記憶高価買取中
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キャッチーな広告が目に入る。赤と黄色を基調とした文字は夜道の街灯に照らされよく目立っていた。
「お客様、嫌な記憶、忘れたい出来事はございませんか?私共は、この世界から不幸を消し去るお手伝いをしております」
突然背後から声をかけられる。驚きつつも振り返ると、スーツを着た女がもみ手をしながら僕を見ていた。暗がりで顔はよく見えないがサラサラで美しい黒髪が灯を受け煌めいている。
いかにもな怪しさにたじろいでしまう。
「いや、結構です」
「お話だけでもどうです?数分で終わりますよ」
数分、か。どうせ家に帰ってもやる事は無い。
つい断ってしまったが正直、記憶買取中という言葉には興味がある。
「わかりました。お話だけなら」
「ええ、承知しました。ではこちらに」
その時――女の口元が妖しく歪んだ気がした。
「狭くて申し訳ありません」
看板の無い小さな店舗に案内されると、中に飾り気は無く、薄暗い店内に仕切で仕切られた簡素なカウンターだけが並んでいた。
女はそのカウンターの1つに腰をかけると、僕にも座るよう促す。
「お客様、嫌な記憶、忘れたい記憶はございませんか?」
女は真っ直ぐな目で僕を見つめる。路地ではよく顔が見えなかったが、整った顔立ちをしている。
「まぁ、人並みにはあると思います」
「左様ですか。私共はですね、そんなお客様の記憶を買い取らせて頂いているんです」
「記憶を買い取る?」
「ええ。お客様の記憶を特殊な技法で抽出させて頂きます。ご安心ください、お客様への健康被害は一切ございませんので」
「そうは言っても…」
「買取ですから、勿論報酬はお支払いしますよ」
女はそれに、と続ける。
「どうせ憶えていて良いことのないエピソードなんて、無くしてお金にしちゃいましょうよ」
そう言って女は、妖しい笑みを浮かべた。
「では細かいご説明をさせて頂きますね」
女の言葉に説得された俺は、気付けば手続きを進めていた。
「まず、記憶抽出前後の記憶は消去させて頂きます。これは、技術の流出を防ぐためですのでご了承ください」
「それってつまり、ここで記憶を売った事も忘れるって事ですか?」
「いえ、今ご説明した内容は消えませんのでご安心ください」
「はあ、そうですか」
「では、買取のご説明をさせて頂きま――」
「――はい、お疲れ様でした」
一瞬、眩暈のような感覚を覚えたかと思うと、僕の目の前に無造作に札束が置かれていた。
「えっと……」
「記憶の抽出が終わりました。これにて今回は終了です。お疲れ様でした」
「えっと、ほんとに記憶が消えたんですか?」
「はい、確かに記憶を抽出させて頂きました」
実感が無い。だが、直前の記憶を思い出そうとしても靄がかかっているようで思い出せない。
「僕は一体何の記憶を失ったんですか?」
「申し訳ございません。失った記憶に関してはお答えできかねます」
「…そうですか」
「ではこちらをどうぞ」
女はカウンターに置かれた札束をトレイに乗せて差し出す。ざっと見ても30万はくだらないだろう。
「こんなに…」
「はい。今回の報酬です」
狐につままれた気分だ。だが――確かに何か胸のつかえが取れた気がする。
「では、以上になります。またのお越しを心よりお待ちしております」
そう言って女は、またあの妖しい笑みを浮かべるのだった。
帰り道、いつもより些か重くなったカバンを抱え歩く。
一つ、気になることがあった。
記憶の売却をしたということは、僕は女の説明に納得したという事だ。しかし肝心の内容は途中から欠落していてわからない。
どんな説明があったのか――
僅かな不安がのしかかったが、今抱えている札束の重さと比べれば雲泥の差であった。
一体、何に使おうか。楽しみだ。
「あっ…。ヒロくん…」
家に帰ると、見知らぬ女がいた。
「…ヒロくん?」
――誰だ。知らない。見たことが無い。
けれど、彼女は僕を知っている。少なくとも、名前は。
「久しぶりなのに、あんま嬉しそうじゃないんだね」
そう言う彼女は、今にも泣き出しそうだ。
だが、初対面の女の子との距離感が掴めない僕にできることは無く、ただ立ち尽くすだけだった。
月明かりの無い夜道、女は一人で泣いていた。
「うぅっ…ヒロくんを…ひぐっ…試すような…えっぐ…」
彼女の涙が拭われる事は無かった。彼女の声が届く人はいない。
「ごめんね…」
――彼女の胎内を除いて。
私は、彼女としても、母親としても失格だ。
こんな世界ならもう――。
「お客様、嫌な記憶、忘れたい出来事はございませんか?私共は、この世界から不幸を消し去るお手伝いをしております」
断る理由は、無かった。