ノスタルジア
高瀬川。
京都の歓楽街を北から南へと流れるこの小さな川は、元々は、京都の豪商角倉了以とその息子素庵によって開削された小さな運河です。でも、この小川が、運河だんなんて、歩いている人は、ほとんど知らないでしょうね。文学では、あの森鴎外の小説「高瀬舟」でも有名な川なんです。
今では、二条通りから五条通りの川沿いには桜や柳の木が植えられて、市民や観光客の憩いの場所となっています。
特に、この桜の季節になるとその華やかさは官能的な歓楽街と相まって可憐で妖艶な川へと変貌します。
気がついたら、まるで瞬間移動でもしたかの様に、私は三条通りのこの高瀬川に架かる橋の上に立ちすくんでいました。
大股で5歩ぐらいで渡り切る事が出来そうな、この小さな橋は、地元の人から「三条小橋」と呼ばれています。
「えっ!? 何でここにいるんだろ? 確か、お稲荷さんで、おもかるを・・・」
突然、私の頭の中のスクリーンに、あの赤い服を着たおかっぱ頭の女の子の姿がフラッシュバックしました。
二階から、私に手招きしているその小さな顔。目が大きくて鼻筋が通ったどこか日本人離れした顔立ち。髪の色は茶色。
それは、どこか私と似ていました。
「あの子・・・」
と、その時、どこからかBTSのDynamiteの軽快なメロディーが流れて来ました。実は、これは、私のスマホの着信音なんです。年甲斐もなく、私、彼らの大ファンなんです。でも、お空の上に住んでいる王子様を好きになるのは、年齢なんか関係ありませんよね。
「もしもし?」
それは、二十年前に京都で勤めていた信用金庫の同僚の早紀からでした。その夜、久しぶりに会う約束をしていたんです。
早紀との再会は、この旅の目的の一つだったんです。
「美砂子? もう着いたー?」
懐かしい野太い声の京都弁。
「うううん、まだ。」
「ごめーん! 今、仕事終わったとこやねん。
すぐ行くし、先、 入っといてぇー。」
「う、うん。わかった。確か、木屋町の四条の
手前辺りかな?」
「そうや、分かるかぁー?」
「うん。住所、聞いてるし何とか行ってみる。
じゃあね。」
私の名前は、三浦美砂子。
三浦は、旧姓です。
美砂子は、美しい砂の子と書きます。
どうして、母が、この名前をつけたのかは、わかりません。
私は、母子家庭の一人っ子で育ちました。母は水商売をしていました。具体的に言うと、横須賀の場末のキャバレーのホステスでした。場末って、言ったら母に失礼かもしれませんね。でも、場末って言う言葉、今時、使うのかな? じゃあ、今は、何て言うんだろ?
ごめんなさい。話が脇道に。これも、職業病なんです。私の職業は後ほど、お話ししますね。
話を元に戻します。
なので、子供の頃は母とはすれ違いの毎日。
母は、朝、私が起きる頃には、お酒に酔って寝ていて、私が学校から帰ると何時も鏡台に向かって化粧をしていました。
母が働いていたキャバレーの支配人さんの話では、母は客との同伴を良く取っていた優秀なホステスだったようです。でも、そんな話は、子供の私にはチンプンカンプンな話でした。
母は、客と同伴する日は、何時も小さなキッチンのテーブルの上に、夕飯代の千円札を置いて出かけて行きました。
同伴が無い日は、夕飯は母が作って二人で食べていましたが、その時の私にとっては、どちらかと言うと、母が、同伴をする日の方が楽しみでした。だって、その千円で、店屋物の好きな物が食べられたのですから。太陽軒のオムライス、美味しかったなぁー。
甘い香水の匂いが残るアパートの小さな部屋に、取り残された私にとってテレビだけが、唯一の友達でした。
特に映画は、私の心をとりこにしました。
見るだけで飽き足らず、作り話をノートに書ては、一人で読んではニヤニヤしてる気持ち悪い子供だったんです。まだ、その気持ち悪い所は、変わってませんがね。
そんな、小学5年生の春うららかな日。
学校から帰ると、アパートのキッチンで母が倒れていたんです。
口から流れる血の赤い色と小さな窓から射し込んだ夕日のオレンジ色が混ざった色は今でも忘れることができません。
末期の胃癌でした。私を育てる為、病院にも行かず、一人で我慢して働いいていたみたいです。
そして、母は入院して、たった2週間はどで、あっさり死んでしまいました。
母が、死んだ日の病室の窓から見えた満開の桜の花が、とても綺麗だったのを、今でもはっきりと覚えています。
母には、身寄りは無く、一人ぼっちだったので、お葬式もキャバレーの支配人さんと学校の担任の先生と数人のクラスメイトだけの、ひっそりとしたものでした。
春の嵐の土砂降りの雨の中のお葬式。今から思うと、それは、まるで母の人生そのものだったのかも知れません。この出来事も、私が春を嫌いな理由の一つなんです。
でも、不思議なんですが、私、母の顔、全く覚えてないんです。写真も残ってないんです。母が死んだ後、誰かが処分したのか、それとも、母は写真が嫌いだったのか。
そう言えば、最近、私も、自撮りが嫌いになっています。
なので、インスタの投稿は、食べ物や風景ばかり。これも年のせいでしようかね。
因みに私の年は42歳。
写真が嫌いになるには、丁度いい年頃なのかもしれませんね。
「ここかな?」
気がついたら、壁に緑色のツタが這っている古めかしい洋館の前に立っていました。
お店の名前は、ノスタルジア。
ここが、それからの私の運命を変える場所となったんです。