126話 世嗣に生まれし子の悩み
あれから三日。私は何だかんだと理由をつけて、妃殿下のバイタルチェックと散歩の日課をこなしていた。妃殿下の血圧は少し高めの数値を示しているが、今すぐ危険な水準ではない。とりあえずは現状維持を行いつつ、徐々に改善を目指して行けばいいだろう。
そんな状況の今日、オレリア嬢は用があるとのことで、一人で帰途につこうと回廊を歩いていた時である。
中庭側に定期的に並んでいる太い柱の影から、ひょっこりと小さな頭が現れた。
「フロランス嬢、いま少しよいか?」
「これは、シャルル殿下におかれましては、ご機嫌うるわしゅう存じます」
私は驚きつつも腰を落として、しっかりと淑女の礼をとる。だがふと違和感に気が付いて、さり気なく周囲に目をやった。
「あの、お付きの皆様は」
「……昼寝をしているフリをして、まいてきた」
え、それって大丈夫なの!? 一緒に居る所を見つかったりしたら、これ私が怒られるヤツなんじゃ……!
私がそんな保身に走ったことを考えていると。どこか元気のない様子で、王孫殿下は口を開いた。
「……わたしはそんなに、ダメだったのか?」
「何がでございましょう?」
私がきょとんとして聞き返すと、王孫殿下はますますシュンっとした様子で言った。
「忘れてしまったのか? わたしとの婚約を、そなたが拒否したことを……」
「あ、申し訳ございません! 殿下がダメという認識が全く無かったもので、記憶が結び付かなかったのです!」
私は慌てて手を振り本気で否定したが、上手く伝わらなかったようである。
「だが現に、そなたは断ったのだろう? やはりわたしが弱く、頼りないからだろうな……」
「いいえ、そんなことはございませんわ。ただ、わたくしにとって、王太孫殿下の婚約者の地位は過ぎたるものだったというだけでございます。それに、まだお若い殿下には多くの可能性がございますわ。義務感などで決めてしまうのは早計というものです」
「可能性、か……。わたしはいずれ、王とならねばならぬ。だが王として臣を率いてゆくには、わたしは体が弱い。この一年、そなたを見返してやりたくて、少しでも鍛えようとしたのだが……鍛錬を受けるとすぐに、咳が止まらなくなるのだ」
王孫殿下は自らの服の胸元をくしゃりと掴むと、辛そうな顔をして言った。
やはり……この間の咳の様子を考えても、殿下には小児喘息の疑いがある。この国の平均的な十二歳より薄めな胸板も、体形の遺伝だけが理由ではないのかもしれない。
「母上のお腹にいる子が、もし男子なら……わたしなどすぐに追い抜かれてしまうのではないかと考えると、怖いと思ってしまうのだ。だがいっそ弟に全てを任せて廃嫡してもらえば楽になれるのにとも……思ってしまう。やはりわたしはダメだな。こんなことを考えてしまうなんて」
殿下はそう言うと、まだ十二の少年のものとは思えないような……皮肉気な笑みを見せた。
――小児喘息はその七割が、成人までに症状が落ち着くものである。しかしこの少年は、いずれこの国の王として立つ身なのだ。魔族による支配からの独立の象徴でもある国王には、伝統的に戦士としての強さも期待されている。そんな環境下で満足に鍛錬が進められないのは、プレッシャーもかなり大きいだろう。
ならば何か、身体への負担が少なく出来る運動を見付けられたら、少しは気分も軽く出来そうなんだけど……そうだ!
「殿下は、水練をなさったことはおありですか?」
「水練……は、ほぼないが」
「ならば、一度試してみてはいかがでしょう。水練であれば、運動しても咳が出にくいはずでございます」
「そうなのか? だが水、か……」
殿下は溺水の恐怖を思い出したのか、わずかにその顔を青ざめさせた。……無理もないことだろう。
なお喘息がスイミングで改善できるという説は、実は都市伝説の一種である。正式に研究が行われた結果、水泳教室に通ったグループと通っていないグループで、症状の改善に明確な差は出ないことが分かったのだ。
だが運動で喘息の発作が出やすい理由は、舞い上がった埃を激しい呼吸で吸い込んでしまうからではないかと言われている。その点スイミングであれば埃があまり立たないので、発作がおき難いというわけだ。
地球には良い薬があるからどんな運動でもできないことは無かったが、この世界には吸入ステロイド薬はない。発作のおきにくい状況で基礎体力づくりが出来て、さらに泳げるという自信が付けば、とっさに水に落ちたときにパニックになることもなくなるだろう。
「この宮殿の敷地内には、水練ができる設備はございますか?」
「いや、王都の外れにある離宮の方に……王族はそこで夏場に避暑をかねて水練を行うのが慣例なのだが」
「ではよろしければ、この夏はわたくしも水練にお付き合いいたしますわ!」
私が自らの胸に手を当てつつ笑うと、王孫殿下は素っ頓狂な声を上げた。
「水練に!? そなたが!?」
「ああ、そういえばガリアは貴婦人が水練を行うことはないのでしたね。わたくしの母の祖国ロマーニアは海岸線の多い土地がら、貴婦人も一通り水練は行うらしいのですわ。でも、そうですわね……残念ではございますが、わたくしは見学させていただきます」
「だが……大丈夫だろうか?」
まだ不安そうな殿下に、私は安心させるよう自信たっぷりに笑って見せる。
「もちろんです。一緒にがんばりましょうね!」
「そなたがそこまで言うのであれば……父上に頼んでみようかな」
そう、ようやく良い感触を引き出したところで。
「シャルル殿下、こんなところにいらっしゃったのですか! 侍女たちが探しておりましたぞ!」
声の聞こえた方へ、慌てて顔を向けると。そこには怒りの形相を浮かべて近付く、法衣を着た男性の姿がある。
「そこなるお前は、エルゼス侯爵令嬢ではないか!? 殿下をお引き止めして、何をしておるのだ!」
「……しまった、もう見つかったか」
その男性の顔を確認するなり、シャルル殿下はそう小声で呟いた。