第77話 歯が悪くてもお肉食べたい!
数日後、エヴァンドロ司教を招いた晩餐の席でのことである。メインディッシュとして目の前に置かれた立派なビーフステーキを見て、司教はムッとしたように眉をひそめた。
「確かにわしは牛肉のソテーを好むが……ここのところの酷い歯痛で食べられなくなったのだ。好みを探ってくれるのは有難いことだが、中途半端では逆効果ぞ。好物を前にして生殺しとなる者の身にもなってくれ!」
恰幅のよい司教はそう言って、白髪混じりの黒髪を大げさに振った。だが対するおじい様はご機嫌なもので、宥めの言葉を口にする。
「まあまあ猊下、そうおっしゃいますな。私もこのところ歯を悪くしておりますゆえ、猊下のお気持ちも分かり申します。まずはそこのロマーニア式の食事具を使い、一口大に切り分けて召し上がってみて下され」
「だが侯爵、切り分けて口に入ったところで、噛めないのではどうにもならぬではないか」
「大丈夫、物は試しにございましょう」
「侯爵がそこまで言うのなら……一口だけぞ」
さすが名家の出というか、会食慣れしてるというか……手食文化の総本山でもあるカタロニア法国出身にもかかわらず、司教はカトラリーを使って上手に肉を切り分ける。そうして恐々口に運んで、彼は目を見開いた。
「これは……噛めるではないか! だが味は牛肉のもの……こんなに柔らかい牛肉があったとは驚きぞ。しかしこの、久々の焼いた肉の美味さよ……ここのところ長く煮込んだ物しか食えぬでおったから、あふれ出す肉汁がたまらんのぅ」
手のひらを返したように肉を次々と口に運び始めた司教の方へと笑顔を向けて、兄が口を開いた。
「エヴァンドロ司教猊下の御為に、当家の料理人に丹精込めて下拵えさせました。お気に召して頂ければ幸いにございます」
「これはアルベール卿、素晴らしい心がけぞ! この田舎にあって、久々に満足のゆく思いであるぞ」
ははは、田舎ですみませーん。
まあ世界の中心(自称)であるカタロニア法国の貴族からしたら、魔王国との国境なんて世界の果てにも等しいド田舎だと思っていても仕方ないだろう。
もっともゲルマニアの向こうにもたくさんの人間の国と魔族の国が細かくひしめきあってるんだから、端の定義なんて微妙なものなんだけど。
内心そんなことを考えながら、私は手元のソテーを優雅に切り分けて口へと運んだ。柔らかい肉をゆっくりと咀嚼していると、自然と笑みがこぼれてくる。
この国で手に入る牛肉は、王侯貴族が食べるレベルのものでもかなりの歯応えを持っている。霜降和牛のように口の中でとろけるものなんて、存在しないのだ。にも関わらずこのソテーが柔らかく感じられるのは、特別な下拵えを施しているからである。
司教を招待しようと決めたとき、私はすかさずエメの元へと向かった。彼女は城で使う食材調達の関係で、城下の商人達に会う機会が多い。また生来の世話好きという性格から、なかなかの情報通なのである。
美食家である司教は牛肉のソテーを好むこと。そして最近歯痛が悪化して食べられなくなってしまい、常に機嫌が悪いこと。
それらの情報をエメから聞き出した私は、早速試作用の牛肉と向かい合った。城下で手に入る最高級の子牛のランプ肉を用意してもらったが、しかし焼いて食べるとなかなかの歯応えだ。
私は某漫画のレシピを思い出しながら、エメと共にスライスした肉に丹念に筋切りを加えた。さらに肉叩き棒で叩き、通常をちょっと丁寧にした下拵えは完成である。
さて、ここからが今回の手品のタネである、玉ネギの登場だ。私は新人の厨房女中の少女と共に玉ネギの細かなみじん切りとすりおろしを泣きながら量産すると、下拵えしたお肉が見えなくなるまでしっかりと上下を埋め立てた。
そのまま一時間じっくり漬け込んでおいたものを焼いてみると……想定通り。そのまま焼いた牛肉と比べると、劇的に柔らかくなっている。玉ネギの持つタンパク質分解酵素であるプロテアーゼが、お肉を柔らかくしてくれたからだ。
これはシャリアピンステーキといい、某日本の老舗ホテルが歯痛に悩むオペラ歌手の要望に応えて生み出したレシピである。ハンバーグにすることも考えたのだが、司教の好きなソテーのままであることも重要じゃないかなと思ったのだ。
だがその目論見は、バッチリ成功したようである。ソテーやポテサラその他の副菜もすっかり平らげた司教は、満足そうに腹をさすった。
「いや、食事でこんなにも満ち足りた気分となったのは久々であるな。礼を言おうぞ」
すでに食卓は食後のお茶のターンとなり、料理もお酒もすっかり片付けられている。卓上に残っているのは消化を助ける香草茶のカップと、小菓子の盛り合わせだけだった。
ここまで話はなかなか盛り上がっていたものの……しかし肝心の司教の興味を強く惹き付けられそうな物の情報は、つかめず仕舞いである。
なんとかもう少し時間稼ぎできないかな……と、お茶を飲みながら私が思案にくれていると。高杯に盛られた菓子の中から琥珀糖を摘まみ上げて、司教が驚いたような声を上げた。
「おお、なんと美しい! これは菓子なのかね?」
「はい、琥珀糖と名付けました、当家秘伝のお菓子でございます」
私はすかさず話題を拾うと、司教に笑いかけた。
「琥珀とは良く名付けたものよ。この褐色のものはまさに若い琥珀そのものではないか。こちらの青玉も素晴らしい! まるで美しい宝石の結晶のようだ」
想定外の大絶賛を受けて、私は思わずニコッと笑う。しかしこの食い付きよう。司教は宝石が好きなのだろうか? そういや今日司教が着けている宝飾品の数々……どれもとっても大粒で、かつ美しい宝石があしらわれているではないか。
しかしながら、ようやく好みを知れたと思ったら……よりにもよってお金のかかる宝石かぁ。まあ何がヒントになるかは分からないし、もう少し掘り下げて聞いてみよう。
「エヴァンドロ猊下は宝石がお好きでいらっしゃるのですか? 本日お召しになっていらっしゃる宝飾品も……どれひとつとっても見たことのない美しさで、惚れ惚れとしてしまいましたわ」
「ホッホッホ、君もこの価値が解るのかね! ……といいたいところであるが、どうかのう。ご令嬢方には宝石、いや宝飾を好む者も多いようだが、その真価を分かっておる者の少なきことよ。この神の奇跡の結晶を、自らの身を飾るためだけの引き立て役としか思っておらぬのだからのう」
ならその十本の指全部にこれでもかと嵌められている指輪、何のために着けてらっしゃるんですか? ……そう聞きたいのをぐっとこらえて、私は司教に笑いかけた。
「おっしゃる通りでございます。しかしながらわたくしは若輩の身。真に価値ある宝石にまみえる機会など、なかなか……」
最後はちょっぴり困ったような顔をして、私は視線を僅かに下に外す。そうして一呼吸の間を置いてから、再び司教をじっと見つめて言った。
「どなたかご教授くだされば良いのですが……」
「ふむ、ではご令嬢を司教館に招待しよう。わしの蒐集物を特別に見せてやろうぞ」
「まあ、ありがとうございます!」
司教のコレクションを見せてもらったら、何かヒントがつかめるかも!
……そう私が喜んでいると、横から兄が口を挟んだ。
「お待ち下さい。妹だけご招待頂くとは、なんとも妬ましいことです。ぜひ私にも勉強させて頂けませんでしょうか?」
「ぬう、そこまで言われれば仕方あるまい。卿にも特別に見せてやろうぞ」
何故か渋々とした雰囲気で答える司教に、兄はにっこりと笑顔を返す。
「有難き幸せに存じます」
そうして今度は私の方を向いて笑ったが、あれ、これってちょっぴり怒ってる時の笑い方じゃない?
……そういや報告書に「妾三人」ってあったから、セクハラ展開でも心配してるのかな? もっともフィリウス教では聖職者含め法術師の子孫繁栄を推奨しまくってるから、妾三人はある意味教義を忠実に実行してると言えなくもないんだけど。
忙しいのに無理しなくても、私一人で大丈夫なのに! ……とは思いつつ、やっぱりおにい様が心配してくれるのはなんだか嬉しく思ってしまう。そうして私は、ありがたく兄に同行してもらうことにしたのだった。




