第70話 二枚のレンズが映すものは
工房に到着するなり、リシャール卿の話は単刀直入に始まった。
「昨日のお話をもとに、顕微鏡も試作してみましたが……正直なところ、視野が暗すぎてお話にならない状態です」
私はリシャール卿の示すテーブルに近付くと、そこに置かれた複式顕微鏡らしき筒を眺めた。昨日簡単に説明した通り筒の下には試料を置くステージもあるが、そうだ、これに足らないのは反射鏡である。
「この試料を置く台をもう少し高くしまして、下に鏡を置いてはどうでしょうか。横からの光を反射して台に集めることで、明るくできるかと」
「なるほど……少々お待ち下さい」
リシャール卿は適当な台と固定具、そして鏡をみつくろうと、さっと筒の下にそれらしいものを組み上げた。あれっぽっちの説明で正解が出来上がるなんて、一を聞いて十を知るとはこのことだろうか。
「あれだけの説明でここまでご理解頂けるなんて……さすが、リシャール様の長年の研鑽のたまものですわね」
「いや……」
感嘆の声をあげる私にリシャール卿は一瞬面食らったかのような顔をして、それを咳払いで振り払う。
「いえ、僕からすると貴女の方が……ただのご令嬢とは思えませんよ。もしや兄上様のご影響でしょうか?」
「……まあ、そのようなものですわ」
私は曖昧にかわすと、顕微鏡の方へと目を向けた。
「では早速、改良型を拝見させて下さいませ」
「……そうですね。どうぞ」
私は筒の頭を覗き込むと、鏡の角度を調節してゆく。視界が明るくなったら次はネジを回して筒を動かし、ピント合わせだ。
なおこのネジを使う仕組みは、無段階に調整した上で自由な場所で固定できるようにしたいというイメージを伝えただけで出来上がったものだ。ぱっと適したものを思い付いて対応するなんて、なかなかできる事ではないだろう。
そんな少年伯爵からのうちの兄への謎リスペクト、いったいどういう理由なんだろう。私は筒を覗き込んで調整を続けながら、ふと疑問を口にした。
「そういえばリシャール様は我が兄に興味を持って頂いているようですが、どういった理由でいらっしゃるのでしょう」
「それは単に、火術師として国内最高峰の実力を持っていらっしゃるためです。これまで加工が難しかった金属なども、アルベール卿であれば溶かしてしまえるのではないかと考えまして」
「なるほど、銀眼だからということですね」
「いえ、それだけではありません。アルベール卿の『点火を用いた十通りの応用法』という報告書を読みましたが、とても成年前の子供が著したとは思えない、素晴らしいものでした」
そういやおにい様の夏休みの自由研究的なアレ、当時はけっこう話題になったんだっけ。それもあって社交界の期待値が跳ね上がっていたから……余計に大変だったのかしら。
「そんなふうに評価して頂けて、きっと兄も喜びますわ。当主でいらっしゃるリシャール様は領地を離れるのはなかなか難しいかと存じますが、ぜひエルゼスにも遊びにいらして下さい」
「ええ、ぜひ伺わせて頂きたく。さて、顕微鏡の方はいかがですか?」
「はい。あの、針をお借りできますか?」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
私は礼を言って針を受けとると、針先を点火で焼いて滅菌する。そして、えいっと左手の親指に突き刺した。
「な!?」
とたんにぷくりと盛り上がる赤い血の玉を見て、リシャール卿が一歩後ずさる。
「何をしているんですか!?」
「ああ、血液塗抹標本を作ろうと思いまして」
私はプレパラート代わりのガラス板に血の雫を一滴落とすと、もう一枚の板を斜めに引いて薄く延ばした。さらにあらかじめここの侍女さんに用意してもらっておいた生理的食塩水を一滴垂らしてから、カバー用のガラスを乗せる。
「もっと他に良い試料があったのではないですか!?」
「いえ、これが最適です。そもそも私が顕微鏡を作りたいと思うに至った理由が、血液を観察したいからなので」
「そ、そうなのですか……」
すっかり顔から血の気がひいたリシャール卿は、微妙にこちらから視線を外しつつそう答えた。できるだけ私の方を見ないようにしているようだが、それほど苦手なのだろうか。
現代日本では血を見ると本気で気分が悪くなる男性がけっこういる印象だったけど……成人した男性貴族にはもれなく付いてくるだけとはいえ騎士の叙勲にはそこそこの実習が必要だったはずだし、彼のこの様子では苦労も多そうだ。
私はそう勝手な同情を感じながら、試料をステージに置いて接眼レンズを覗き込んだ。
「これ……もしかして赤血球が見えてる!?」
グレーの視界にみっちりと映るたくさんの光の粒を見て、私は歓声を上げた。だが……。
「ただ……物体の縁がなんだか、虹みたいに滲んで見えますね」
まるで圧縮しすぎたJPEG画像のように、色がにじんで輪郭が不鮮明になっている。これでは『何かがある』ことは判っても、『それが何か』を特定するのは難しいだろう。
「ふむ、それは色収差の問題ですね……それらについては、いずれ改良するとしましょう」
リシャール卿はなにやら訳知り顔でうなずいているが、やはり細かな調整を必要とする二枚レンズで高倍率の顕微鏡を作るのは、一朝一夕では難しいようである。そこで私はふと、『微生物学の父』の話を思い出した。
「はい。ですがその前に……一つのレンズで作る形の顕微鏡も試してもらえませんでしょうか?」




