第六章 計略と罠と ー後編ー
土曜日、六花は四天王のマンションで料理をしていた。
頼光は今日も台所の椅子に座っていた。
「あの、頼光様の最初の歌、他の二首のどちらかと同じ女性へ贈られたんですか? それとも別の方ですか?」
六花は料理をしながら訊ねた。
「最初の歌? しょっちゅう詠んでたから最初の歌は覚えてないが女性に宛てたものだったか?」
「あ、勅撰和歌集に載ってる歌の事です」
「一首じゃないのか?」
頼光が訊ねるように四天王を見た。
四人も互いに顔を見合わせた。
『拾遺和歌集』は頼光が人間界に居る時に編纂されたが其以外は死んだ事にして異界へ戻った後だから知らなかった。
「頼光様が異界へ戻られた後も勅撰集が出てますので、其の中の何れかにも載った様ですね」
「全て併せると数万首に上りますが、学校で教わるのは其の中の数首だけなので」
金時と貞光が答えた。
季武達も他の歌が残っていると言うのは初耳だった。
貞光が言った様に勅撰和歌集に載っている歌は三万首以上だし、東国へ戻ってきてからは貴族文化とは無縁の暮らしをしていたから勅撰集を見る機会も無かった。
頼光達は六花に視線を向けた。
「えっと、頼光様は三首載っているそうです」
「〝頼光様は〟って他に誰かの歌が載ってるの?」
金時が訪ねた。
「頼光様の家系は歌人の家系とも言われていて勅撰集に載ってる人が多いんです」
「子孫まで調べてるんだ……」
金時の呟きに六花は赤くなった。
「当時は何かと歌の遣り取りをしていたからな」
頼光が答えた。
確かに『金葉集』に載っている頼光の歌は、頼光が景色を見て呟いた言葉が和歌の下の句みたい――詰り七七――だったので其を聞いた頼光の妻が歌に成る様に上の句を詠んだものだし、小式部内侍や大江匡衡も、馬鹿にされたとき和歌を詠んで相手を遣り込めたというくらいだから和歌で日常会話をしていたのかと思えるレベルだ。
「誰宛かは覚えとらんな」
「そうですか」
肉を炒めながら頷いた。
「……赤染衛門さんが頼光様のお邸の壁に歌を書いたのは都と美濃、どちらですか? 美濃だとしたら尾張に行く途中に頼光様のお邸に泊まったんですか?」
六花の問いに頼光が首を傾げた。
「『赤染衛門集』に赤染衛門さんが頼光様のお邸の壁に歌を書いたって載ってたんですけど」
『赤染衛門集』に載ってるのは「旅先で夜露に濡れることを心配していたら泊まった家の雨漏りが酷くて(露どころか雨で)びしょ濡れになった」と言う宿泊場所――頼光の邸ではないらしい――に対する不満で、文句すら歌で言うのかと驚いた。
然も其を日記や誰か宛ての文に書いたのではなく頼光の邸の壁に書いたらしい。
他人の家の壁に愚痴の落書きって何の嫌がらせ? とドン引きしたが、国語の先生に拠ると当時和歌と言うのは特別なものだったから他人の家の壁に書き殴っても問題ないとの事だった。
と言うか和歌は特別なものだから勝手に壁に書いても良いんだと言う、ストリートアートは(壁の所有者に無断で描いても)芸術だから落書きではない的な訳の分からない理屈で叱られてしまい、更に引いたが、何でも紙が貴重な時代だったから壁や襖に書くのは其ほど珍しくなく、和歌が書かれたものは其のまま保管されていると言う話だった。
「都の邸は広かったし美濃には行ってないから何処かに書いてたとしても分からんな」
「え、『御堂関白記』に美濃に赴任するとき挨拶に来たって書いてありましたけど。あと道長さんのお邸で火事があった時、美濃からわざわざお見舞いに来たって……」
「実際に赴任したのは別の者だ」
当時の頼光達は都が任地だったから他所へ行く訳には行かなかった。
だから赴任する時は別の者が頼光の振りをして行ったらしい。
「つまり、赤染衛門さんは頼光様に断りなく書いたって事ですか?」
「実際に書いたならそうだな」
「そう言う事ってよくあったんですか?」
「簡単に紙が手に入る時代じゃなかったんでな。公文書なら兎も角、思い付きで詠んだ歌を気軽に紙に書けなかったから。紙が無い時に書き留めておきたいと思ったら壁や襖に書くしかなかったんだ」
六花は納得した表情で頷いた。
季武は六花の部屋に有った歌集を思い出した。
「頼光様の歌は三首なんだろ。お前の部屋にもっと和歌集あったよな?」
「頼政さんが歌人として有名で、勅撰集に載ったのだけで五十九首もあるから。『源三位頼政集』って歌集も出してるし」
「頼政?……ああ、鵺退治か」
貞光が言った。
相変わらずだな、と言う表情の五人を見て六花は更に赤くなった。
六花は体育の授業を見学していた。
階段から落ちて床に叩き付けられた時は痛かったがお陰で暫くは休む口実を考える必要が無くなった。
保健の先生に手当てをして貰ったので態々体育の先生に理由を説明しなくても良いし季武も知っているから嘘を吐かなくて済む。
とは言え捻挫とも言えない様な軽傷では其ほど長くは休めない。
少なくとも次の小遣いを貰うまでは体操服は買えそうにないから四回くらいは休む口実を考える必要がある。
そのうち二回は女の子の日って事にするとして、残り二回、なんて言おう。
六花は体育を見学しながら口実を考えていた。
土曜日、六花は四天王のマンションで夕食を作っていた。
頼光が来ていてリビングで四天王と話し合いをしている。
料理が出来上がり道具などを片付けると、
「お邪魔しました」
と声を掛けた。
「送ってく」
季武が立ち上がった。
「え、頼光様とお話し中でしょ」
「もう終わった」
季武の言葉に頼光を見ると肯定するように頷いた。
「そうですか。それでは失礼します」
六花は頼光と綱達にお辞儀をすると季武と一緒にマンションを出た。
「今日は定期報告じゃないよね?」
六花は季武と歩きながら訊ねた。
頼光は先週来たばかりだ。
「どうやら反ぐれ者が都内に集中してるらしい。其で見回りの時間を増やせと言われた」
「捜さないと見付けられないのに沢山いる事は分かるの?」
「都内で死んでる人間が急増してるんだ」
「病気とか事故とかじゃなくて?」
季武の説明に拠ると死んだ人間の魂は〝上の世界〟に行く。
〝上の世界〟というのは異界より上の次元の事だ。
頼光や四天王の生まれた異界というのは上の次元と人間界の間に在る次元である。
人間界の生死を司っているのは異界の上の次元に在る世界だ。
人間に分かり易い言い方だと「あの世」とか「冥界」と呼ばれる世界だが、生物の生死を扱だけではないから厳密には違うらしい。
「つまり、異界の上の世界って天界?」
「良く分からんが天界って言うのは一番上の世界だろ」
上の世界が一番上の次元なのか、或いは更に上が在るのか不明だから「天界」「天上界」という呼び方はしていないらしい。
普段、季武達が〝上〟と言ってるのは異界の上層部――統治者――の事で、彼等は上の次元の者との遣り取りが出来る。
上層部の者達が上の次元からの指示を受け、其を頼光の様な管理職に伝えている。
季武の様な末端の者は上の次元に在る世界の者とは接触出来ない。
季武が綾の転生を早めてくれる様に掛け合った〝上〟と言うのは異界の上層部だ。
季武の訴えを聞いた上層部が上の次元に話を通したのである。
上の次元に人間(に限らず人間界の全ての生物)の魂が行くと何時何処で何の様に死んだかなどが分かる。
「其で上の次元の者が異界の上層部に都内で異常な数の人間が喰われてると伝えてきたらしい」
反ぐれ者と言えども生き物だから一度に喰える人数には限りが有る。
大勢喰われてるのだとしたら其は大量の反ぐれ者が居るという事だ。
「この前の蜘蛛や茨木童子以外にも沢山いるって事?」
「そうなる。明後日の月曜からは当分学校は休むから弁当は要らないぞ。あ、送り迎えはするからな」
「うん、ありがと」
「明日も朝から居ないの?」
「ああ、如何して?」
「お昼食べに帰ってくるなら、早めに行ってお昼ご飯も作っておこうかと」
「戻れるか分からないから作らなくて良い」
「なら、夕食と明後日の朝食だけ作っておくね」
六花はそう答えた。
月曜の朝、
「送ってくれてありがと」
六花は校門の前で季武に礼を言った。
「何か有ったら直ぐに呼べよ。其と何か有ったら必ず逃げろよ」
季武はしつこいくらい「逃げろ」と繰り返し、六花がやんわりと、
「貞光さん達が待ってるんでしょ」
と言った事でようやく去っていった。
四天王が一日中鬼退治を頑張ってくれているのだから食事はちゃんと作りたいし、そうなると仮病で学校を休む訳にはいかない。
仮に食事を作らなかったとしても何日も休んだりしたら季武を心配させてしまう。
一瞬、四天王のマンションへ行く事も考えた。
然し狡休みに四天王のマンションを使うなど彼等の信頼を裏切る行為だ。
其は出来ない。
とは言え何時まで耐えられるか自分でも分からなかった。
放課後、校門の所に季武が居た。
「何か分かった?」
六花が季武に訊ねた。
「未だ何も。今探してる」
季武は六花と並んで歩き出した。
「何か手伝える事、ある?」
「変な事が有ったら教えて欲しい」
「変な事?」
六花が聞き返した。
「何かおかしいって思う様な事とか、妙だなって感じるのは裏で鬼が何か遣ってる可能性が有る」
反ぐれ者も、ある程度知性が有る者は暗示を使えるが、整合性が取れてるかを気にしたりしないので人間が辻褄が合わなくておかしいと感じる事が有るとの事だった。
季武達の情報収集はネットが主だ。
四人とも今は人間の家族が居ないからネットに出ない様な口頭での口コミは耳に入り辛い。
ネット社会とは言え全ての人間が書き込みをしている訳ではないから何でもネットに出る訳ではない。
其に書き込んでる人間でも違和感を覚えた程度で上手く言葉に出来ない様な事は書かない。
そう言うのは人間達の口コミに頼るしか無いのだ。
「じゃあ、お母さん達の話に注意しとくね」
「頼む」
夜、見回りの途中、季武と貞光は公園でコンビニの弁当を食っていた。
季武は空を見上げた。
都会の夜は何時も曇っている。
ヒートアイランドに拠るダストドーム現象の所為だ。
昼間は都市部も郊外も其ほど温度差は無いが夕方に成って郊外が一足先に温度が下がると、暖かいままの都市部で上昇気流が起こる。
都市部の空気が上昇する事で郊外から冷たい空気流れ込んでくる。
其のとき昼間巻き上げられた埃や排気ガスなどのダストが一緒に流れてきて空を覆う。
其がダストドーム現象だ。
異界では考えられない空だ。
六花に異界の星空を見せたらどんな反応を示すだろう。
星がひしめき合って溢れそうな夜空を見せてやりたい。
なんて、無理か。
小さい鬼でさえ怖がっているのだ。
異界の者ばかりの世界に何て来られる訳が無い。
其でも……。
「おい、向こうで気配がすんぞ」
貞光の声に季武は立ち上がった。
弁当の空をゴミ箱に放り込むと気配に向かって駆け出した。
放課後、
「六花ちゃん、今日は一緒に帰れる?」
五馬が声を掛けてきた。
「途中までで良い?」
「うん、勿論」
六花と五馬は並んで歩き始めた。
二人は話しながらスーパーへ向かっていた。
やっぱり五馬ちゃんとのお喋りするの楽しい。
六花は夢中になって話をしていた。
五馬が何か言い掛けたのと、悪寒がして六花が道の先に視線を向けたのは同時だった。
六花のクラスの女子達が悲鳴を上げながら此方に走ってくる。
道路沿いの駐車場に鬼が居た。
皆が鬼から逃げていると言う事は隠形では無いのだ。
一瞬、身体が凍り付いたが季武の言葉を思い出してスマホを取り出すと画面のアイコンを押した。
逃げようと踵を返した時、
「助けて!」
鬼の方から叫び声が聞こえた。
見ると石川が鬼に腕を掴まれている。
逃げようと藻掻いているが鬼の手を振り切れないのだ。
クラスメイト達は石川が捕まってるのを見て逃げたのだろう。
此のままでは石川が喰われてしまう。
「六花ちゃん、私達も逃げよう!」
五馬が声を掛けてきた。
六花は首の後ろを押さえた。
季武の鬼避けは大物には効かない。
彼は何方だろうか。
かなり大きいから大物の可能性がある。
仮に鬼避けが効くとして六花が近付く事で石川を連れて逃げられたら?
季武は六花を抱えて一瞬で百メートル近く移動したり七階建てのビルの屋上に飛び上がったりしていた。
彼の鬼も同程度の能力が有るなら逃げられたら六花には追い掛けられないし見失ったら季武達が助ける前に喰べられてしまうかもしれない。
注意を逸らして季武君達が来てくれるまで足止めすれば……。
「六花ちゃん、早く!」
五馬が再び声を掛けてきた。
「五馬ちゃんは逃げて」
そう答えて周りを見回したが手近な所に石や空き缶の類は落ちてない。
六花は鞄を開けると辞書を取り出し鬼に投げ付けた。
鬼が此方に顔を向けた。
辞書は其の一冊だけだから一番分厚い教科書を出そうとしてペンケースが目に入った。
「石川さん! これ、使って!」
六花はそう言ってファスナーを開けたペンケースを石川に投げた。
片腕を鬼に掴まれてる状態でファスナーを開けるのは無理だと判断したのだ。
空中で中身が散らばった。
石川が手を伸ばして其の中の一本を掴んだ。
石川は鬼の腕にペンを突き立てたが鬼は平然としていた。
この前、蜘蛛の目に矢が突き刺さったとき叫び声を上げていた。
「石川さん! 目を狙って!」
六花の声に石川が鬼の目にペンを突き刺した。
鬼が叫び声を上げて石川から手を放した。
其の隙に石川が逃げ出した。
鬼が跡を追う。
石川が六花の横を通り過ぎていったのを見て六花も逃げようとしたが、近付いてきた鬼を見て足が竦んで動けなくなった。
其に気付いた鬼が標的を六花に変えて向かってきた。
「六花ちゃん!」
五馬が叫んだ。
鬼が六花に手を伸ばす。
だが近付いた事で討伐員の気配を感じ取ったのだろう。
大きく後ろに跳んだ。
斜め後方に飛んだ鬼の脇腹を矢が掠めていった。
鬼は其のまま更に後方に飛んでから踵を返すと脱兎の如く逃げ出した。
「待て!」
大鎧姿の綱が六花の脇を駆け抜けていく。
「六花! 無事か!」
季武が飛び降りてきた。
「うん、ありがと」
「鬼を見たら逃げろと彼ほど言っただろ!」
季武が六花を怒鳴り付けた。
「ご、ごめんなさい!」
六花が慌てて頭を下げた。
「季武! 後にしろ!」
貞光がそう言いながら走っていった。
季武は舌打ちすると、
「此以上危ない真似するなよ!」
と言って貞光を追っていった。
「六花ちゃん、大丈夫?」
「うん、平気。ありがと」
六花は歩道に散らばったペンケースの中身を拾い始めた。
「何で助けたの?」
五馬も拾うのを手伝いながら訊ねてきた。
「あのままじゃ石川さんが食べられちゃうと思って」
「六花ちゃんをイジメてる子じゃない。彼の子が居なくなれば良いって思わなかったの?」
「思わなかった訳じゃないけど……」
「なら、如何して?」
「石川さんがいなくなったら家族や友達が悲しい思いをするし、そんな理由で見殺しにしたなんて知られたらきっと皆から軽蔑されるよ」
「何考えたかなんて黙ってれば分からないんだし、逃げるのは普通でしょ。卜部君だって逃げなかったの、怒ってたじゃない」
「他の人は知らなくても自分は知ってるもん。きっと一生後ろめたい思いをする事になるよ」
五馬は六花の答えに黙ってペンを拾い集めた。
其の遣り取りを気配を消した異界の者が見ていたが、二人が歩き出すと其の者も姿を消した。
六花はスーパーの前で五馬と別れると夕食の材料を買って四天王のマンションへ向かった。
留守のとき勝手に入れる様に鍵を渡されている。
土蜘蛛は物陰から六花を見ていた。
卜部は異界へ逃げた鬼を追い掛けていって核を砕いた。
其は上の者が問題視する様な重大事件だった。
だが反ぐれ者には成らなかった。
彼の娘が居るからだ。
彼の娘は弱くてちっぽけな存在だ。
痛みに耐えられなくなれば死を選ぶ様な脆い人間。
けれど決して闇には染まらない。
彼の娘は小さいけれど決して翳る事のない灯火。
然して彼の娘が此の世から消えても其の光芒は消えないのだ。
だから季武も闇に堕ちなかった。
彼の娘が死んでも彼女の輝きが消えなかったから。
死んだ後も尚、彼の娘の光は季武を照らし続けているのだ。
何をしても其の煌めきは消せない。
親しい人間を殺されて反ぐれ者に堕ちる討伐員は昔から少なからず居た。
討伐員が鬼に成るのは人間が成る以上に容易い。
特に殺したのが人間の場合に堕ち易い。
何の見返りもなく守っていた対象に大切な者を奪われた時の怒りは大きい。
然し卜部は堕ちなかった。
娘を殺したのが鬼だったからではない。
殺したのが人間でも卜部は堕ちない。
彼の娘と再び逢いたいからだ。
人間の魂は消滅する事が無いから必ず生まれ変わってくる。
だから彼の娘が死んでも彼方側に居るのだ。
恐らく人間というのは生まれ変わっても本質的な部分は変わらないのだろう。
堕ちたら討伐対象になるし、討伐された異界の者は核を砕かれるから二度と彼の娘と逢えなくなる。
討伐されて再会出来なくなる危険を冒すより彼方側で生まれ変わりを待つ道を選んだのだ。
彼の娘に感化されてるなら再び逢った時、彼女に顔向け出来ない様な事はしたくないと言うのも有るだろう。
例え彼女自身が覚えてなくても。
彼の娘を利用するのは無理だ。
他の方法を考えなければ。
六花を見張っていた土蜘蛛は其の場を離れた。




