいという歌である。

 八代将軍・吉宗の孫である松平定信(まつだいらさだのぶ)に期待をかけて、汚職にまみれた田沼を罷免したのは父自身であった。

 その後を託された松平定信は『寛政の改革』を断行したが、今度は

『白河の 清きに魚の住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき』

という風潮になり、定信の改革のあまりの引き締めに辟易した家斉は、定信のことも辞職に追いやった。

 財政改革に挑んだ田沼。質素倹約によって幕府を立て直そうとした定信。どちらにも『益』と『損』があり、どちらが正しかったかは決められないが、そのどちらも切り捨てた父には失望した。

 父は松平定信を遠ざけたあとは政治に興味をなくし、己の欲ばかり満たすようになった。政治は再び腐敗して、再び飢饉や外国船の脅威に苦しめられた。

 父が亡くなり、もう一度『()野』の『清流』で『濁り』を洗い流すつもりだった。だが、父が院政を敷いていた頃の腐敗は肥大化し過ぎて『()野』まで腐らせてしまっていたらしい。

 若い頃は父に頭を押さえつけられて何もできなかった。十四男十三女いた我が子達の中で、二十歳を越えたのは家定一人だけ。その家定も障害があり、子も望めない。我が子としとの愛情はあっても将軍の職を任せられるとは思えない。

 どんなに将軍として志高くあろうとしても、うまくいかないばかりの人生だったが、この手紙を見て今こそ自分が奮い立つ時だと心が震えた。

 水野を罷免し、水野の影で数々の悪事を働き己の自己満足のために無実の者を陥れた鳥居を裁きにかける。これは自分にしか出来ないことである。

 無礼を承知で、咎めを受ける覚悟でこの手紙を書いた韮山代官の『江川』という者。大奥で将軍に手紙を渡すという危険をおかしても、この手紙を自分に届けようとした『江川の妹』。

『江()』という名の『清流』が、心の中の底無し沼のような濁りを洗い流してくれた。

 江川の妹・たいは京の公家から江戸の武家に嫁いできたばかりの、しきたりや作法など何もかも違っていてつらい思いをしていた任子を、母のように寄り添い導いて支えていたのだと御年寄から聞いた。

 江川の妹の忠義に報いた任子。その任子に不器用ながら愛情を注ぐ家定。たいの献身に支えられ、家定と任子の仲は良好である。

 今日は良い日だった。『清流』の中に小さく揺らめく、白く可憐な梅花藻を見つけたような、瑞々しく爽やかな気分になれた。伊賀者の捜査が済み次第、直ちに世の中にも『清流』を放たねばならない。


 任子を見舞った翌月の弘化二年一月、家慶は直々に『高島秋帆の吟味仕直し』を命じた。高島秋帆だけでなく、水野忠邦と鳥居耀蔵についても調べることとなった。

膠着していた『高島秋帆の処遇』を動かすことができ、もう自分がやるべき事はないと、水野忠邦は翌二月、自分に罷免を言い 渡した家慶に静かに頭を下げた。家慶もまた心の中で、腐敗著しい政治の濁りにまみれながらも、懸命にこの国を守ろうと矢面に立って孤軍奮闘してくれた水野に頭を下げた。

 

 事態は進む。本庄茂平次も逮捕され、鳥居は沙汰があるまで『禁固』となった。

 九月に水野忠邦へ『二万石の減封の上、隠居蟄居』の判決が下り、十月には鳥居耀蔵に『讃岐国(さぬきのくに)丸亀藩(まるがめはん)に永蟄居』が下された。

 しかし上手くいかないこともある。

『謀反』『密貿易』という死罪相当の重罪の疑いをかけられていた高島秋帆は、

『息子に身分不相応の婚姻をさせた。』『親族が役職に就けるよう、賄賂を送った』など、『謀反』『密貿易』の罪文は取り除かれ、微々たる罪だけになったのに対し、下った判決は『中追放の上、武蔵国岡部藩(埼玉県深谷市)に永蟄居』という、理不尽に重いものであった。

 英龍は落胆したが、岡部藩は高島秋帆を表向きは罪人として、裏では客分として丁重に扱ってくれた。英龍はあきらめず、秋帆を無罪放免にするために助力を惜しまなかった。

 嘉永六年、ペリー来航に乗じてようやく赦免された秋帆は、英龍への恩に報いるため家臣として仕えるようになる。


 残るは町田亘、井上伝兵衛、熊倉伝之丞殺害という私罪と鳥居の命による政治絡みを抱える厄介な本庄茂平次の裁判のみ。

 本庄は一度『呪詛事件』で裁かれていて、本庄の飼い主であり南町奉行だった鳥居の判決で『無罪』となっている。さらに騙された被害者であるはずの修験者・了善を『有罪』として裁かせてしまったのは公儀の汚点である。その汚点を公にさらせないという難しい裁判になる。面倒事を担当したくない、責任を取りたくないもの達は遠山景元に全てを押し付けた。

 以前は北町奉行、今度は南町奉行である。難しい裁判であれ、遠山にとっては七年も待ち続けた『仇討ち』である。用意を万端に整えて悲願を達成する時を待つ。


~本庄茂平次の取り調べ~

 弘化三年四月、本庄茂平次の取り調べが南町奉行所で行われた。

「韮山代官江川太郎左衛門のもとで手代をしていた『町田亘』とそなたが同じ裏長屋に居たことは調べがついている。町田亘を殺害したのはそなただな。」

「(町田?)いいえ、町田とは本法寺まで一緒に行っただけです。」

「なぜ本法寺に行った?」

「町田が『世話になった人の墓参りに行く』と言ったからついて行っただけです。」

「それは町田を見張るためか。」

「いえ、暇つぶしです。」

「『世話になった人』と言ったな、町田が世話になった人とは誰か知っているのか?」

「さあ、存じません。」

「だろうな、あの『事件』の時はそなたはまだ江戸に居なかったからな。」

(…?)

「町田が『世話になった人』は『柏木林之助(かしわぎりんのすけ)』。天保二年に十人以上を殺傷する『乱心事件』を起こした人物だ。」

(…!)


~柏木林之助と町田亘~

 柏木林之助(かしわぎりんのすけ)は韮山代官江川家の元締め手代・柏木平太夫(かしわぎへいだゆう)の跡取りとして、江川家家臣の若手を束ねる筆頭という役目を自覚していた。

 一方の町田亘は韮山出身ではなく江戸でたまたま林之助と同じ塾に通っていた、江川家とは特に縁のない者だった。林之助は町田の書の巧みさに驚き、江川家の書役として雇ってもらえるよう上役に掛け合った。 町田は真摯に上役を説得してくれた林之助に対し、まともな職に就ける見通しもなかった自分を取り立ててくれた恩を感じていた。

 江川家の家臣は町田を温かく迎え入れてくれたが、一人だけ人の輪から距離を取っている者に気がついた。その者は望月鵠助(もちづきこくすけ)、江川家を多額の借金から救うために『忠義の切腹』をした望月鴻助(もちづきこうすけ)の息子だと林之助が教えてくれた。

 江川家の多額の借金は贅沢のせいでは決してない。

 代官の職務は治安、民政、徴税のすべてにわたり、行政と司法の殆どの権限を担っていたのに対し、幕府から支給されるのは百五十俵(年収およそ六百万円)のみという非情なほどの薄給であった。江川氏に限らず代官の懐が苦しかったのは、人件費を含む必要経費を幕府が満額支給しないからだった。

 五万石の支配に対して五百五十両は補償され、追加支給はない。災害・暴動など事件事故があって支給額で収まらなくなると代官が自腹で出費しなければならないという、制度として重大な欠陥を抱えていた。良い統治を行おうとすればするほど自腹が増えるのである。

  英龍が管理を任された地は七万石を超え、武蔵・相模・伊豆・駿河・甲斐・伊豆諸島の広範囲に及ぶため、人件費を削ることも容易ではない。

 

 家康公の側室となった養珠院(ようじゅいん)お万の方の縁を頼って紀州家に借金を申し入れて断られた望月鴻助は、主君江川家のために紀州家の屋敷で『切腹』した。この望月鴻助の切腹に深く心を痛めた紀州家は、縁を切る代わりに千両を『香典』として江川家に送った。望月鴻助の切腹はやがて幕府首脳陣の耳にも届き、代官の救済策が協議され、江川家も最大の危機を乗り越えることができた。


 その忠臣・望月鴻助(もちづきこうすけ)の息子である鵠助(こくすけ)は、もとは甲賀忍者の末裔というよそ者だった父が英龍の祖父・英征に『碁』と『隠密』の腕を買われ一代限りの条件で採用されていた手代の地位を受け継ぎ生活を保証され、主君から厚遇を得ていたことから他の家臣の子息達から遠巻きにされ、鵠助も自ら距離を置いていた。

 林之助と鵠助は町田が知る限りでは特に確執があったようには見えなかったが、ある日二人で『碁』をやっていた時、あっという間に負けた林之助が逆上して鵠助に斬りかかろうとして取り押さえられたと聞いた。林之助は『気鬱』と診断され、自宅謹慎となり同僚達は面会を禁じられた。

 韮山の手代の次世代の頭になることを誇りにしていた林之助は、自分が鵠助と他の者達との仲を取り持ちまとめていくのが正しい道だと信じて疑わなかった。鵠助が自分達仲間を見限って韮山を離れようとしていたことが分かると裏切られたと思い、気づけば刀を抜いていたと取り調べで語っていた。

 約一か月の謹慎ののち、林之助は今の江戸役所から韮山役所へと転勤することになった。次にいつ会えるか分からない。町田が今夜にでも挨拶に行こうかなどと考えながら帰宅の準備をしていると、林之助の妻が大声で泣き叫びながら鵠助を探している。

「夫が乱心いたしました!望月様を探しています!息子も叔母も斬られました!!」

 役所は騒然となり鵠助は急いで長屋に向かった。町田は急ぎ英龍に報告に行く。

 町田が英龍達と事件現場に向かった時は辺り一面血の海になっていた。すでに息絶えている者、息はあっても手を指を切り落とされた者が混在し、泣き叫び、うめき声をあげている。

 林之助を取り押さえに向かった鵠助も背と胸元、左腕を斬られ事切れていた。林之助も自害していた。顔にうっすら笑顔を浮かべて…。

 あまりの惨状に耐え切れず町田の意識はぷつりと途絶えた。


 天保二年七月二十三日の夜のことであった。殺された者八名、重傷四人の『柏木林之助乱心事件(かしわぎりんのすけらんしんじけん)』である。これ以降、江川家では林之助が鵠助に遺恨を持つきっかけとなった『碁』を禁じた。

 本法寺にて町田の手紙を発見した柏木総蔵は林之助の歳の離れた異母弟である。

 この事件のあと町田は心身が不安定になり、英龍の配慮で韮山役所に転勤した。そこで『大塩平八郎の手紙』を書き写すことになる。


「『柏木林之助』と『碁』の組み合わせは江川にとって最大の禁忌である。江川ゆかりの者から借金返済に追われている町田があえてその禁忌を破ってまで伝えたいこととは、重大な言伝てであろうと察せられる。この手控えの通りに石を並べたら、しかと証言が出てきたぞ。」

遠山は碁罫紙(ごけいし)を本庄の前に三枚並べる。

「黒石で遺言たぁ考えたな。一枚目は『⛩️』、二枚目は『本』、三枚目は『庄』だ。どうだ、言い逃れできまい。」

 本庄は町田が遺した紙に見覚えがあった。あれは町田を手に掛けた日だった。

「『お供え』ってのはそんな紙だけかい?」

「…ああ、そうだ。」

「…ふーん、これは『碁』か?」

「…ああ。」

「俺は碁なんざ興味ねえが、碁の記録ってのはマス目を引いた紙に書くんじゃないのか?」

「その対局をした時は、あいにく碁罫紙を忘れてな。この紙に手順を記録したんだ。」

「ふーん、わざわざ書くのもめんどくさそうだがな。」

「俺は書き物は苦にならない。」

「そうだったな。」

 あの時は興味がなかったから聞き流したが…。そうか…あの野郎、ふざけた真似しやがって。本庄の取り繕った表情が消え失せ、皮肉を含んだ歪んだ笑顔に変わった。

「…はっ、まったく町田は何だって江川に遺言なんざ残したんだ。自分から裏切ったくせによぉ。」

「本性を現したな。町田が江川を裏切ったのは生き延びるために仕方なくであり、言わば『消極的裏切り』だ。町田はそなたに酒の席で『大塩の手紙』の秘密を話してしまったことに罪悪感を覚えていたが、まだ全てを話したわけではなかった。

そなたに脅されて残りのネタを吐かされる前に鳥居に会って取り入り庇護を得ることができれば、少なくともそなたに殺されることはなくなると考えた。しかし、もし鳥居に会う前にそなたに殺されるのなら…。仇はあくまでそなたであり、江川ではない。この遺言はそなたへの復讐かも知れないし、江川への贖罪かも知れぬ。町田は転落してしまっても後悔を抱えられるだけの情けを持っていた。そなたのように罪を罪とも思わぬ性根の腐った大悪人とは根本から違ったんだ。」

  これだけ責められても本庄は顔色を変えなかった。

「井上伝兵衛殺害もそなただな。そなたを匿った鳥居の家の者が鳥居とそなたの会話を覚えていたぞ。」

「知らねえな。」

「鳥居は婿養子だったからな。旧来の家臣達はそなたのような身持ちの悪い者を家に入れて御家の評判を下げた婿を快く思っていなかった。そなたらが渡辺崋山や高島秋帆などの『外』を見張ってる間、心ある家臣達がそなたらを『内』から見張っていたのだ。

 そなたは天保十一年、鳥居の命令で高島秋帆を探りに長崎まで出掛けたな。熊倉はそなたを追って、小倉から『本庄と同じ船に乗る』と手紙を出したのち姿を消した。そなたが長崎から連れて来た女達も証言したぞ、そなたが熊倉に『白い粉』を混ぜた酒を飲ませ海に落とした、と。ついに妾にも見棄てられたな。外国人相手のイカサマ賭博の常習犯であったそなたなら、古巣の長崎でアヘンを手に入れるのも簡単だっただろうな。」

「それは証言だけだろ、証拠はあるのかよ?」

「少なくとも先ほどこの神聖な取り調べの場で虚偽の発言をしたそなたの言葉よりは信じられる。」

「…ちっ」

「『呪詛事件』も、鳥居の命でそなたが偽名を使い捏造した事件だったな。了善を首実検に呼んである。」

 震える肩を役人に支えられ、襖をほんの少し開けた先から覗いた了善は、緊張して蒼白い顔色になりながらも眼はしかと見開いて本庄を睨んでいる。

「私を陥れた『長崎辰輔(ながさきたつすけ)(本庄の偽名)』だ、間違いありません。」

「だとよ、反論あるか?」

「…。」

「あの時は首謀者の鳥居が裁く側なんて有り得ない裁判になってしまったが、今回はきっちり仕切り直させてもらう。政治絡みだから大した罪にならないとでも思ったか?俺は別に責任取らされて辞任になっても構わない。そなたや鳥居のような『悪』になど二度と屈しない。」


 本庄に下された判決は『遠島』。火事で解き放ちをされ戻ってきたことから減刑されて『中追放』となった。

 弘化三年八月六日、午前二時という人々がまだ

寝静まっている時間に本庄は罪人用の駕籠に乗せられ『護持院原(ごじいんがはら)』にて解き放たれた。

「…へっ、遠山のやつ、何だかんだ言っても結局大した判決じゃなかったな。命さえあればこっちのもんだ。どうとでも生き延びてやる。」

 よろよろと歩き始めた本庄の前に、暗闇の中から二人の白装束の武士が姿を現し刀を投げ渡してきた。

熊倉(くまくら)伝十郎(でんじゅうろう)だ!本庄茂平次、父・伝之丞と伯父・井上伝兵衛の敵、取らせてもらう!」

小松典善(こまつてんぜん)である。井上先生の敵、覚悟せよ!」

「!」


~顛末~

 その日、江戸の町は歓喜に溢れていた。瓦版屋が威勢のいい声で

「『仇討ち』だ!護持院原(ごじいんがはら)で仇討ちだ!剣術家・井上伝兵衛が殺されてから苦節八年、『妖怪(妖甲斐)・鳥居耀蔵』の手下、本庄茂平次を討ったのは甥の熊倉伝十郎と弟子の小松典膳だ!新たな南町奉行、遠山様の名裁きだ~~っ!」



「ははっそうか『仇討ち』か!遠山、よくぞやってくれた!」

 小姓の権太泰従から本庄の裁判の顛末を聞いた家慶は自分でも驚くほど大きな声をあげた。これほど痛快なカタの付け方があったとは。物語を越える壮大な『妖怪退治』に家慶も大満足だった。

 家慶に久しぶりの笑顔が戻り、主君を敬愛する権太泰従も友人達の活躍に感謝した。







 「さて、最後の『後始末』をつけなきゃな。」


 遠山は煙管(きせる)の灰を落とすと部下に告げた。


「いくら元が『冤罪(えんざい)』から始まった不幸とはいえ、『切り放ち(きりはなち)』という人道的な制度を悪用し放火した罪は重い。長英に(ほだ)されて放火の実行犯となった栄蔵は火あぶりになったんだ。元凶を見逃しちゃおけねえ。」



切り放ち後に戻ってきた者には罪一等減刑、戻らぬ者は死罪(後に「減刑無し」に緩和された)」とする制度


長英とは面識のない部下達ですら戸惑いの顔をするのを見た景元は、ここにはいないはずの英龍が悲痛な表情を浮かべる様子が容易に想像できた。


「『御用(ごよう)』は『生捕(いけど)り』が絶対で、末路は拷問(ごうもん)の上、火あぶりだ。


せめてもの情だ、一太刀で楽にしてやれ。」


 このような顛末を迎えて時代は良い方向に向かったかというと、答えは『否』である。英龍も川路も水野忠邦に重用されていたため、新たな老中達からは敬遠され表舞台から遠ざけられた。

 またしても『忍』の日々である。それでも英龍はやがて来る『夜明け』に向けて準備を欠かさなかった。

 黒船と共に『夜明け』が訪れたとき、人々は英龍の準備に深く感謝することとなった。  



「…そんなにお悪いのですか…?」

 兄の容態について医師の見立てが書かれた手紙が江戸屋敷から届き、急いで開いた義姉の目から涙がこぼれ落ちたのを見て背筋に悪寒が走った。

 兄は韮山を発つ時も真っ青な顔でふらふらだったが、まだ目には力が残っていた。天城の冬山の寒さをものともせずに狩猟の訓練で野宿できる強靭な身体の持ち主である兄のことだ、江戸で一流の蘭方医の治療を受けているのだから、しばらく静養すれば回復するだろうと安易に考えてしまっていた。

「すぐに江戸に向かいます、支度を。」

「お待ち下さい義姉上様!箱根の山はまだ雪深いそうです、義姉上様の今の体調では無謀です!代わりに私が行きますから、義姉上様はこちらで」

「いいえ行きます。結婚して三十年が過ぎたけれど、殿様と一緒に居られた時間は半分もなかったわ。この家に直系の男児が必要なのはもちろん理解しているけれど…。」

 義姉と兄との間に生まれた子供達は皆、早逝してしまった。江川家は家が興って以来ずっと養子に頼らず『直系男子』で家を継ぐ決まりであったから、義姉が出産適齢期を過ぎてしまったあとは健康な男児を側室に求めなければならなかった。武家の妻として受け入れなければならないことだから、そこに嫉妬して辛かったわけではないと義姉は言った。

「殿様と一緒に過ごす時間がほとんどなくて、ただただ寂しかったの。殿様は家以外の広い世界でたくさんの方に囲まれて慕われて、忙しくも充実しておられたけれど、私は家の中で同じような日々を繰り返すだけでいたずらに年を重ねただけ…。」

 義姉は四十を越えたあたりから体調を崩し、気がふさぐことが 増えたという。

 任子様がお亡くなりになったあと、私は仏門に入り実家に戻って義姉と一緒に暮らすようになったが、兄に側室を勧める役を勤めたのは私である。

 もう五十になる、身体のあちこちに不調をきたすようになった兄が、寝る間も惜しむほど働きずくめだということを知りながら閨の準備を整えた。

 兄にも義姉にも辛い役目をさせてしまった。ペリーが来る少し前に待望の男児・籌之助(じゅのすけ)が生まれたが、この上なく嬉しそうな満面の笑みの兄とは対照的に、義姉はようやく解放されたような疲れた微笑を浮かべていた。

 義姉と兄をこのまま離れ離れにしてはいけないと思った。この方を何としてでも兄の元へ連れて行こうと決心した。

「ははうえ、おばうえ」

 私と義姉を呼ぶ、言葉を覚えたばかりの籌之助を抱きしめ

「父上が元気になったらそなたも会いに行きましょうね。」

と願掛けのような約束をすると、籌之助はこてんと首をかしげた。そんな姿も愛おしい。兄にもすくすくと元気に育っている籌之助を見せてあげたいと思うと涙が滲んでしまった。


(えつ)、たい、来てくれたのか。」

 布団から起き上がることもできなくなった兄は、顔だけこちらに向けて義姉と私の名を呼ぶとわずかに顔をほころばせた。蒼白の顔色、頬はこけ、白髪が増え、髭が伸びた兄を見て私は言葉を失ってしまったが、義姉はそっと兄の手を取り

「お元気そうでなによりです。」

と微笑んだ。

「そうか、越からも元気に見えるか。やはり越が一番わしのことを分かってくれるな。自分でも今日は気分が良いと思ったのだ。良かった、これで明日にでも登城できるな。」

 兄は義姉の嘘を喜んだ。兄が欲していた言葉を掛けられる義姉はさすがである。

 とんでもない!!と叫びそうな医師を視線で制し、

「では兄上様、義姉上様、私はお医者様に看病の手順を聞いてまいります。義姉上様、兄をよろしくお願いします。」

と言いおいて部屋を辞し、わずかな時間でも二人だけで過ごせるようにしてほしいと医師や家臣達に頼んだ。


 人々の期待を一身に受け、八面六臂の活躍をする兄だったが、激務に身体を蝕まれ、勘定奉行への異例の出世を目前にして亡くなってしまう。安政二年一月十六日、享年五十四歳。最期は家族や忠臣、心を通わせた盟友達の読経の声に包まれて…。



「そういえばあの時、お二人はどんな話をしたのですか?」

 兄の葬儀を終えたある晴れた春の日、私と義姉は縁側で茶を飲んでいた。前にもこんなことがあったと思い出しながら、あの時よりよほど悲しいはずなのに、なぜか心は凪いでいた。

 兄を見舞いに江戸に駆けつけた日、夫婦水入らずの時間のあと、薬を持って部屋に入った私が見たのは目に涙を溜めながら手を重ねて微笑み合う二人の姿だった。

義姉は少し肩をすくめて

「秘密よ。」

といたずらっぽく微笑んだ。


~エピローグ『甥』から『叔母』に届いた手紙~

 手紙と共に届けられたその写真には、西洋式の軍服に身を包んだ精悍な佇まいの青年が写っている。若かりし頃の兄によく似ていて思わず口元がほころぶ。

 米国からここ韮山まで長い旅路を経て届けられた手紙の封筒は英語で書かれているので私には読めないが、『H.T.Yegawa』の『H』は英武(ひでたけ)、『T』は太郎左衛門、『Yegawa』は江川のことだと柏木総蔵が教えてくれた。兄や父も名乗っていた太郎左衛門の名を、今もなお甥が受け継いでくれていることが嬉しい。英武は兄の五男・籌之助である。

 兄亡き後、家督と職を継いだ三男・英敏は義姉と同じ文久二年に亡くなり、わずか九歳で韮山代官となった籌之助は、殺伐とした幕末を柏木総蔵の智略と兄が遺した人脈により何とか乗り切った。

 英武は昨年の明治四年十二月、『岩倉使節団(いわくらしせつだん)』と共に海軍留学生として米国に旅立った。律儀な甥は新しい環境で忙しいであろう中、出立して三か月後にこの手紙を送ってくれた。『ぴーくすきる兵学校のゆにーほるむ』と言うらしい軍服を凛々しく着こなす甥の写真を見つめる瞳が揺れて一筋の涙がこぼれ落ちた。

 甥と共に米国に旅立った岩倉使節団には兄が目をかけて才能を育てていた家臣・肥田浜五郎(ひだはまごろう)がいる。長崎海軍伝習所で学び日本海軍機関科士官第一号になり、咸臨丸では機関長を勤めた彼は今やこの国の造船技術の第一人者である。

 一方で同じくらい目をかけていた家臣の松岡磐吉(まつおかばんきち)は、榎本武揚(えのもとたけあき)らとともに箱館にて敗戦した。囚われた後、昨年釈放を待つ間に獄中死した。

 今はまだ夜も明けたばかり、『東の野に炎の立つ見えて かへり見すれば月傾きぬ』の様に朝陽と残月が混在している。

 兄、義姉、ご先祖様、大奥でお世話になった方々を偲んで焚いた線香からうっすらと白く細長い煙が立ち上る。

 新しい時代を切り開こうと薩長率いる官軍に属した方々も、最期まで徳川将軍家への忠義を貫いた旧幕府軍の方々も、もとは『この国を守る』という同じ大志を抱いていたはずだった。兄や兄の跡を継いだ英敏、英武の塾で学んだ才気溢れる者達の命運が、夜が明ける時に真っ二つに別れてしまった。

 徳川への忠義と誇りを胸に戦った旧幕府軍は線香の煙の様に儚く消え、勝利を手にした明治政府側もまた、灰の上に立つ線香のように足元が覚束ない。

「兄上様がご健勝ならば「自分が米国に行きたかった」と悔しがったでしょうね。」

と独りごちる。臨終間際まで、何としても城に出仕し職務を遂行しようとした兄だ。きっと今のこの国を見たら、もう一働きしなければと奮起したに違いない。


 兄は『夜明け前』に死んでしまった。海防のための『お台場』、砲を自国で大量生産するための『反射炉』、西洋の軍隊を模した『農兵』、海からやってくる驚異から国を守る『海軍と軍艦』それらを学び受け継いでくれる『人材の育成』など、数々の種を撒いて手塩をかけて、命を削って育んでいたのに、その種が花開き実を結ぶ前に亡くなってしまった。

  線香の灰は植物にとって良い糧になるという。この線香が燃え尽きて灰になったら、義姉のご先祖様である北条早雲公が植えられた『キササゲの木』の根元に撒こうか。

  江川の家を護り続けてくれたこの木が、今年も淡く黄色い花を咲かせ、良薬となる実をたくさんつけてくれるように。

 やがてこの家に帰ってくる、兄が遺したもう一つの『種』甥・英武の人生が花開き実を結ぶよう見護ってもらえるように。



参考文献

『幕末の知られざる巨人 江川英龍』槁本敬之

『江川家の至宝』橋本敬之

『写真集 日本近代化へのまなざし』江川文庫編

『韮山塾・芝新銭座大小砲習練場 伊豆韮山代官江川英龍門人録』橋本敬之編

『実伝 江川太郎左衛門』仲田正之

『人物業書 江川坦庵』仲田正之

『韮山町史』『韮山町史年表』『韮山町史の栞』

『韮山町史の栞 柏木忠俊伝』仲田正之

『ふるさと百話』静岡新聞社

『江川坦庵全集 別巻』戸羽山瀚

『最後の韮山代官 江川英武』伊豆の国市 韮山資料館』

『江川太郎左衛門の生涯』堀内栄人

『評伝 江川太郎左衛門』加来耕三

『近代日本造船事始』土屋重朗

『秋の金魚』河治和香

『開国への道 十二』平川新

『歴史研究の課題を発見する―戦後歴史学の再検証―』平川新

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