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【書籍化】ナイチンゲールは夜明けを歌う  作者: 干野ワニ
七章

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第65話 ナイチンゲールの統計学

 多くの人が『ナイチンゲール』と聞いてイメージするのは、クリミア戦争に従軍し看護婦の質と地位向上に努めた人──ではないだろうか。だが彼女が看護の現場にいたのは、たったの二年半ほどだ。


 その実態は研究と教育に一生を捧げた人であり、その研究内容は看護学や衛生学……だけでなく、実は初めて統計学を医療に応用した、統計学者でもある。


 統計学者としても先駆的だった彼女は今でも現役で使われているレーダーチャートの一種を考案し、女王や役人など専門外の人にも分かりやすく状況をプレゼンできるように工夫した。

 さらには調査や集計の方法が国によってバラバラではデータの意味がないとして、国際ルールの整備統一も行った彼女は……いつしか統計学の母とも呼ばれるようになっていたのである。


 疫病対策は、何も現地で治療を行うだけではない。統計学的アプローチから、疫学調査を行うことも重要なのだ。


 実務経験はないけど看護師とセットで一応保健師の資格も取っていたミヤコの古い記憶をなんとか呼び覚まして、私は必要なデータを集めた。救いとなったのは、私が現地に飛び出していかないようにと……おにい様がやたらとデータ収集には協力的だという点だろうか。


 こうしてエルゼスでは、全ての死亡届に詳しい死因の報告が義務化されることになった。さらに疫病らしき患者の発生状況については、各村の定期報告にいくつかの項目を追加してもらうことが決まったのだ。


 なお瘴気病(マル・アリア)について、少ない過去のデータをかき集めてなんとか読み解いた感じでは、毎年人口の八人に一人くらいが発症し、さらにそのうちの五人に一人くらいが死亡しているようである。ここエルゼス領の総人口は五万足らずであると考えると、発症者は毎年六千人ほど……うん、気が遠くなりそうな数字だ。


 そんな瘴気病(マル・アリア)は、このエルゼスの風土病とすら呼ばれて久しい。それはこの地を追われた魔族が最期に呪いを残して行ったから、と言われているのだが──。


 私は大きめの蝋板にエルゼスの地図を描くと、発生報告があった場所と数を書き込んでいった。遠い村でも発生しているものの、やはりルウィンの川沿いにある沼地や湿地に近付くにつれて多くなっている。


「発生地域、そしてあの症状。これはやはり……地球で呼ぶところの、マラリアよね」


 そう呟いて、私は唇を噛んだ。

 悪い空気の正体──それは『蚊』だったのだ。


 紀元前から現代に至るまで──世界中で人類を悩ませてきた感染症であるマラリアは、熱帯熱という響きや現代地球での感染地域が熱帯中心であることから、寒い地域で発生するイメージはあまりないかもしれない。だがマラリアはハマダラカが繁殖可能な地域であれば、どこででも流行するのだ。例えば日本であれば、開拓期の北海道で屯田兵とその家族の間で大流行を起こしている。


 そんなマラリアには、現代の地球であってもつい最近までワクチンは存在しなかった。その理由は、一度の感染では有効な免疫ができにくいタイプの感染症だからだ。


 なお数種あるマラリアのうち最も怖い熱帯熱マラリアの、現代における無治療での致死率は十五から二十パーセント。無治療での致死率が六十から百パーセントとも言われるペストに比べると、さほど恐ろしくはないと思われるかもしれない。だが有効な免疫ができずに何度でも発症するリスクがあると考えたら、その怖さがわかるだろうか。


 だがそうと分かれば、対策はいろいろできそうだ。マラリアにはヒトーヒト感染はなく、媒介するハマダラカさえしっかり駆除できれば感染しないのだ。


「よし!」


 私は一つ気合いを入れて席を立つと、資料を片手に兄とのランチに向かった。



 *****



「──と、いうわけで。瘴気病(マル・アリア)とは魔族の呪いではなく、マラリア原虫という目に見えないほど小さな虫を蚊が運んで来ることによって感染する病気なのです。この事を急ぎ各村に伝えて、すぐに蚊の駆除を行いましょう!」


 私は目の前の昼食にほとんど手をつけないまま、力説して拳を握った。だが。データ収集にあれほど協力的だったおにい様のことだ。すぐに実行してくれる……という私の目算は、甘かった。


「すぐには無理だね」


「なぜでしょう?」


「フィリウス教に喧嘩を売ることになる。それに領民たちだって、どちらを信じるかと言ったら確実に教会だ」


「あ……」


 そうだ。この世界の常識では、全ての病気は魔族の呪いが原因なのだ。急に小さな虫が原因だなんて言っても、誰も信じてくれやしないだろう。


「それに小さな虫と言うけれど、目に見えないんだよね? 目に見えないものを人々に信じさせることができるのは、千年の実績がある教会くらいだよ。それに真っ向から逆らえるほどの信用は、ぼくたちにはない」


 そこで兄は言葉を切ると、冷めたお茶を口に含む。それでも反論が見つからない私が黙っていると、申し訳なさそうな顔をして付け加えた。


「ごめんね、かくいうぼくも、半信半疑な部分があるんだ。そこそこの予算が動きそうだから、他の原因ではないと断定するには決定打に欠けるというか……。兄としては君を信じているんだけど、まだ代行とはいえぼくは領主だから」


 そう言って兄は肩を落とすと、ポツリと言った。


「本当に、ごめん……」


「いいえ、おにい様が悪いのではありませんわ。おっしゃることは当然ですもの。私こそごめんなさい。こうしているうちにも被害が拡がっているかもと、ちょっと焦りすぎました」


 確かに。すごくマラリアっぽいというだけで、私にも断定できるほどの材料はないのだ。そんな不確実なもので領の予算を動かすことなんてできないし、仮に領主命令で無理に実施したとしても……民衆からは「他にもやるべきことは多いのになぜこんなことにお金を使うのか」と、不満が続出するだろう。


 せめてマラリア原虫を見ることができれば診断と証明になるんだけど、この世界に顕微鏡なんて──あ。


「小さな虫……お見せすることができるかも知れません」


「そうなの?」


「はい。しばらく外出させて下さいませ」


「いいけど、どこへ?」


「アントワーヌ伯爵領へ!!」


「えええっ!?」


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