129話 理想と現実は別腹?
あの晩餐会から、一週間と少し。塩分とカロリーをカットした美容食について書かれた献立集は、すっかり貴族の間でベストセラーとなっていた。SNSどころか電子メールすらないのに情報の共有がやたらと早く感じるが、この国の貴族はよほど暇を持て余しているのだろうか。
王宮でのいつものティータイムの席上でも『今人気の献立集』が話題に上がったところで……私はこのところすっかり仲良くなっていたアウロラ様に、こっそりといった体で手を口元に当てながら囁いた。
「実はあの献立集、わたくしがおじい様の健康を願って当家の料理人と共に考えたものですの」
「まあ、あの本も貴女が?」
「はい。健康を第一に考えた献立ばかりですから、ぜひアウロラ様にも召し上がっていただきたく存じます」
「前エルゼス侯爵のために考えられたものならば、陛下にもよろしいんじゃないかしら。ふふふ、要望を出してみるわ」
「有難き幸せに存じます!」
侍医のテリトリーにはけっして侵入することなく、妃殿下のお友だちとして毎日バイタルを確認し、調子が良ければお庭の散策に連れ出して、健康的な食事をお勧めする。地道なことだが、体調管理は日々の積み重ねが重要だ。
なお妃殿下に献立集の話をした後で、同じテーブルを囲んでいた侍女さんたちにも「秘密で」とお願いしつつ本を配ろうとしたところ、まさかの既に半数以上が持っていた。職場が同じとはいえ、あのジャン=ルイのファンがここにもたくさん居たとは……ちょっと顔に騙されてる人多すぎじゃないの。まあ遠くから鑑賞してアイドル的に楽しむだけなら、実のところの性格が悪かろうと、どうでもいいのかもしれない。
その後も美容に良いという点を侍女さんたちに散々アピールして盛り上げてから、私達は恒例のお散歩へと出ることにした。
いつもの説話を始める前に話題に上がったのは、最近貴婦人の間で写本が出回っている恋愛小説の話である。身分を超えた禁断の愛を描いたその小説は、二人が心を通わせる様子が繊細な心情と共に描写されていて、ここにも多数いるロマンス読者たちの心を鷲掴みにしていたのだった。
「あんな風に素敵な言葉をくださる殿方が、現実にも居たらいいのに……」
ほうっとため息をついて、オレリア嬢が頬に手を当てる。その姿を見ながら、私も同意するように深くうなずいた。
「ええ、本当に。現実に届く縁談なんて『この結婚がいかに有益であるか』を並べ立てるものばかりですものね……」
私の言葉にさらに追随するかのように、周囲の侍女さん達からも賛同の声が上がった。中にはラテン系らしく情熱的な恋人のいる侍女さんもいたが、なかなか不満は尽きないらしい。そんな彼女たちの話を興味津々で聞いていると、この中で唯一の既婚者である妃殿下が笑いながら言った。
「物語の中では確かに愛情表現の上手な殿方が素敵だけれど、現実では口の上手な方ほど愛情深いとは、限らないものよ。わたくしなんて昔、甘い言葉に踊らされてしまって……痛い目に遭いかけたのだから」
そう言って珍しく苦笑いを浮かべるアウロラ様に、私達は揃って目を丸めた。夫婦円満で幸せいっぱいに見える王太子妃殿下に、そんな過去があったなんて。
「まさか、妃殿下に対しそんな不埒を企む者など居たのですか!?」
侍女さんの驚きに応えるように、妃殿下はうなずきながら言う。
「ええ。でもそのお陰で、今わたくしは夫とより深く分かり合うことができたのかもしれないけれど……うふふ、では今日のお話は、わたくしの昔話でもいいかしら?」
「ええ、ぜひお聞きしたいです!」
「では、これはこの国に嫁いでくる一年ほど前の話なのだけれど……あの頃わたくしには、まるで物語から出て来たような『素敵な婚約者』がいたのよ――」
こうして始まった妃殿下の物語に、私たちはワクワクしながら耳を傾けた。
――お散歩の間に毎回一話を披露していたお話の会は、妃殿下やオレリア嬢、そしていつの間にか趣味を通じて仲良くなっていた侍女さん達の話のターンも交えるようになりながら、もうひと月近くを数えている。そんな想定以上に気が合ったメンバーで共に過ごす時間は、私にとって純粋に楽しみなものとなっていた。
そしてまた翌日の、昼下がり。その日も伺った挨拶代わりにまず血圧のチェックを行っていると……妃殿下が言った。
「あなたの聞かせてくれる説話はどれも面白いものだけれど、どうやってそれほどのお話を集めたの?」
「外国の説話は、当家の御用商人から聞いたのです。その者は交易を通して色々な国の話を聞く機会が多いようで」
これは半分本当だ。これまで披露した説話のうち半分くらいは、子どもの頃にギィから聞いた、この世界に伝わる本物の説話である。
「まあ、商人からだったのね! 確かに商人たちは外国とも行き来があるだろうから、わたくしも次に商人を呼んだら聞いてみようかしら? それにしても最近は外出もままならなかったところだから、こんなに日々楽しめるとは思ってもみなかったわ。本当に、貴女にはお礼を言わなくてはね」
そう言って微笑む妃殿下に、私はごく自然に笑みを返しながら考えた。
これでいい。私も別に産科の専門という訳ではないのだから、侍医と対立してまでこれ以上のケアをごり押しする必要なんてないのだ。侍医の注意に私がおとなしく引き下がる態度を示した以上、妃殿下に万一のことがあれば、責任は侍医のものとなる。
そのとき私は「もっと早く、私に全てを任せておいてくだされば……」と、悔しげにつぶやくだけでいいのだ。逆に無事生まれたら「散歩と食事療法が効きましたわね」と、お友達であるアウロラ様に向かって訳知りっぽく微笑めばいい。
責任は取らず、だが功は取る。初産ではないのだし、今はとにかく、アウロラ王太子妃殿下と仲良くしているだけでいい。そう、それでいい。歯がゆいが、今の私の立場ではそれだけしかできることがないのだ。
だがもしこの血圧計が、ひどい値を示したら。それでも私は「それでいい」と、黙っていられるのだろうか。
「フロル、どうしたの? 眉間にしわが寄っていてよ?」
血圧計の目盛りを見つめながら、思わず厳しい表情をしてしまっていたのだろうか。柔らかな指先で額をツンとつつかれて、私はハッとして我に返り……そして目の前の女性の笑顔を見ると、ひとりでに笑みがこぼれた。
この可愛らしいお母さんが、どうか無事出産を迎えられますように。
誰も、悲しむことのないように。
今はただ、願うのみである――。




