125話 間違いだらけの妊婦ケア
数日後。アウロラ王太子妃殿下のお召しにあずかった私は、オレリア嬢と共にパリシオルム宮殿の大回廊を奥殿の方に向かって歩いていた。
この宮殿の建物の配置イメージは、少しだけ京都御所に似ている。各殿の建物が大きな中庭の四方をぐるりと四角く囲むように立ち並び、それを大回廊でつなぐような構造になっているのだ。中庭にも温室などいくつか小さな建物は存在するが、基本的には屋外パーティなどが開かれるための空間である。
中庭に面して開放廊下になっている回廊には、屋根こそ付いてはいるものの、気温は外気そのものだ。ここパリシオルムは緯度としてはほぼエルゼスと同じくらいだろう北部にあり、冬場は日照時間がかなり短く、厳しい寒さが続く気候である。だが今日は珍しく小春日和のポカポカ陽気で、お気に入りの白いダウンコートが少し暑く感じるくらいだろうか。
やがて到着したのは、奥周りにある王太子妃殿下の住まう棟である。私たちは前室でコートを預けると、妃殿下の待つ部屋へと通された。金彩や絵画で彩られた豪華な内装を持つ部屋には、暑いくらいに暖房が効かされている。コートを着ていなくても、少し動いたら汗ばみそうなほどだ。
部屋の奥で待つ妃殿下の前まで進み、私たちが型通りの挨拶を述べると。妃殿下はソファに深く座ったまま鷹揚にうなずいて、にこやかに言った。
「フロランス嬢、会いたかったわ。それにオレリア嬢も! 今日は来てくれてとても嬉しいわ。どうぞ、まずはお座りなさいな」
この国の王太子妃には、外国から王女を迎えるのが慣例である。理由は単純で、法術師はその法力を保つためにと血族婚に行き着きがちだからだ。そんなアウロラ妃は、西大陸でも北方にあるスウェキアの王女様だったらしい。銀に近いプラチナブロンドと淡いブルーの瞳を持つ、まるで妖精のように華奢な美人……だった。
オレリア嬢と共にことわりを述べてから、用意された席に着く。すると妃殿下は豊かな胸の前でプニプニとした手を合わせ、満面の笑みで言った。
「新作、読んだわよ! これまでは『桃の聖女と三人の騎士』が一番お気に入りだったのだけど、新作の『月の姫君と六人の貴公子』も甲乙つけ難いわ!」
それから妃殿下は、お気に入りのキャラとシーンについて熱く語り始めた。かぐや姫のネタが終わると次は別のシリーズに移ってトークは続く。やがて話が一段落したタイミングで、私は驚きを隠せないまま口を開いた。
「まさかアウロラ様に全作品読んで頂けているなんて、驚きました。本当に光栄に存じます」
昨シーズンもシャルル殿下の蘇生の件で何度かお話する機会があったけど、あれは公務モードだったのだろうか。まさかこんなヲタ気質……いやいや、親しみやすいお方だったとは。
「それがここのところ全く外出させてもらえなくて、とっても読書が進むのよ。でもたくさん読んだ中でも貴女たちの作品はお気に入りばかりだから、今日は本当に嬉しいわ!」
今にもテーブルを越えそうなほど身を乗り出す妃殿下に、傍らの侍女長が窘めるように言った。
「アウロラ様、あまり興奮なされては、お身体に障ります」
「ああ……そうだったわね」
妃殿下は少しだけしょんぼりとした顔をしながら、ソファに深く座り直した。
侍女長たちがやたらと妃殿下に過保護に接しているのには、理由がある。どうやら彼女は、現在妊娠六か月くらいにあたるらしいからだ。
妊娠中期で、通常まだそれほどお腹は目立たない頃合いのはずなんだけど……昨シーズンに謁見した時には華奢すぎるぐらいの印象だった妃殿下は、かなりのぽっちゃりさんになっていた。元々骨が細いタイプのようだから、余計にプニプニとして見えるのだろうか。
だがその理由は、続けて近況を伺っているとすぐに明らかになった。元々がかなり細身な方だからと、妊娠が判明してから周囲に「とにかく栄養付けろ!」と言われてハイカロリーな食材ばかりを摂らされているらしい。
「最近ようやく元気そうになったと、お墨付きをもらったのよ。でもばあやからまだまだ食べなさいと言われていて、この有様なの。どうか貴女たちもたくさん食べて手伝ってね」
目前のテーブルに広がるお茶菓子達に目をやって、妃殿下は頬に手を当ててため息をついた。『ばあや』というのは母国から連れてきた侍女長のことらしいが、どうやらこの国の侍医たちも同意見らしい。
「しかも転んだりすると危ないからって、遠出どころかお庭すらろくに歩かせてもらえないのよ? 読書と音楽くらいしか楽しみがなかったところだったから、貴女たちの説話集には本当に救われたわ」
「それは……大変光栄にございます」
私は顔では微笑みつつも、だが内心では苦い顔をしていた。
……妃殿下に行われているケアは、妊婦には逆効果なものだろう。体重は増えすぎてはいけないし、適度な運動が必要なのだ。
地球の昔の貴族も、平民より難産が多いと言われていたらしいけど……こっちも貴族に難産が多いと言われる理由は、このハイカロリーと運動不足が原因になっているんじゃないだろうか。平民だったら良いものを食べたくても限界があるし、生活のために妊娠中も働かざるを得ないもんね……。
元々細いお方がこんなにも急激に体重を増やして、妊娠高血圧症候群など大丈夫なんだろうか……と、私が心配していると。
「失礼するわ」
妃殿下が席を立ち、そしてすぐに戻ってくる……二時間程度の会話の中でそれが頻繁なことに気がついて、私はとっさに席を立った。
「わたくしも、失礼いたしますわ」
王族とは設備が分けられているかと思ったが、案内されたのは目論見通りどうやら同じ小部屋である。この世界の御手洗って、日本人からするとありえないほど予算の優先順位が低いのよね。
御手洗の中で、私はミヤコが忘年会で聞いた産科の教授の話を思い出していた。
『タンパク出てる尿を煮たらさ、溶き卵みたいに濁るんだよねぇ。なのに最近の若いやつはすぐ分析にまわすんだよね。煮ればわかるのに!』
『いや、そんなの煮るとかありえないですよ!』
なんて会話をしたものだが……まさかこんなところで役に立つとは。
大きな白い陶製の器に向かい、私は小さく呪文を唱え――
――数分後。色んな意味で消耗した私は、小部屋を出た。
うん、すごくざっくりとだが、タンパク+の可能性は高い!
タンパク+は腎機能の低下を示し、妊娠高血圧症候群の可能性が高いことを示している。妊婦は腎臓にも負担がかかるから、塩分カットは強く提案しなければならないようだ。さらに少しずつ運動して、体重も徐々に減らしていった方がいいだろう。
もっと出来ることがあればいいのだが、残念ながらお産の専門知識は殆どない。ミヤコの大学は助産師課程が大学院からだったから、そこまでしなくていいやとスルーしていたのだ。
それでも出来そうなことはといえば、まずは一緒にお散歩することだろうか。急に王族の食事レシピを変えてくれなんて、提案したところで通るとは思えないし――そんなことを悶々と考えていると。
「今日はとっても楽しませてもらったから、ご褒美をあげたいのだけれど。何か希望はあるかしら?」
渡りに船の提案に、私はすかさず口を開いた。
「では……中庭を拝見してもよろしいでしょうか。ちょうどここに伺う途中に硝子の温室を見かけたもので、気になっていたのです」
「ええ、いいけれど……そんなことで良いの?」
そう目を丸めて言ってから、アウロラ様はチラリとオレリア嬢の方へと目をやった。
「あ……勝手に答えてしまって、ごめんなさい!」
先にこんな謙虚っぽい答えを出されてしまったら、オレリア嬢が自分の希望を言い出し難くなってしまうだろう。だがオレリア嬢は眼鏡ごしに人の良い笑みを浮かべると、同意するようにうなずいた。
「いいえ、わたくしもちょうど、あの温室を拝見したいな、と、考えていたところですの」
そうしてこちらに視線を向けると、にっこり笑う。では、お言葉に甘えて……
「よろしければ、妃殿下にもご一緒いただけませんか? 冬に咲く薔薇を見ながら、それにまつわるお話などひとつ、いかがでしょう」
「まあ、素敵ね! ねぇばあや、いいでしょう?」
渋い顔をする侍女長をなんとか説き伏せて、私達は中庭へと向かった。
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「ご褒美をあげたいと思っていたのに、逆に楽しませてもらってごめんなさいね。でもとても楽しかったわ! それに久しぶりにお散歩したら、なんだかいつもより体も軽い気がするの」
「あの……よろしければ、またこうしてお側に侍らせて頂けませんでしょうか。もっとたくさん、聞いていただきたい説話があるのです」
「もちろんよ! 次はいつがいいかしら?」
「では……明日にでも」
「明日!?」
「はい」
驚いたように目を丸める妃殿下に、私は出来るだけ明るく笑いかけた。
「許されるならば、毎日でも!」
もっと上手に誘える言葉を思い付けたらいいんだけど、私にはこれで精一杯だ。短い言葉に、ありったけの誠意を込めるしかない。
だがそこで、私はオレリア嬢がそわそわと私とアウロラ様に交互に視線を動かしていることに気が付いた。――しまった、またオレリア嬢の都合を忘れて困らせてたかも!
「あの、オレリア様、またわたくし勝手な提案をしてしまいましたが、オレリア様はきっとご予定が……」
「わたくしも、ご一緒してよろしいのですか?」
「もちろんですわ」
オレリア嬢は嬉しそうな顔をすると、意を決したように口を開いた。
「その、よければわたくしも参加させていただけましたら、と……!」
「まあ! ふふふ、嬉しいわ。ではこれから毎日のお茶の時間を、貴女たちと共に過ごすことといたしましょうか」
「有り難き幸せに存じます!」
私は満面の笑みを浮かべると、思わずオレリア嬢と小さく両手でタッチを交わす。こうなったら明日は早速、血圧計セットを持ってこよう!
しかし散策中も妃殿下の三歩後ろに随伴していた侍女長が、それを聞いて眉を顰めた。
「妃殿下、僭越ながら、あまりご無理をなさいましては……」
「ねぇばあや、わたくし今、とっても気分が良いのよ。気分転換もたまには必要なのではないかしら」
「それは……仰せの通りにございます……」
有無を言わさぬ妃殿下に、侍女長はしぶしぶといった表情で引き下がった。そして妃殿下から見えない角度で、ジロリとこちらへ視線を寄越す。
――その時である。庭に面した回廊に小柄な人影が現れると、こちらへ向かって駆けて来た。
「母上、フロランス嬢が来ているらしいではありませんか! なぜ教えてくださらな……」
母親そっくりの淡い金髪を持った少年は、そこで言葉に詰まると、立ち止まって激しく咳き込み始めた。
とたんにワラワラと王孫殿下付きの侍女たちが現れて、瞬く間に人垣が作られる。どうやらあの溺水事件があってから、こちらも過保護に拍車がかかったらしい。
結局今日の訪問は、その騒動でお開きになったのだった。