第一章 桜と出会いと ー前編ー
文章は現代文ですが平安時代っぽさの演出として普通なら平がなで書くところを漢字にしてますが、その代わりにほとんどの漢字にルビを振ってます(主人公は現代人なので台詞と心の声では平がな使ってます)。
表記揺れに見えるものは演出や読みやすさの兼ね合いでわざとやってます。
その人は光を背に、ゆっくりこちらを振り返りました。
十五、六歳くらいのその男の子は、背が高くて凄く綺麗な顔立ちをしていました。
午後の新宿中央公園。
背後に建っている超高層ビルの窓と言う窓が、西に傾き掛けた陽光を反射して眩しく輝き、男の子を照らしていました。
満開の桜の花吹雪の中、その男の子は背筋を伸ばして凜と立ち、花びらを飛ばしている風が黒い髪を揺らしていました。
白い道着に落ち着いた黄緑色の袴姿のその男の子は、光の中で私の顔を見ながら近付いてきました。
私はただ、その男の子に目を奪われていました。
私と同い年くらいのその男の子は、私の額に手を翳し何か呟きました。
私には男の子の言葉が聞き取れませんでした。
その男の子はすぐに踵を返すと公園の出口に向かって歩み去りました。
如月六花は胸の動悸が収まらないまま自分の家に駆け込んだ。
「ただいま!」
靴を脱ぎ捨てながら母に声を掛け、玄関から自分の部屋へ向かった。
部屋に入るとベッドの上で寝ていた猫のシマを抱き上げた。
シマはキジトラという黒と焦げ茶の縞模様の日本猫だ。
腹の部分が白い場合はキジトラシロと言う。
シマも腹の部分は白いから正確にはキジトラシロである。
「ね、聞いて、シマ。今すごい事があったんだよ!」
シマはどうでも良さそうな顔で目を瞑ってしまった。
六花は構わず話し始めた。
中学の始業式からの帰り道、六花が横断歩道を渡っていると、思わず見惚れてしまうほど綺麗な女の子が向かい側から歩いてきた。
年は六花と同じか少し上だろう。
真っ直ぐでさらさらの長い黒髪を靡かせていた。
うわ、可愛い……。
すごい綺麗。
スタイルも良い。
足、長い。髪、艶々。
天使の輪がある。
モデルみたい……。
少女と擦れ違い、歩道に向かって歩いていると道路の白線の上に何かが落ちているのに気が付いた。
近寄ってみると掌に収まるくらい小さな巾着だった。
かなり色が褪せて所々擦り切れている。
先ず間違いなく長い間大切にされていたものだ。
巾着に付いている布の紐が切れていた。其で落ちたのだろう。
布にタイヤの痕跡は無いから、そうなると信号が変わった後に通った人が落とした物という事だが、今渡ったのは彼の女の子しかいない。
巾着の口の側に茶色い小石が有った。中に入っていた物かもしれない。
六花が小石と巾着を拾い上げた時、クラクションの音がした。
信号が赤に変わっている。
歩道は目の前だし大通りだから引き返す訳にはいかない。
六花は横断歩道を渡りきってから振り返った。
女の子が向かい側の歩道を歩いて行く。
六花は、じりじりしながら信号が変わるのを待った。
其の間に女の子は中央公園に入っていった。
信号が変わると中央公園に向かって駆け出した。
公園の入り口は細い道で上り坂に成っている。
両側には木が植わっていて土と木の匂いがした。
小道を通って広場に出た所で辺りを見回したが女の子の姿は見えなかった。
左に別の出口へ向かう小道が有るが其なら態々信号を渡ってから十二社通りを右に歩いていって中央公園に入るより横断歩道を渡った後真っ直ぐ進んだ方が早い。
六花は考え込んだ。
新宿駅に向かうなら超高層ビル方面に行くだろうけど、待ち合わせならデッキテラスか池(自称「滝」)だよね。
それとも散歩かな。
中央公園はかなりの広さが有る。
散歩と成ると何処へ向かったか見当が付かないから端から端まで見て回るしかない。
ふと公園の反対側に有る喫茶店が目に入った。
そっか、お金がある人ならお店で待ち合わせも有り得るんだ。
何方へ行こうかと思案に暮れながら取り敢えず超高層ビルの方へ向かっていると行成り悪寒が走った。
振り返ると其処には身の丈三メートルは有りそうな大きな鬼が立っていた。
直ぐ近くに居る様に見えるが鬼は植え込みの樹の前に立っている。
其の樹までかなり離れてるから大き過ぎる所為でそう感じるだけだ。
巨大な体躯。赤い肌にボサボサの髪から突き出している二本の角。口から垂れている赤黒い液体。
鬼の手に握られてる物が何なのかは脳が考えるのを拒否していた。
大きな鬼の周囲に小鬼が何匹も居た。
小鬼と言っても大鬼の側に居るから小さく見えるだけで一メートル以上は有る。
大鬼が此方へ向かってきた。
本の数歩で距離が詰まった。
逃げなきゃ!
そう思うものの足が竦んで動けなかった。
鬼の手が伸びてきた。
捕まる!
思わず目を閉じた刹那、風を感じた。
目を開けると凄い速さで鬼が遠離っていく。
地面に立たされて漸く誰かが自分を抱えて移動したのだと分かった。
鬼から百メートル以上離れている。
一瞬だった。
六花を鬼から引き離してくれた人は数歩移動すると何時の間にか持っていた弓を構えた。
白い胴着に落ち着いた感じの黄緑色の袴。
六花と同い年くらいの男の子だった。
彼は立て続けに矢を放った。
矢に貫かれた小鬼が次々と消えていく。
この距離から小さくて動き回ってる鬼に当てられるなんて……。
一矢も外してない。
全て的中させてる。
大鬼が咆哮を上げた時、別の少年が駆け寄って長い刀を振り下ろした。
鬼が飛び退く。
其の少年は鎧姿だった。
大鬼は振り下ろされた刀の側面を腕で弾くと少年の方に足を踏み込んで長い爪を振り下ろした。
刀の少年が後ろに跳ぶと同時に弓の男の子が鬼に駆け寄った。
何時の間にか弓から刀に持ち替えていた。
弓の男の子は一気に間合いを詰めて懐に飛び込むと刀を横に払った。
鬼が背後に跳んだ。
其処に待ち構えていた鎧姿の少年が刀を一閃した。
鬼が両断される。
鬼は絶叫を上げて跡形もなく消えた。
小鬼も全て居なくなっていた。
六花は信じられない思いで二人の少年を見詰めていた。
弓の男の子は此方に無表情な顔で近付いてきて手を翳し何か呟いた。
木の陰から気配を消して様子を窺っている者が居る事には六花も少年達も気付いていなかった。
「鬼はともかく、男の子達も近くを歩いてる人達には見えてなかったみたい。どうしてかな」
六花はシマを抱え直した。
「すっごく格好良かったんだよ! 特に弓を持ってた男の子」
にやけた顔でシマの背に頬擦りした。
シマは顔を顰めたが六花は気付かなかった。
「また会えるかな。会えると良いな……」
シマは身を捩って六花の手から逃れると又ベッドの真ん中で丸くなった。
六花は物心が付いた時から鬼が見えた。
何度か知ってる人が消えた。
消える少し前に必ず小さな鬼が纏わり付いていた。
其で鬼に狙われてると忠告したり、行方不明に成った後に「鬼に連れていかれた」と言っても誰も取り合ってくれず、周囲の大人達は六花の方を警戒する様に成った。
大人達の感情は子供達にも伝わり、六花は皆から避けられる様に成った。
学区制の為、保育園から中学校までは皆同じ学校に通うから必然的に六花を敬遠する子達と一緒に学年を重ねていく事に成る。
同じ保育園だった子達が他の保育園や小学校から来た子達に六花の話をするから中学生に成っても誰も近付いてこなかった。
其でも学校でお喋りくらいならしてくれる子も居たが数は少なかった。
そう言う子は大抵霊感が有ったりして怪奇現象を信じていた。
学校が終わった後で会う様な親しい子は居なかったから六花は友達と遊んだ事が無い。
六花は此の春、中学三年生に成った。
ずっと友達と遊びに行ったりする事に憧れていた。
同じ小学校や中学校の子が居ない高校なら友達が出来るかもしれない。
そう思って志望校は家から通えるぎりぎりまで遠い高校にした。
幸か不幸か友達と遊んだりしないので勉強する時間は嫌というほどあった。
此の三年間、何処の高校でも受かる様にと必死で勉強してきた。
残念ながら数学の成績が奮わないので上位校は無理そうだが。
翌日の朝、六花は信じられない思いで学校の玄関へ向かっていく少年を見ていた。
昨日助けてくれた子だ!
弓を持っていた男の子だ。
長い刀を持っていた子は一緒じゃない。
転校してきたのかな。
この学校の制服着てるし、前から同じ学校だったのに知らなかっただけかな。
だとしたら下級生?
男の子は校舎の中に入っていった。
「如月さん、顔、真っ赤だよ、どうかしたの?」
ぼーっとして少年の背を見送っていた六花に、隣のクラスの男子が声を掛けてきた。
同じ民話研究会に入っている鈴木だ。
鈴木は此の学校で六花に声を掛けてくれる数少ない友達の一人だった。
「な、なんでもない」
六花は首を振ると玄関に向かった。
六花は教室で再度目を見張った。
弓の男の子が六花の隣の席に座っていた。
六花は窓際の列の五番目だった。
隣の列は四番目までしか無かったから其の後ろの席の彼が隣に成ったのだ。
やっぱり転校生だったんだ。
嘘みたい、うちのクラスだなんて。
其のうえ隣の席だなんて自分の幸運が信じられなかった。
先生に紹介されるだろうから其で名前が分かる筈だ。
ホームルーム中、六花は期待して待っていたが教師は何も言わなかった。
然して其のまま授業が始まってしまった。
え……?
どうして転校生を紹介しないの?
其も変だがクラスメイトが誰一人疑問に思っていない様なのも不思議だった。
他の皆は事情を知らされていて自分だけ聞いてないのだろうか。
クラスメイトは誰も話し掛けてこないから教えて貰ってなくてもおかしくないが、教師まで六花にだけ黙っているなんて事が有るだろうか。
其とも先生は誰かに六花にも伝える様に言ったのに其の子が教えてくれなかったのだろうか。
休み時間、クラスメイト――主に女子――のお喋りに聞き耳を立てていると、どうやら皆は彼が前から居たと思っているらしかった。
そんな訳ない。
隣の席の子を覚えてないなんて有り得ない。
それもこんな格好良い子なら尚更だ。
そういえば一昨日、鬼から助けてもらったとき通りすがりの人達は鬼だけじゃなくて、この子達の事も見えてなかったみたいだけど、それと何か関係あるのかな。
でも今は皆この子のこと見えてるし……。
話の断片を総合すると彼の名は卜部季武と言うらしい。
卜部季武って確か頼光四天王にいたよね。
卜部って名字だから頼光四天王にあやかって季武って付けたのかな。
『徒然草』を書いた兼好の名字も卜部だが、彼は吉田兼好で通っていて本当の名字が卜部だと知っている人は少ない。
それとも「けんこう」や「かねよし」より「すえたけ」の方が格好良いと思ったとか?
六花は訳が分からないままクラスメイト達のお喋りに耳を傾けていた。
昼休み、クラスの女子のリーダー的存在の石川が取り巻きを引き連れて季武の横に遣ってきた。
「季武君、お昼一緒に食べない?」
「馴れ馴れしく名前で呼ぶな」
季武は冷たい声で石川にそう言い放つと席を立って何処かへ行ってしまった。
石川がムッとした表情で其を見送った。
取り巻き達が口々に「感じ悪~い」などと言っていた。
六花は鞄から弁当箱を包んだランチクロスを取り出すと屋上へ向かった。
一緒に食べてくれる友達が居ないから何時も屋上の階段室の陰で一人で食べているのだ。
放課後、六花は急いで自分の教室へ向かっていた。
「遅くなっちゃった」
鈴木達と民話研究会で話をしていて時間を忘れてしまった。
民話研究会は一階の図書準備室で行われていた。
民話研究会に入るのは妖怪などに興味が有る子ばかりなので、六花が幼い頃に鬼を見たと言っていたと聞いても誰も気味悪がったりしなかった。
民話は大好きだし皆普通に話してくれるから出席するのは楽しかった。
六花は窓の外を見て溜息を吐いた。
西の空は橙黄色に染まっていた。
所々に浮かんでいる雲の上の部分はもう暗い色になっている。
逢魔が時。
鬼が見え易く成る時間帯である。
六花が鞄を持ってドアに向かおうとした時、季武が教室に入ってきた。
他に誰も居ない。
石川さんみたいに綺麗な子でさえ相手にされなかったんだから私なんか口も利いてもらえないよね。
其のまま擦れ違ってドアから出ようとした時、未だ助けて貰った礼を言ってなかった事を思い出した。
六花は戸口で足を止めて振り返った。
「卜部君、昨日はありがとう」
「え……」
季武が戸惑った様な表情を浮かべた。
「中央公園で助けてくれたでしょ」
「覚えてるのか? じゃあ、俺が昨日まで……」
季武は途中で言葉を切った。
最後まで言わなかったのは藪蛇を恐れたのだろう。
やっぱり、いなかったんだ。
六花が頷くと季武は顔を逸らせた。
小さく舌打ちした様だ。
黙ってた方が良かったかな。
でも、助けてもらってお礼言わない訳には……。
「其、人には言わないでくれ」
季武が六花の方を向いて言った。
「うん」
六花は頷くと教室を後にした。
喋っちゃった!
しかも二人だけの秘密まで!
刀の少年も居るが其は取り敢えず置いといて良いだろう。
六花は飛び上がりたい衝動を必死で押さえた。
どうしよう、どうしよう、どうしよう!
ほんの二言三言話しただけなのに、こんなに嬉しくて走り出した鼓動が止まらない!
早く帰ってシマに報告しなくちゃ!
生まれて初めて鬼に感謝したい気持ちに成った。
六花は母に頼まれていた買い物も忘れて家に向かって駆け出した。
夜、季武は貞光と公園のベンチでコンビニ弁当を食べていた。
弁当に桜の花びらが落ちてくる。
昔なら風流で済んだんだけどな。
此は散々車の排気ガスを吸ったものだ。
八重と月の下で桜を見た事を思い出した。
名前が八重だったから庭に八重桜を植えて毎年春になると二人で眺めていた。
季武は弁当の上の桜の花弁を見た。
食っても死なないからと、おかずごと口に入れた。
「頼光様から追加の指令だ。例の猫が又人間界に来てるってよ。ミケって奴」
貞光が言った。
「彼、猫じゃないだろ」
季武が答えた。
人間界の動物ではないのだ。
当然、普通のイエネコではない。
ミケは大喰らいで異界の餌だけでは満足出来ないのか良く人間界に遣ってきては反ぐれ者を喰っていた。
〝反ぐれ者〟とは異界から人間界へ人間を喰いに遣ってきている異界の者の事である。
異界にも人間界の生物同様、多様な生物種が有る。
人間界で人を喰った者は等しく討伐対象になる。
良く人間界に来て人を喰っているのは日本では「鬼」や「土蜘蛛」などと呼ばれる種族である。
季武達はそうした反ぐれ者を討伐する為に異界から送り込まれた討伐員だ。
「見付けたら捕まえて送り返せとさ」
貞光の言葉に、季武はどうでも良いという風に肩を竦めた。
翌日の授業中、六花が隣を窺うと必ず季武と目が合って二人揃って前を向く、と言う事を繰り返していた。
私を見てるんじゃないよね。
屹度窓の外を見てるのだろう。
季武が自分を見てるなんて自惚れたら笑われる。
昼休み、六花は弁当箱の入ったランチクロスを持って立ち上がると屋上へ向かった。
屋上へ出て階段室の脇へ回った所で足を止めた。
何時もの場所の奥に季武が座っていた。
横に緑色のエコバッグがある。
足音に気付いていたのか季武が此方を見上げていた。
反対側も誰もいない筈だからそっちへ……。
踵を返そうとした時、
「二人くらい座れるだろ」
季武が声を掛けてきた。
えっ!?
隣に座って良いって事!?
どうしよう、ホントに良いのかな?
一瞬迷ったが、こんなチャンスは二度と無いだろう。
怒られたら反対側に行けば良い。
六花は思い切って隣に座ると膝の上でクロスを開いて弁当箱を開けた。
レタスの上に載せた鶏の唐揚げ二個に、プチトマト、それに春雨サラダとタコさんウィンナ。
食べようとして、ふと顔を上げると季武が弁当をじっと見ていた。
六花も弁当に目を落とした。
別に変なものは入ってないよね?
季武に目を向けると未だ弁当を見ている。
六花の視線に気付いた季武が顔を上げた。
「其、自分で作ったのか?」
「うん」
食べたそうに見えるのは気のせいかな。
僅かに躊躇った後、六花は勇気を奮って、
「あの、良かったら食べる? 口に合うか分からないけど」
勘違いだったりしたら恥ずかしいと思いつつ訊ねた。
「良いのか?」
「うん! 食べて!」
季武の返事が嬉しくて勢いよく弁当箱を差し出した。
「じゃあ、此」
季武がエコバッグを六花に渡した。
「ありがと」
六花がバッグを受け取って中を見ると大量のパンが入っていた。
「これ、夕食の分も入ってるの?」
「え?」
弁当を食べようとしていた季武が怪訝そうな表情をした。
「昼の分だけだ」
男の子ってこんなに沢山食べるんだ。
六花はカレーパンを取りだして袋を開けると一口食べてみた。
「あ、おいし。一度食べてみたかったの」
そう言って季武の方を見ると、もう弁当を平らげてしまっていた。
「それだけじゃ足りないでしょ。私は一個で十分だから」
此だけの数のパンが一食分なのでは六花の弁当箱に入っていた量では全然足りないだろう。
六花は残りのパンを季武に返した。
「御馳走様」
季武もそう言って弁当箱を返してきた。
どうしよう、聞いてみようかな。
怒られるかな。
六花は弁当箱を受け取る時、意を決して、
「いつもパンなの?」
と訊ねた。
「普段は弁当だけど今日は売り切れてた」
何方にしろ買ってるのだ。
「じゃあ、明日から私がお弁当作ってきてあげようか? 一人分も二人分も同じだし」
季武が六花を見詰め返した。
返事が返ってくるまでの短い間、六花の心臓は胸を突き破りそうなほど飛び跳ねていた。
「良いのか?」
季武の言葉に六花はホッとして胸を撫で下ろした。
「うん!」
良かった、怒られなかった。
六花は弁当箱をクロスで包むと季武の邪魔に成らない様に教室へ戻る事にした。
「お前、見鬼だろ」
立ち上がり掛けた時、季武が前を向いたまま言った。
「けん、き?」
「鬼、見えるだろ」
〝見鬼〟とは鬼が見える人の事らしい。
「暗示に掛からないって事は陰陽師か何かの一家か?」
「ううん、普通のサラリーマン。ね、どうすれば鬼を倒せるの? 倒せるようになれば怖くなくなる?」
六花は季武の横に膝を突いて訊ねた。
「普通の人間には無理だな。彼を倒せるのは同じ異界の者だけだ」
「そっか、残念」
「随分さらっと流したな」
『同じ異界の者』と言う言葉を指してるのは直ぐに分かった。
「季武君は怖くないから」
しまった!
名前で呼んじゃった!
怒られるかと思って身構えたが季武は気にしてない様だった。
「家は? 陰陽師じゃないなら結界は張ってないだろ」
「無いと思うよ。だから前は鬼がベランダにいる事もあったし」
「前は?」
「うん、猫を飼い始めたら出なくなったの。鬼って猫が苦手なの?」
季武は訝しげな顔で、
「いや」
と答えた。
二人の会話は其で終わった。
六花は夢見心地で廊下を歩いていた。
足取りが弾みそうに成るのを必死で押さえる。
嬉しい、嬉しい、嬉しい!
きっと今、足が床に付いてない。
今なら空も飛べる!
季武君にこれから毎日お弁当食べてもらえるなんて!
顔がニヤけてるのは分かっていたから俯いて人に見られない様にした。
季武君は沢山食べるから多めに作らなきゃ。
今日は唐揚げやウィンナだったから明日はお魚にしよう。
サラダはポテトサラダで良いかな。
ご飯は炊き込みご飯にしようか、それとも三色ご飯にしようか。
失敗しないように慎重に作らなきゃ。
教室に入り机に弁当箱を置いた時、ケースの中で箸がカタッと鳴って六花はハッとした。
お箸!
季武君が使ったんだった!
季武君が使ったお箸。
このまま一生洗わないで飾っておきたい!
でも、カビが生えるよね。
つい冷静に現実的な事を考えてしまった自分を引っ叩きたかった。
とは言え季武が使った箸にカビが生えたり変な臭いがしたりするのは嫌だ。
あ、季武君の分のお弁当箱も買わなきゃ。
いっぱい食べるみたいだし、うちにあるお弁当箱じゃ小さいよね。
早く家に帰ってシマに報告したい!
午後の授業はずっと上の空で気付いたら放課後だった。
「如月さん、今日民話研究会に出る?」
六花が帰り支度をしていると、鈴木が廊下から声を掛けてきた。
「あ、鈴木君、ごめんなさい。今日は用があるの」
六花の返答を聞くと、
「そう」
鈴木は残念そうな顔で行ってしまった。
其の晩、六花は母親に強請って夕食をカレイの煮付けにして貰った。
魚は其ほど好きでは無いので弁当に入れるのは前の晩が魚料理で且つ翌朝まで残っている時だけなのだ。
だから上手く作れる自信がない。
かと言って又肉料理にしたら魚料理が作れないと思われてしまいそうで――実際作れないのだが――如何しても明日は魚にしたかったのだ。
「こんなに作ったって食べきれないでしょ」
と母に言われたが其処を拝み倒した。
明日の分の弁当の下拵えをすると自室に戻った。
六花がベッドに飛び乗るとスプリングと一緒にシマが弾んだ。
六花はシマを抱え上げた。
シマが嫌そうな顔で六花を見た。
「シマ! ね、聞いて! 明日から季武君にお弁当作ってあげる事になったの! あ、季武君って言うのは――」
六花はシマに季武との遣り取りを話し始めた。
「美味しくなかったら作ってきて良いなんて言わないよね。美味しいって思ってくれたんだよね。ね、そう思うでしょ?」
六花はシマの背に頬ずりした。
「シマ~。嬉しいよ~」
シマは我関せずと言った表情で欠伸をした。
お料理を教えてくれたお母さん、ありがとう~!
六花は心の中で母に礼を言った。
迷惑顔のシマを抱き締めて幸せに浸っていた。