第01話 侯爵家はド貧乏
「うーん、かゆい……」
あまり寝心地の良くない布団でひとつ寝返りをうつと、私はパチリと目を開いた。
──あれ、ここどこだっけ?
目の前にひろがるのは、古びた石造りの洋館とおぼしき部屋だった。今寝ているベッドはくすんだ色の天蓋付きで、見事な木彫細工のわりには残念な寝心地のマットレスが敷かれている。
まあマットレスといっても、中身はよーく揉み込んだだけの麦藁を、いっぱいに詰め込んで作ったものだ。クッション性皆無でチクチクするのも、仕方のないことだろう。
あれ、私何でマットレスの中身なんて知ってるんだろ?
私、わたし、わたくしの名は……
「フロランス・ド・ロシニョル……」
自分の口から出てきた声音に驚いて、私はフリーズした。
あれ、私こんなに高い声だっけ?
いやいやそんなことより、私の名はミヤコ。
花野 都である。
ハッとして自分の手を布団から取り出すと、ガリガリに痩せこけた腕と小さな白い手が見えた。看護師になってから年々鍛えられていく腕、そして手洗いのしすぎで荒れ果てた手指とは大違いである。
私はがばっと飛び起きると、寝台から滑り降りた。なぜかあるこの部屋の記憶を頼りに、姿見の前に辿り着く。その瞬間、私はひどい立ち眩みを覚えてヘナヘナとその場に座り込んだ。
それは長いベッド生活から急に立ち歩いたせいか、それとも鏡に映る少女の姿のせいか。青ざめて痩けた頬、落ち窪んだ眼窩、真っ白な唇はカサカサで、とても十二歳のものとは思えない。
ん、十二歳?
なんで知ってるの?
その瞬間、理解は唐突に訪れた。
「ああ、そうか……」
これが、今の私。
無力で孤独な侯爵令嬢、フロランスである。
*****
あれから重い身体を引きずりベッドに戻った私は、ひと眠りして再び同じ部屋で目を覚ました。
「やっぱり夢じゃ……ない?」
さっきより幾分クリアな頭で状況を整理しながら、私はサイドテーブルに用意された水を飲む。
「えっ、なにこれ」
口の中がキシキシとして、思わず不平が口をつく。不潔という訳ではないが、ミネラル分がかなり多いのだろう。
だが同じ水をもうひと口含むと、今度はいつもの味だった。この一瞬で水の味が変化した訳ではない。ここで生まれ育った私にとって、このくらいの硬水は飲み慣れているからだ。
だが初めそれを口に合わないと感じたのは、日本の軟水を飲み慣れたミヤコの感想だろう。次に問題ないと感じたのは、こちらはフロランス──フロルの感想だ。
二人の境界はあいまいで、身体の持ち主であるフロルよりも情報量の多いミヤコの影響の方が、今は少し優勢といったところか。ミルクの中にほろ苦いエスプレッソを注ぎこんだような、もう二度と分離できないなんとも不思議な感覚だ。
なおミヤコの記憶は鮮明だがゆっくりとフェードアウトしていて、実のところ最期の記憶はない。だがあまり楽観的になれる状態ではなかったように思う。看護師としていくつもの死を看取ってきたが、苦しまないですんだのはまだ幸いだったと考えるべきなのだろうか。
そのとき。つい昨日までひどい悪寒にガタガタと震えていたのが嘘のように、ぐうーっと大きくお腹が鳴った。
状況を整理しきれないまま人と会うのはまだ怖いような気もするけど……空腹には勝てないや。私はお腹に手を当てて苦笑すると、勇気を出して呼び鈴の紐を引いたのだった。
*****
それからしばらくはバタバタと使用人や薬師が出入りして、ようやく落ち着いたのはその日の夜だった。
朝昼と重症者用のポタージュしか飲ませて貰えなかった後の待望の夕食は、この国では一般的な回復期の病人食である牛乳粥である。この国──ガリア王国民の普段の主食はパンだが、病人食に米のお粥を食べるのは日本と同じだ。
だがひとつ、大きく違う点があった。それは、米を「水と塩」ではなく「牛乳と砂糖」で調味しているという点である。
正直なところ前世ではありえないタイプの味付けだが、病気の時にだけ食べられるこの牛乳粥を、私は小さな楽しみとしていた。なぜなら砂糖は東方との交易でのみ手に入る、とっても高価なお品だからである。
そんな貴重品を日常のおやつに使うなどもってのほかで、砂糖は怪我や病気の際に滋養をつけるための万能薬というポジションに収まっていた。
でも、ちょっと待った。うちって今は砂糖を買う余裕なんてないはずじゃ……。
父の存命中は日本の庶民にとっての「ちょっと高級なメロン」程度の地位にあった砂糖だが、借金を抱えて困窮している今、どこからそんなものが手に入ったのだろうか。
私は頭を捻りつつも、翌日も朝昼全く同じメニューを平らげたのち、さすがにうんざりして食器を下げに来た女中のリゼットに声をかけた。
「病人用の甘いおかゆはもういいわ。そろそろ普通の食事に戻してもらえる?」
「かしこまりました」
「それにしても……お砂糖なんてどこから来たのかしら?」
食器をトレイに集めていたリゼットは、驚いたようにこちらを向いて手を止めた。これまでの私であれば、無言で食べるばかりでこんなことを聞かれるとは思いもよらなかったのだろう。
「お砂糖でしたら……大旦那様がお嬢様のご快復を願われ、御用商人に命じて手に入れられたようでございます」
「おじいさまが……。そういえば薬師を呼んだのも、おじいさまが?」
片付けを終えたリゼットから薬草が香り立つカップを受け取りながら、私はさらに問いかけた。
「左様でございます」
「そうだったの……。ありがとう、下がって良いわ」
リゼットが頭を下げて退出するのを見送ってから……元は上質だがかなり年季の入った寝具に、私はボフンと倒れ込んだ。
良く見ると毛織の掛布団も亜麻布の敷布も、ところどころ傷みを丁寧に繕われた跡がある。お砂糖に加えてこちらも高価な薬湯まで、とてもこんな経済状況で手に入ったとは思えない。
私はまだ少し重たい頭をひと振りすると、今は考えるのをやめてあまり厚みのない布団に潜り込んだ。
*****
「失礼致します。お食事をお持ちしました」
ドアが開くと共にふわんと美味しそうな香りが漂ってきて、私はいそいそと身を起こした。サイドテーブルに広げられたのは、大きな具がたっぷり入ったスープである。
ベッド脇に腰かけた私は食前の祈りも早々にお皿に木の匙を沈めると、まずスープをひとくち口に含んだ。口内にじゅわっと鶏ガラの旨味が広がり、唾液腺が刺激を受ける。ちょっぴり強めの塩味はシンプルだが、鶏と野菜のダシを引き立てるには最強の衣装だろう。
刃物を使わずひとくちサイズにほぐされたモモ肉は、強く噛みしめなくてもホロホロと口の中でほどけていくようだ。煮込まれて透明感を増した大根も鶏肉の出汁をたっぷりと吸い込んで、噛むほどにじゅわりと旨味が滲み出してくる。
私は夢中で匙を持つ手を動かすと、温かいスープを胃の腑に流し込んでいった。
身体の芯からすっかり温まったころ、ちょうどお皿が空になる。お腹は病み上がりにも程好い八分目といったところだろうか。
私は少しだけ考えたあと、ドアの前で控えていたリゼットを見上げた。別に私には言い慣れた言葉であるが、一方で恥ずかしがる私の意識がせめぎあう。
顔を真っ赤にしながらパクパクと何かを言いたげな私の様子に、心配したリゼットから声を掛けられそうになった寸前。
「あのっ、おっ……おかわりください!」
結果としてものすごい形相になってしまったせいだろうか。リゼットは困惑したのか、目ををぱちくりとさせている。一瞬の沈黙が下りたあと、彼女は小さく吹き出した。
いつも真面目なリゼットが吹き出すなんて……恥。私が真っ赤になってうつむくと、慌てたようにリゼットが駆け寄ってきた。
「ご無礼いたしまして、たいへん申し訳ございません! 私めはお嬢様が食欲を取り戻されて、本当に嬉しいのでございます。すぐにお代わりお持ち致します!」
いそいそと退出したリゼットを見送って、私はひとり微笑んだ。フロルは祖父の命令で事務的に対応する使用人達に距離を感じていたが、どうやらそうでもないようである。
急いで用意されたおかわりもぺろりと平らげて、私は再びベッドにもぐり込む。すっかり温もってお腹いっぱいになった私は、すぐにとろとろとまどろみ始め──やがて幸せな気分で眠りについた。