第91話 戦場の天使
環境の改善に加えて専任の治療術師の到着は、病棟の死亡率をさらに劇的に変える契機となった。だがそれも、僅かな時間のことだった。
徐々に激しくなる戦闘を物語るように、日々運ばれてくる負傷兵は数を増してゆく。そんな状況ではいくらピエール卿の腕が良いとは言っても、やはり治療のできる術師が一人では厳しい状況が続いていた。
私はなぜ、傷付けることしかできない火術師に生まれてしまったんだろう。苦しんで死んでゆく人々を目の前にして、この手で癒してあげることもできないなんて。できることといえば、少しでも苦しみを和らげてあげること……ただ、それだけなのだ。
改善しても、改善しても──数字では割り切れないものが、確かに存在していた。
着任からほとんど休む間もなく治療に専念してくれているピエール卿の背中にも、疲労が色濃く滲み始めている。私は辛そうに眉間を押さえている彼の横に近付くと、そっと声をかけた。
「先生、お疲れでしょう? 後は私が引き受けますから、どうぞお休みになって下さい」
「すまないね、と言いたいところだが……君も休まなければいけないよ。ここまでよく治療呪文無しで持ちこたえてきたね」
そう言ってピエール卿は立ち上がると、私の肩をポンポンと軽く叩いた。
「うちの不肖の息子と同い年とは、とても思えないくらい立派だよ。よく、頑張ったね」
もしお父様が生きていたら、こんな感じだったのかな……。私は目尻に浮かんだものをぐいっと手の甲で拭うと、ピエール卿を見上げて微笑んだ。
「ありがとうございます! 私はまだ、大丈夫です!」
「そうか、無理はしないようにな」
「はい!」
ピエール卿との会話で少しだけ元気を取り戻した私は、いつものように両脇に病床がひしめく通路の巡回を始めた。夕食の介助を終えたばかりの病棟には、少しだけだがいつもより穏やかな空気が流れているようだ。
「おい、蛆虫が取りきれとらんぞ!?」
だがそこにエルゼス訛りで不満げな声が聞こえてきたので、私は足をそちらに向ける。
「蛆虫でしたら、奥の方にいるのは取らなくていい方針です」
「こっこれはロシニョルのお姫さま!」
驚く兵士ににっこりと笑いかけると、私はベッド脇に近寄った。包帯を変えていた看護師に交代を伝えて、椅子がわりの木箱に座り込む。
「じゃけんど、腕がずっと蛆虫どもにツンツンツンツン喰われよりますんじゃ。このままじゃあ腕が無うなってしまいます」
私は新しい包帯を手に取ると、問答無用で兵士の腕を取った。弾性のない亜麻布のリボンを、慣れた手つきでくるくると巻いてゆく。
「それでいいわ。蛆虫は腐った肉だけをすっかり食べてくれるの。だから大丈夫なところだけが残って、逆に早く綺麗に治るのよ。それとも、腐ったところをすっぱり刃物で切断する方がいいかしら? 大丈夫な所もついでに減ってしまうかもしれないけれど……」
「ひいい! 切られるんは御免じゃ!」
そう怯えたような声で叫ぶと、エルゼス人の徴募兵は負傷した腕を庇うように身を縮こまらせた。そういや患者に説明するよう指示し忘れてしまっていたが、これだけ大声で話をしたら噂で伝わってくれることだろう。
これはマゴットセラピーと呼ばれている治療法で、抗生物質が発達するまでは軍医などにより世界中で広く利用されていた。さらに近年では、抗生物質に抵抗力を持つ難治性の感染性潰瘍が出現したことで、見直されている治療法でもある。
現代日本でも医療用マゴットが大学病院で実際に治療に使われているケースもある、由緒正しい治療法なのだ。キモいけど。
「うへえ……お姫さまのおっしゃることじゃけん、万に一つも間違いはねぇんじゃろうが……分かっとっても気味が悪いもんですなぁ……」
「ふふふ、その気持ちは正直よーっく解るわ」
私はよーっくに力を込めて同意すると、一転して優しく微笑んで言葉を続けた。
「でも、元気に家族のもとに帰るためだから。もう少しだけ頑張りましょう! 他に、何か不自由なことはない?」
「オレぁもう、十分です。それより、そっちの奴がずっと寒うて辛ぇらしゅうて」
そう言って兵士が指し示した隣のベッドを見ると、一人の青年が静かに眠っている。だがよく見ると、その身体は小刻みに震えているではないか。
発熱を疑い手早く確認するが、体温はそれほどでもなさそうだ。むしろ極度に血行の落ちた足先が、石のように冷えている。それに気付いた私は手桶にいっぱいの水と手拭いを持ってきてもらうと、小さく呪文を唱えた。
「点火」
指先に法術の炎を灯すと、手桶の中身を温める。そうして少し熱めのお湯を作って、私は手拭いを湯の中に浸した。それをぎゅうっとよく絞り、青年の冷えきった足を包んで温める。
熱を取られた手拭いを二度、そして三度取り替えた頃。私はその間も眠ったままだった患者の震えが止まっていることに気が付いて、ほっと息を吐いた。
すると──その様子を横から見ていたさっきの兵士が、しみじみと口を開いた。
「オレらのような民草が、お姫さまにこんなにも良くしていただけるなんぞ……思いもよりませんでした」
「私はエルゼス領主の娘として、当然のことをしているまでよ。貴族は人民を守るために、神から力を授かったのだから」
……もっとも私が使える火の法術は、攻撃に特化したものなんだけどね。女は前線に立てないというのなら、いっそ性別で後方支援向きの能力を割り振ってくれてりゃ便利だったのに。ここで出来ることはといえば、湯沸かしに消毒くらいしかないなんて。
そもそも彼らを戦わせているのは、私たち貴族の都合で──
そう考えた私の心に、懺悔の気持ちがあふれ出す。
──そのとき。
「天使じゃ……」
誰だろうか、後ろからポツリと呟く声がした。
「天使がエルゼスに降りたもうたんじゃ……」
驚いて振り返ると……いつのまにか部屋中の傷病兵達が、咲いたチューリップのポーズでこちらを拝んでいた。
──ここが日本なら、当然と思われることをしているだけなのに。ただ貴族の肩書きが付いているというだけで、こんなにも評価が変わるなんてね……。
努力を認めてもらえた嬉しさと、相反する罪悪感。それらをぎゅっと、斜に構えた感想で抑え込んで。私は苦笑いを浮かべながら、足早にその場から逃げ出したのだった。




