第71話 流水石を穿つ
人類史上初めて顕微鏡を使って微生物を観察したのは、学者でもなんでもないオランダの商人、レーウェンフックだった。彼が観察に使用したのは定番のレンズが二個ある複式顕微鏡ではなく、レンズ一個のみで作った単式顕微鏡である。つまり虫眼鏡をものすごくしただけのものだが、その精度がずば抜けていたのだ。
生涯で約五百の顕微鏡を作ったと言われる彼の観察記録には、三百倍を超えていないと描けないものが多く残されている。そんなレーウェンフックは、人類で初めて赤血球を見た人とも言われているのだ。
こう聞くと、病原体なんて小さいものは電子顕微鏡じゃないと見えないものなのでは? と、思われるかもしれない。だが一万倍してやっと一ミリくらいにしか見えないウイルスとは違い、原虫はかなり大きいのだ。
現代でもマラリアの診断に必要な条件のうちの一つは、患者の血液を倍率千倍で二百から五百視野ほど観察し、マラリア原虫がいるかいないか、である。
なおマラリア原虫の最初の発見者であるフランスの軍医が使っていた複式顕微鏡は、四百倍だった。しかしその倍率では見えた原虫が小さすぎて、学会で「ゴミ付いてたんじゃね?」と言われてしまう。結局彼はその発見でノーベル賞を受賞したが、認められたのはずいぶんと時間が経ってからだった。
とはいえ、四百倍までいけたら存在の確認くらいはできるはずだ。確か単式顕微鏡の最高倍率は五百倍くらいだったはずだし、夢物語じゃない。
なおレーウェンフックの顕微鏡の作り方は、とても単純だ。金属製の二枚のカードに小さな穴を開け、ごくごく小さな真球に削り出したガラス玉を二枚の穴で挟み込む。そして距離調節のためのネジを付けた針にサンプルをちょんっとつけて、その小さなレンズ越しに針先を覗くのだ。
ただし高精度の小さなレンズを作るのが、とにかく難しいとされているのだが。
「ではまずは、手持ちの材料で軽く試作してみましょう。もう少々お時間頂けますか?」
「もちろんですわ」
私の言葉に彼は無言でうなずきを返すと、作業台に座って金属板を切り出し、ピンバイスのようなもので小さな穴を開け始めた。その繊細な作業は私の金属加工の真似事なんて似ても似つかない、プロの仕業である。
次に彼は数ミリにも満たないような小さなガラスらしき粒をケースから一粒摘まみ上げると、指先に乗せた。
「湧水」
水の初級呪文を低く唱えると、指先に小さな水流が生まれて渦を巻く。やがて水流がおさまると、指先に残ったのは綺麗に磨き抜かれた透き通る球体だった。驚くべきはそのサイズで、直径一ミリにも満たないような真球である。
「こんなものでしょうかね……」
彼は小さく呟いて金属板に開けた穴にガラス球を嵌め込むと、向こう側を覗き込んで焦点距離を探し始めた。
第一印象ではモヤシ系に見えたリシャール卿だったが……よく見るとその手指は意外にタコなどできていて、使い込まれてゴツゴツだ。だが武器を握る騎士の手とは違って、工具を持つ指の動きはどこまでも繊細である。彼は本当にものづくりが好きなのだろう。
感心しながら作業を眺めていると、やがて彼はひとつうなずいて顔を上げた。
「これでどうでしょうか」
私は顕微鏡を受けとると、今度は液状のまま作っておいた血液と生食を混ぜた水滴を、顕微鏡の針先にちょんと着けた。
先ほどより心なしか大きく見える光の粒は、ようく目をこらすと中央がなだらかに引っ込んで、柔らかそうな丸いクッション形を描いている。
「見えた……これなら、虹色の滲みもあまりないわ!」
「それは……僕も拝見していいですか?」
「ええ!」
*****
数日後。
綺麗に磨き直された真珠のネックレスと、その後さらに精度を上げた単式顕微鏡を受け取って、私は帰宅の馬車の前に居た。
「フロランス嬢、望遠鏡、及び複式顕微鏡の改良版については、出来次第そちらへ送らせて頂きましょう。この度はとても有意義な時間が過ごせました。ありがとうございます」
リシャール卿はそう言って微かに笑うと、右手を差し出した。その手をしっかりと握り返しつつ、私は満面の笑みを返す。
「こちらこそ! 正直この短期間でここまでのものが出来上がるとは、予想だにしておりませんでしたわ」
「あのリシャールが言われずとも見送りに出た上に、女性にこんなにも好意的なことを言うだなんて……」
その様子を見て横で小さく呟いたオディール嬢は、不意に私の両肩をがっしりと掴む。そして真剣な眼差しでこちらを見つめて、言った。
「伯爵家の経営に、ご興味はありません?」
「はい?」
「フロランス様はそのお歳でとてもしっかりなさっているし、領主夫人としても当家の将来を安心してお任せできると思いますの!」
どこかギラギラとしているオディール嬢から軽く身を引きながら、私はなんとか言葉を紡ぐ。
「あの……うちはまだ実家がごたごたしているので、そちらが片付かないことには他家に嫁ぐとかは考えられないので……ほんとスミマセン」
「そうなのですか……」
とたんにしゅんっとなる姉を見て、リシャール卿は不機嫌そうに口を開いた。
「姉上、突拍子も無いことを言うのはやめて下さい。ご迷惑でしょう」
「あら、貴方が不甲斐ないから、代弁してあげただけじゃない」
「べっ、別に、まだそこまでは考えていませんっ!」
「まだ、ねぇ。ふーん……まあ、いいわ。フロランス様、どうか前向きにご検討なさってね。では、またぜひいらしてくださいな!」
※本来顕微鏡などのスペックは分解能で表現すべきですが、一人称を考慮して倍率で表現しています。
※血液観察における染色については、進行の関係で省略しています。




